episode.15 サイン書きを終わらせて
威圧感を全身から放ち続けるしかめっ面の男性とは、まだ仲良くなれそうになかった。
私と彼の関係に今のところ変化はない。二度目なら多少は変わってくるかもと淡い期待を抱きかけたが、そんなものは子どもが語る夢物語でしかなかった。
「彼、出ていってしまいましたね……」
「すまないね。気難しいんだ」
「もしかして私……怒らせてしまったのでしょうか……?」
「あぁ、べつに、王女様は悪くないよ」
カンパニュラと呼べと言った男性はとっくに出ていってしまった。が、リーダはまだ王の間に残ってくれている。
「ちょっぴり気難しいんだ。ちなみに、彼のフルネームはティマト・カンパニュラという」
「おしゃれなお名前ですね」
深い意味はないが感想を述べてみる。するとリーダは爽やかに笑った。
「はは。面白い感想だね。彼はあれでも領地持ちの息子でね」
「そうだったんですね」
「でも、カンパニュラ家の者が代々受け継いできた力を彼は持っていなかった。それで、まだ小さかった頃に母親と二人家を追い出されたそうだね」
そんな個人的な事情を他人にペラペラ話して良いの? と思ってしまう。
もし私が彼だったとしたら、複雑な事情を親しくもない人に話されるのは嫌かもしれない。
「ただ、力を継承しなかったからこそ、彼は強くなった。母の身を護るために」
リーダから話を聞けるのは楽しいが、こんなことをしていてはサイン書きが進まない。渡されている書類にサインをする時間は、今まさに削られていっている。
このままではまずい……かもしれない。
「……ちょっと、意外。でも、素敵です。とてもお母さん思いなんですね」
「ふふ、そうなんだ。我が『なんでも隊』に加入する際にも、働く代わりに母を安全な場所へやってほしいと言ってきたくらいでさ」
サインをする時間が削られるのは辛いけれど、カンパニュラのことを知ることができて嬉しくもあった。
「それで、今はお母さんはどちらに?」
「都から離れた田舎の街で暮らしているよ。あたしの知人が持ってた家で生活してる」
「それは良かった……!」
こうしてリーダの話を聞いていたら、カンパニュラが実は善人なのではないかと思えてきた。
それと同時に高まるのは「親しくなれる可能性」への期待。
母を大切にする心があるのなら、根は悪い人ではないのだろう。それならば、いつかは仲良くなれる気がする。もっとも、現時点では「気がする」程度でしかないけれど。
「あたしはこれから扉の向こうにいる。何かあったら気軽に声をかけてくれ」
「ありがとうございます……!」
リーダは部屋から出ていく。私はようやくサイン書きの仕事に戻ることができた。多少削られはしてしまったけれど、時間はまだある。前向きにそう考えて、私は作業に取り組んだ。
「書類多すぎですわね、セルヴィア様」
「えぇ……」
「こんなちまちましたことが仕事だなんて、びっくりですわ」
「同感だわ」
でも、私にはこのくらいの地味な仕事の方が合っているのかもしれない。戦いなんてできないし、人々の前に出ることも得意ではない。そんな私にできることといったら、サイン書きくらいのものなのかもしれない。
夜が近づく頃、書類にサインをする作業が終わった。
今日中に済ませなくてはならなかった。が、個人的には、かなり危ういだろうと想像していた。間に合わないかもしれない、というのが、私の正直な思いだったのだ。
けれども、努力して作業を進めていたら、何とかすべて片付けることができた。
「終わられましたのね!」
サイン書きを終え、汚れたインク瓶の口を布で拭いていると、リーツェルが軽やかな足取りで接近してきた。
「えぇ」
ファンデンベルクは今日も窓辺にいた。
ぽつんと置かれていた椅子に腰掛け、手の甲に黒い鳥を留まらせて、どこでもないところをぼんやりと眺めている。
相変わらずの振る舞いである。
「では夕食ですわね!」
「そうね。でも、その前にしたいことがあるの」
「したいこと、ですの?」
「実は……母に会いに行きたいの」
夫と息子を亡くしたことで正気を失い、窓から飛び降りた母。命は取り止めたと聞いているが、もうしばらく会っていない。
「お母様はどちらにいらっしゃるんですの?」
「飛び降りたの。父とフライが亡くなったと知った時に。それから、ずっと寝ているの」
「そうでしたのね……」
リーツェルに気まずそうな顔をさせてしまい、心が痛む。
彼女はただ話として聞いてくれただけ。それなのに気まずさを抱えさせてしまったりしては、迷惑をかけているとしか言い様がない。
「ちょっと行ってくるわね」
「あっ……その、よければ同行しますわよ……?」
「大丈夫よ。このくらいなら」
「は、はい。そうですわよね! その通りですわ! その……ごゆっくり」
あぁ、どうして、言葉を交わすたびに気まずさが増してしまうのか。私も彼女も歩み寄ろうとしているのに、なぜか、言葉が行き交うたびに何とも言えない空気が漂ってしまう。
母のことはまだ話すべきではなかったのかもしれない……。
そんな薄暗さを抱えつつ、私は一人王の間から出る。
辺りに人はいなかった。リーダくらいはいるだろうと想像していたが、本当に誰もいない。ちらちらと辺りを見回しても、人影は見当たらなかった。
だが、それは、私としては幸運なことだった。
誰にも邪魔されず母のところを目指すことができるから。
そんな風に現状を前向きに捉えて歩き出そうとした、その時。
「どこへ行く?」
突如声がした。
驚いて振り返ると、灰色のスーツをややラフめに着用した男性——カンパニュラがそこにいた。
「あ……」
「夜に一人で出歩こうとは、危機感がなさすぎる」
「カンパニュラさん……でしたよね」
「そうだ。で、一人でこっそりどこへ行こうとしていたのか」
グレーとラベンダーカラーを混ぜたような色みの髪をオールバック風のヘアスタイルにしているが、よく見てみると数本の毛だけが額の方へぴょこんと飛び出していて、どことなく愛嬌を感じられる。が、顔面からただならぬ威圧感が漂っていることに変わりはない。
「母に、会いに行こうと思って」