episode.112 脱出劇
男に半ば強制的に風呂場へ連れていかれたファンデンベルクは、体を流した後、再び薄暗い部屋へと帰る。偶然誰もいない時間帯だったので、結局男以外誰にも会うことなく、収容されている部屋へと戻ることになったのだった。
「どうだ? すっきりしたろう」
「それはそうですね」
ファンデンベルクの両手両足は再び拘束具によって拘束されることとなる。彼が小さな自由を手に入れられたのはほんの少しの時間だけだった。
「貴様が望むならまた連れていってやろう」
「……頻繁には頼まないと思いますが」
「ああ、好きな時でいいぞ。ちなみに、俺につけば毎日でも風呂に入ることができる——悪くはない条件だろう? そっちも考えておいてくれ」
そう言って、男は部屋から出ていった。
ファンデンベルクはまた静寂に取り残される。
ある日の晩。
光など皆無の部屋の中で、何かの音を耳にし、ファンデンベルクはふと目を醒ました。
辺りを見回しても、暗すぎて、何が起きているのかまったくもって把握できない。ただ、耳には音が届く。夜にしては辺りが何やら騒々しい。
もっとも、何から発された音が聞こえているのかまでは察しきれないのだが。
ただ、いつもの夜とは違う異変が起きていることだけは、確かだった。
何が起きている? 何がどうなっている? ファンデンベルクは耳を澄まして一つでも多くの情報を得ようとする。そのうちに、侵入者がやって来たという騒ぎであることを察することができた。とはいえ、まだ情報が少なすぎる。侵入者が来た、だけでは、ほとんど何も分からない。
安心していて構わないのか。
身構えておいた方が良いのか。
それすら分からない状況下ではゆっくりと眠ることもできず、ファンデンベルクは戸惑いの中で一人過ごす。
そんな時、突如扉が開いた。
ファンデンベルクは何事かと思いながら扉の向こうへ目をやる。そこに立っていたのは、見たことのある男性ーーカンパニュラであった。
ファンデンベルクは信じられない思いでカンパニュラを見つめる。といっても、周囲は暗いので、姿を確かに捉えられるわけではない。ただ、やって来たその人がカンパニュラであると認識することくらいはできた。
「遅くなったな」
カンパニュラは暗闇の中を迷いのない足取りで突き進み、ファンデンベルクが座っている椅子のすぐ傍までやって来る。そして足を止めると、戸惑っているファンデンベルクの顔を暫し見つめた。が、すぐに視線をファンデンベルクの手足へ移す。
「拘束を解く。少し待て」
カンパニュラの目的はファンデンベルクと喋ることではない。
「……すみません」
「じっとしていろ。すぐに終わる」
待つこと数秒、ファンデンベルクの手足が自由になった。
長い間拘束されていた彼の手足はついに自由を得た。もはや、彼を椅子に縛りつけるものは存在しない。これでもう、彼はどこへでも行ける。
「カンパニュラさん……なぜ……?」
「脱出する」
「……答えてはくださらないのですね」
「今はな」
カンパニュラはそっけなく述べるだけ。だがそれでも、ファンデンベルクは、カンパニュラのことを悪く思いはしない。最初から愛想の良さなど期待しておらず、カンパニュラという人間はそんなものだと思っているからである。期待しなければ不満は生まれない、というやつである。
「怪我をしているわけではないのだろう。こんな埃臭いところ、さっさと出るぞ」
淡々とした調子で言い、カンパニュラは先ほど入ってきたばかりの扉の方へと歩き出す。ファンデンベルクはその背中を戸惑いに満ちた瞳で見ている。すぐには足を動かせない。
そんな時だ、扉の向こうから可憐な声が飛んできたのは。
「ちょーっとー。まだなのー?」
ファンデンベルクは声の主がリトナであると悟る。
だが状況は飲み込みきれていない。
「急かすな!」
「もーうー。遅過ぎだからー」
「すぐ行く!」
「遅ーい。いいから早くしてー」
カンパニュラは振り返り小声で「行くぞ」とだけ告げる。その頃になったようやく動けそうになってきたファンデンベルクは、闇の中で一度だけこくりと頷いた。
こうして突然幕開けた脱出劇。
それは決して平坦な道を行くものではなかった。
ロクマティス側の人間に発見され戦いが勃発することもあった。だが、それも乗り越えて、三人はロクマティスからの脱出を目指す。
長い間活発には動いていなかったファンデンベルクの体には動くことへの違和感が存在したが、それでも大きな問題はなくある程度順調に進んでゆく。
そうして、あと少しで脱出できるというところまでたどり着いた。
「ちょっとー。大丈夫なわけ? なーんかしんどそうだけどー」
物陰で敵から隠れながら、リトナはそんなことを言う。
だがそれに対してのファンデンベルクの態度は愛想ないものだった。
「平気です」
「ホントに言ってる? あやしーい」
「嘘はつきません」
「ふーん。でもさー、なーんか暗いからー。ちょっと引くわけー」
直後、リトナが着用している上着の胸もとから、黒い物体がにょこっと現れた。
「あ。今さらかもだけど、この子返しとくから」
その黒い物体は鳥。
それも、ただの鳥ではなく、ファンデンベルクがいつも可愛がっている個体である。
「鳥……!」
ファンデンベルクは目を見開いて、驚きの感情を隠さない。
「何その驚き方ー。面白ーい」
手を口もとに添えながらぷぷぷと笑うリトナ。
いたずらっ子のようである。
「なぜ……?」
「たまたま出会っただけ! 変な疑いかけないでー」
ファンデンベルクはただ純粋に尋ねているだけだった。だがリトナはそれをそのまま受け取りはしなかったような。何かしら疑われているように感じたようで、少し攻撃的な物言いをする。
「いえ、そのようなつもりではありませんが」
「ありませんが、何よー」