episode.142 王は去り
ロクマティス王は去った。
強く欲してきた平穏——それを手にできる日へと、大きな一歩を踏み出すことができたかもしれない。
とはいえ、問題はまだまだ山積み。平穏など、平和など、そう簡単に手に入れられるものではない。が、武力を行使しすべてを抑え込もうとするオーディアスの時代が終わったことは大きい。それは確かだろう。
オーディアスの死後、キャロレシアとロクマティスは戦いをやめた。
手を取り合い共に未来へ行く、なんてことは、さすがにまだできなかった。長らく悪かった両国の関係を良いものへと変換することは容易ではなかったのだ。
それに、ロクマティス側にはまだキャロレシアをよく思わない派閥が存在している。
その者たちは、キャロレシアと手を取り合う道を選んではくれなかった。
だが「今はそれでいい」と受け入れた。いきなり「仲良しになれ」なんて言うのは酷だろうと思ったから。
負の関係から始まり、長い間交流も避けてきた二国。簡単に親しくなれるとは、さすがに私も思っていない。無知寄りな私でも、そのくらいのことは察することができる。
だが、次の新たな世代が活躍する時代になれば、ロクマティスも変わるだろうと想像している。
これまでの考え方に少しでも疑問を持てる者が現れてくれたなら。リトナやプレシラのように、歩み寄ろうと考える者が少しでも増えてきたとしたら。キャロレシアとロクマティスの関係性は、きっと、良い方向へと展開していくはずだ。
両国の未来に光がありますように。
今はそれだけを望む。
◆
「書類をお持ちしました、王女」
「あ。それね、ありがとう」
オーディアスの死後、一ヶ月が経った。
ひとまず戦いから逃れることはできた。が、事務処理が非常に多く、どさくさに紛れて今までで一番忙しいかもしれない。戦いが終わったことはありがたいのだが、こなさなくてはならない仕事量は豪快に増大してしまっている。
だが、この忙しさは、嫌な感じの忙しさではない。
進みたい道へ進めている実感が湧くから、ひたすら前向きに作業を行うことができる。
「少し休まれてはいかがです?」
「お気遣いありがとう、ファンデンベルク。でも平気よ。もうひと踏ん張りね」
「以前もそのようなことを仰って……」
「今回は本当に大丈夫!」
「そうでしょうか。不安です」
不安を抱かせてしまって申し訳ない。
でも今は進みたいのだ。
いつかのようなことを繰り返す気はない。私はもう倒れない。取り組める間は取り組むが、危なくなったらすぐに休憩するつもりでいる。周囲に迷惑をかけないため考えていることだ。以前の一件によって、無理しても最後は皆に迷惑をかけるだけ、と学んだ。
「そうだ! この紙の束の返却を頼んでも構わない?」
「はい。返却はどちらへ」
「ここに部門名が書いてあるわ。そこへ返してきてほしいの」
「承知しました」
ファンデンベルクに紙の束を渡す。
既に使わなくなったものである。
紙の束を受け取るとファンデンベルクは軽く一礼して扉の方へと歩いてゆく。そして、そのまま、流れるような足取りで退室していった。
その背を眺めながら心の中で呟く。
雑用を押し付けてごめんなさいね、と。
オーディアスが亡くなって一週間ほどが経過した頃に一旦ロクマティスへ戻ったプレシラが、久々にキャロレシアへ来ることとなった。
そして、それが今日である。
一緒に帰ったエフェクトは来ないようだ。だがそれも仕方のないことだろう。自らの意思で長い間こちらにいてくれていたプレシラと、やむを得ずこちらに残っていたエフェクトでは、明らかに立場が違う。
「お久しぶり。セルヴィア女王」
ブルーグレーの艶のあるショートボブは健在だ。
だが、紺色のワンピースを着用しているため、以前よりも貴人らしさが強調されている。
「プレシラ王女、来てくださってありがとうございます」
私も一応王女だった身だが、プレシラの王女らしさには到底勝てそうにない。品格、整った立ち姿、そういうものを身につけなくてはプレシラのような王女らしさを醸し出すことはできないのかもしれない。
「ふふ。そう言っていただけると嬉しいわ」
「会いたかったです。それで、用とは? 何でしたでしょうか」
するとプレシラは、さりげなく両手を腹の前で重ねて、少し恥じらうような表情を浮かべる。
「そうだったわね。実は……お伝えしたいことがあるの」
唐突に恥じらうような顔。そこにこめられているのはどういう意味なのだろう。恐らく悪いことではないのだろう、というくらいしか想像できない。
「婚約することになったのよ」
「え!?」
思わず大きな声を発してしまった。
突然大声を発してしまうというのは、もはや、王家の人間として失格のような行為だ。驚いたから仕方ない、という言い訳もできない。驚いたら品のない声を発して構わない、などという決まりはない。
「驚かせてしまったみたいね。ごめんなさい」
「こ、婚約……」
「ちなみに、相手はムーヴァーよ」
「そうなんですか!?」
驚きすぎて、今度は顎が外れるかと思った。
「用というのは実はそれだけのことなの。ごめんなさいね、大した用でもないのに」
「い、いえ……」
まさかの展開の連続に、心臓が豪快に跳ねる。
けれども、その婚約によってプレシラが幸せになれるのなら、私はその選択を褒め称えたい。幸せになってほしい、と、心から思っている。彼女が幸せになれるのなら何だっていい。
「少し気が早いかもしれませんが、おめでとうございます、プレシラ王女」
改めて、その言葉を述べなくては。
心の底からの祝福を。
「……ありがとう。その……何だか、正直……少し恥ずかしいわ」
「素敵なことですね」
「……えぇ、本当にありがとう」
異性との婚約。私には想像できないものだ。どんな感じだろう、と考えてみても、ちっとも掴めない。今の私の状態とかけ離れ過ぎているからだろうか。猫になったところを想像しろと言われても無理、というのに近い。
いつの日か、私にもそんな日が来るのだろうか。
その時が来たら、どのような想いを抱くのだろう。どのような心情になるのだろう。私の人生とは接点がなさすぎて、考えてみても想像が膨らまない。今の私とはかけ離れ過ぎている話だから。