episode.1 狂い咲く華
父と弟を同時に亡くした。そのとても信じられないような出来事に鈍器で殴られたような衝撃を受けつつも、私は母のところを目指すことにした。きっと母も心に傷を負っているだろう、と考えたからだ。一人では辛すぎても、二人でなら何とかなるかもしれない。そんな淡い希望を抱こうと努力しつつ、私は一人廊下を歩く。
廊下は基本いつも静かだ。そして、それは今も変わっていない。
二人が落命したなんていうのは嘘なのではないか、なんて、少し思ってみたりする。けれども、そんな夢は束の間のものでしかないのだろう。夢は所詮夢。どんなに夢みても、夢が真実になる可能性は低い。特に、今回のような場合は。
もう数分もかからず母が暮らしている部屋にたどり着く、という時。
金切り声にも似た叫び声が聞こえてきた。
「何を言っているの! 嘘をつかないで! 縁起でもない嘘は止めるのよッ!!」
聞き取れないことはないが聞き取りづらいくらい、激しく刺々しい言い方。私は驚いて、思わずその場で立ち止まってしまった。それほどに高く鋭い声だったのだ。
付近には母の部屋しかない。とすると、今の声の主は母なのだろう。けれど、今の声が母のものだとは、とても思えない。私が知る母はあんな金切り声を発するような人ではないのだ。
その時ふと思い出す。
知らせに来てくれた女性が「ご乱心のようでした」と言っていたことを。
もしそれが真実なのだとしたら、先ほど飛んできた声が母のものだとしても説明はつく。人間誰しも、別人のようになるリスクははらんでいるのだから。
「止めてッ!! それ以上話さないでッ!!」
金切り声のような声はまた飛んできた。
やはり、母が正気を失って叫んでいるという説が真実に近そうだ。
「落ち着いて下さい! 王妃様!」
「まずはお座りになって……!」
鋭い叫びは一旦止まったが、今度は人が何か言う声が飛んでくる。
叫びよりかは落ち着いた声だが、心なしか焦りの色が滲んでいた。
もし母が皆に迷惑をかけているなら、私が止めなくてはならない。役立たずだけれど、私は彼女の娘なのだから。そんな風に考え、私は再び足を動かし始めた。
「何の騒ぎ……ですか」
王妃の間は入り口が開け放たれていた。
そしてそこには、見たことがないような顔をした母とそれを取り押さえようとしている女性たちの姿があった。
真っ直ぐ進んだ先に見える大きな窓は開いていて、外からの風が入り込んできている。
「あぁ王女様……! ちょうど良かった……!」
鬼のような形相の母を押さえようとしていた侍女たちの中の一人、母の右腕を握っていた女性が、救世主を見るような目でこちらを見ながら駆けてくる。
「母に何があったのですか」
私は誰にも触れてはならない。どんなに寄り添いたくても、この手で触ることは許されない。だから私は、さりげなく両手を背後に回す。
「国王陛下のことは既にお聞きになりましたか!?」
「えぇ。それは聞きました」
「王妃様にもそのことをお伝えしたのですが……それによって、正気を失われて……!」
「そういうことでしたか」
私の予想はおおよそ当たっていた。けれども、母がまさかここまで酷い状態になっているなんて。そこまでは予想していなかった。今の母は完全に正気を失ってしまっている。これではもはや、王妃だなんて言えたものではない。
絹の糸のような煌びやかな金髪も、長い睫毛も、身にまとっているマーメイドラインのドレスも、失われたわけではない。外見は昨日までと何も違っていない。
それなのに、その表情もはや別人。
悪魔でも憑いたかのようだ。
「私が母と話します」
正直なところ、今の母の様子にはかなり動揺している。ここまでか、と。けれど、その動揺を明らかにしてしまえば、侍女たちはより一層不安になってしまうことだろう。だから私は、冷静に見えるよう振る舞う。
侍女に押さえられつつも何やら叫んでいる母のもとへと行き、声をかける。
「落ち着いて、母さん。私よ。話を聞いて」
母はまだ何か叫んでいる。が、もはや何を言っているのか聞き取ることさえできない。分かるのは、今の母が意思疎通できる状態ではないということだけ。
「落ち着いて。落ち着いてちょうだい」
そう言うが、聞き入れてもらえない。
どう対処しようか——少し考えていると。
「あっ」
「きゃ……!」
母の体が侍女たちの腕からすり抜けた。母は私のことなど一度も見ず、開け放たれている窓の方へと駆け出す。それも、幼い子が走っていくかのような全力疾走で。金の髪を乱すことさえ気にかけず足を動かす。
そして、窓枠へとよじ登った。
私の近くにいた侍女たちの表情が急激に焦ったものへと変わる。
「ええっ……!」
「お、王妃様! 何をなさるおつもりです!」
場の空気が一気に緊迫したものへと変化した。
この国の王妃たる人が窓枠に乗っているのだから、緊迫しても仕方ない場面かもしれないが。
「お戻り下さい、王妃さ——」
「無駄よ!!」
侍女の言葉など聞かず、鋭い叫びばかりを放つ母の頬には、一筋の涙が伝っていた。
それは、美しさをはらんでいるが、あまりにも悲しい涙だった。
「もう何を言っても無駄! すべて終わりよッ!!」
そう叫び、母は窓枠を蹴る。
ものの数秒でその姿が見えなくなってしまった。
「……母、さん」
私はただ小さく呟くことしかできなかった。窓から落ちられたら、それを追うことなどできない。
「あなた、下へ見に行って!」
「は、はい!」
王妃たる人が窓から飛び降りる光景を目にしてしまった侍女たちは、皆、揃って青い顔をしていた。次の行動へ移ってはいるが、健康的な顔の色をしている人はいない。
そして、私もまた、目の前で起きたことを理解できていなかった。
なぜこんなことになったの? どうして私や私の家族がこんな目に遭わなくてはならなかったの? そんな疑問ばかりが脳内を巡る。
私はただその場に立ち尽くすことしかできない。
開け放たれた窓から入り込んでくる風は悲しいくらい穏やかで、私が身にまとっている淡い青色のワンピースを微かに揺らしてゆく。
晴れ渡る空をぼんやり見つめていると、部屋に残っていた一人の侍女が声をかけてくる。
「セルヴィア王女……あの、すみません……あのような」
その声は震えていて、怯えているか弱い小動物のよう。
「……気にしないで下さい」
それだけ返し、ただ空を見上げる。
私にできることは何かないのか、と、密かに思いながら。