episode.98 別行動は嫌 ☆
「もうじきここを発つことになるかもしれない。準備を始めてくれ」
先に口を開いたのはカンパニュラ。
彼の斜め後ろで立ち止まっているファンデンベルクは、気まずそうな顔をしたまま黙っている。目つきでは何か訴えたそうだが、それでも口を開くことはしない。
「そんな……!」
カンパニュラの言葉を耳にし、思わずそんな声を漏らしてしまう。
「急に準備しろとなっても困るだろう。女は何かと手間がかかると聞く」
「……状況はそれほど悪いのですか」
本当にそんなことになってきてしまったというのか。だとしたら、現状はかなり悪いのかもしれない。私が想像していたより、この国の状況はずっと良くないのかもしれない。
「もしもの時に素早く出ねばならない。備えは大事だ」
「それはそうですね」
「ということだ、よろしく頼む」
「……はい」
カンパニュラはさらりと重いことを言う。しかも、重いことを言ったうえに、何事もなかったかのように扉の方に向かって歩き出す。ファンデンベルクはその場に残っているけれど、カンパニュラは彼のことさえ見ようとはしなかった。
直後、横にいたリーツェルの体ががくんと高度を下げた。
何事かと思い、驚いて視線を振る。すると、リーツェルがその場でしゃがみ込んでいる姿が視界に入った。青白い顔をしている。
「リーツェル!」
彼女のすぐ横に腰を下ろす。それから、彼女の丸くなった肩を、手のひらで撫でる。ちなみに、手袋をはめているため手に宿る力の効果は発動しない。
「体調不良? 貧血か何か?」
カンパニュラは既に出ていっているが、ファンデンベルクは室内に残っている。
特に何も言わないが、立てなくなってしまっているリーツェルをじっと見つめていた。
「……も、申し訳ありません。その……少し、放っておいていただきたいですわ……」
リーツェルは珍しくそんなことを言った。
彼女がそっけないような態度を取るのは珍しい。女性に対してとなると、特に。彼女は基本的に女性には良く接してくれる気質なのだ。もちろん、稀に例外はあるけれど。
「状態がよく分からないけれど、辛いなら少し休んだ方がいいわ」
「……は、はい。少し、そうさせていただきますわ……」
今リーツェルに無理をしてくれとは言えない。
これからどうなるか分からないからこそ、である。
「王女、準備の手伝いを致します」
ファンデンベルクが淡々とした調子で言ってきた。
「いいの?」
「はい。リーツェルは無理そうですので」
「ありがとう。じゃあ力を貸して? 一緒に準備しましょう」
今の状態のリーツェルに頼むというのはさすがに気が進まない。体調不良の者に対して何かせよと命令するのは申し訳ないと思わずにはいられない。それも、こんな状況下だから、なおさら。
「最低限必要なものを一つの鞄にまとめます。また、リーツェルのものも別に少しだけまとめますが、よろしかったでしょうか」
自ら思いつきはしなかったが、言われてみればそうだ。ここから脱出するといっても、私一人だけが出ていくわけではない。目立ってしまうから大勢で出ていくことはできないだろうが、数名であれば共に脱出することも不可能ではないだろう。
「もちろん。構わないわよ。……って、あれ? 貴方のものは?」
「僕はここへ残ります」
「待って! それはどういうこと!?」
一人ここへ残って何をするのか、もうじき敵が来るかもしれないというのに。
「貴方は一緒に逃げないの?」
信じられない思いでファンデンベルクを見つめながら、半ば無意識のような状態で尋ねた。それに対し、ファンデンベルクは、らしくなく微かな笑みを浮かべて答える。
「はい。僕には僕の役割がありますので」
彼が言う『役割』とは一体何。そんなに重要なものなのか。それは、本当に、危険な目に遭ってでもするようなことなのだろうか。彼も私たちと共に逃げるという選択肢はありはしないのか。だとしたら、なぜそんな残酷なことに。
「役割なんて……無意味よ、そんなもの。逃げる時は一緒に逃げましょう」
「そういうわけには参りません」
「どういうこと? 一緒に逃げられない理由があるというの?」
「人には役割というものがありますので。全員が同じように逃げることはできないのです」
そんなものは理由にならない。それに、私やリーツェルは逃げて良いのにファンデンベルクは逃げてはならない、なんて決まりはどこにもないはずだ。皆平等に人間なのだから。
「それより、準備をしましょう。そちらが先です」
ファンデンベルクは私の発言を無視して話を進める。
触れるべきではない点に触れてしまっていたのかもしれない。
「言っておくけれど、私、貴方を置いていくつもりはないわよ」
皆で一緒にいたい。そう思うのは贅沢だろうか。私の行く道に、皆で共に歩くという選択肢は存在しないのか。いや、もしそうだとしても、私はそれをすんなりと受け入れるつもりはない。
「その時が来たなら素早くお逃げ下さい」
「貴方も一緒でなくては嫌! 親しい人を残して逃げ出すことはしないわ。そんなことはできない」
「……なぜそのように頑固になられるのですか」
呆れたような顔をされてしまったが、それでも、譲れないところは譲れないのだ。
「いいから、その時が来たら一緒に来て!」
わがままだと呆れられているだろう。それでも、私は、この考えだけは譲ることができない。いや、譲りたくないのだ。鬱陶しいと思われても、多少嫌われても、それでも共に逃げたい。私たちの行く未来が明るいものかどうかは分からないけれど。でも、だからこそ、共に歩いてゆきたいと思うのだ。
それに、リーツェルだって、なんだかんだでファンデンベルクと一緒にいる方が安心するはずだ。
「……あの、王女は少し誤解なさっているように思うのですが」
「え?」
「僕は何も、ここへ残って死ぬつもりではないのです。少し居残る必要があるだけで」
「それは嬉しい言葉ね。でも……それでも、やっぱり、別行動は嫌よ」