そうだ、偽装結婚しよう!
①
桃瀬健一は焦っていた。
一分一秒でも早く、結婚しなければならないからだ。
婚姻届は異性婚用と、同性婚用、そして戸籍謄本や住民票など必要そうなものも、先程、市役所に駆け込んで取ってきた。
今は昼休みの時間を利用し、社員食堂の片隅で、自分が書くべきところを順番に埋めていく。
結婚の証人は弟の優太にでも頼もう。名前の通り優しい弟なので「両親にはサプライズで結婚報告したいんだ」とでもなんとでも言えば、分かった、と証人になってくれるだろう。
さて、問題は、
「…配偶者」
結婚相手を探すだけだ。
健一に恋人はいない。今日、定時で仕事を終えて、婚活パーティーに参加し、出来れば今日中に見つけなけれならない。
今日中が無理でもせめて近日、いや、最低でも来月までには結婚をしておきたい。
すべては健一の入社当時の夢、再来月から始まる社運を賭けたプロジェクトに選ばれるために。
この桃瀬健一には夢がある!と某黄金の意思を持つ主人公のように言ってみたところで、それは仕事で成功し出世する、という月並みなものだった。
昔から特に趣味もなく、社会人になったところで、何か夢か目標を持つことにした。
ただ今から「陶芸」だとか「音楽フェスに行く」だとかはハマりにくく、何か打ち込むなら自分に成果が返ってくるものがいい、と考えた末に、趣味は仕事にしよう、と決めたのだ。
仕事を趣味にして、成果を上げれば出世や給料に反映される。お金が貯まれば、いずれ本当の趣味が見つかった時に使えるだろう、とも思ったからだ。
また、幸運にも入社した会社は日本を代表する大企業、鮫島グループであり、鮫島グループの会社に在籍しているだけでも社会的評価は高いのに、そこで成果があると更に箔がつく。
より自分の武器、ステータスになると入社当時からバリバリと仕事に打ち込んできた。
現在、25歳の若さで営業課長補佐となった健一が次の目標としたのが、再来月から始まる新規プロジェクトだ。
日本を代表する企業のもう一つに、芙蓉グループがある。
新規プロジェクトは、その芙蓉グループと鮫島グループが手を組み、大手二社の社運を賭けたものだ。
このプロジェクトのメンバーは、大手二社の各部署から成績優秀な者を一人ずつ選ばれる。
つまりこのプロジェクトに選ばれる時点で、周りからの評価は確定しているもので、更にプロジェクトが成功すれば、一気に出世街道まっしぐら間違いなしである。
健一は当然、営業部門から自分が選ばれるものだと思っていた。そのくらいの成績は残してきたし、上司にもプロジェクトに参加したい旨は常に伝えていたからだ。
しかし、
『桃瀬くんねぇ…良いんだけど、ほら、彼まだ未婚だろ?』
人はなぜ内緒話ほどトイレでしてしまうのだろうか。
健一がたまたま個室に入って用を足しているとき、外から聞こえたのは直属の上司と、人事部長の声だった。
聞いてはいけない、と思いつつも、聞こえざるを得ない状況と、なにより、健一が今一番気になっている内容で、つい呼吸を静かにするほど聞き耳を立ててしまった。
『そうか、彼、未婚だったね』
『それに25歳、もうすぐ結婚適齢期を過ぎるしなぁ…』
健一が産まれる数十年前、法律が改正され、同性婚が異性婚と同じように認められた。
自由に誰とでも恋愛、結婚が出来る世の中になった。そのためか「新卒で入社して仕事にも慣れてきて貯金があるはずの26歳までに結婚してないと人格的に問題があるんじゃないか」という謎の風潮があり、実際にその風潮は社会的生活に影響してくる。
就職の時期、恋人や結婚予定の有無で内定を出すかどうかを決める会社もあるとかないとか…。
そのくらい、26歳までに結婚、というのは人生を左右し、健一は現在25歳、結婚相手どころか恋人すらいない。
もちろん世間体があるので、26歳までにはまぁなんとか結婚するかぁ〜と気長に考えていたのだが…。
モテないわけではないが特別モテるわけでもない。
これまでの人生を振り返って、恋人は同性異性問わず3人いた。しかし健一の何でもストレートに伝える性格が、付き合った当初は「裏表がなくて好き」と言っていた恋人も、別れる頃には「ど直球に何でも言うデリカシーがない男」と言われて振られるのである。
(健一もこの性格は直せないので、振られても追いかけることなく、反省はするものの改善はできないでいる。)
『芙蓉グループの、ほら、営業の萬田さんが、結婚してない奴はプロジェクトに入れたくない!って言っててさ』
どうやら営業部門から誰をプロジェクトのメンバーにするかは、芙蓉グループの営業部門が決めるようだった。
そしてこの話の流れからすると、芙蓉グループからは、おそらく萬田が抜擢されるようだ。
『まぁ、萬田さんは愛妻家だからなぁ』
萬田の話は、風の噂程度だが健一も聞いたことがあった。
学生時代に一目惚れした初恋の人と結婚し、愛妻家であると。
これだけ聞けば、素敵な人だ、と思うが萬田には問題があった。
分かりやすく言えば、愛妻家(過激派)なのである。
家庭や配偶者を持っていて当然、優先して当然、愛して当然という思想から、同じ部署だろうか他部署だろうが未婚者を無視したり、過小評価をつけたりするらしい。いわゆるマリッジハラスメントだ。
『俺も是非桃瀬を!って推したんだけど、そんなことより同じ営業部門も河村くんは?って返されてさ』
『河村くんねぇ…』
河村ァ!?と健一は怒り叫び、個室から飛び出したくなった。
というのも、河村は誰から見ても仕事が出来ない男かつ、健一より後輩だ。
しかし結婚している。しかも萬田と同じ初恋の人と結婚いう、萬田が好きなストーリー付きだ。
『萬田さん、社長の親戚で繋がりがあるのもあって、みんな強く言えないんだよ』
どうやら萬田は鮫島グループの社長、鮫島孝と親戚関係にあり、周りは萬田の反感を買わないよう気を遣っているらしい。
ふぅ、とおそらく直属の上司のため息が聞こえた。
『来月、正式にプロジェクトのメンバー発表がある、けど、まぁ…もう桃瀬は、残念だけど、な』
『どうしようもできないからな〜』
結婚は。
苦笑いしながら、二人はそう締めくくってトイレから出て行った。
健一は個室で、萬田への怒りなど忘れ静かに打ちひしがれていた。
たかが結婚、されど結婚。
結婚出来ない者は、プロジェクトに選ばれない。
たかが、結婚…
「諦められるかよ…」
入社してひたすらに、がむしゃらに、頑張るという言葉では収まりきらないくらい頑張ってきたのだ。
たかが結婚で、そのチャンスを逃してたまるか。
健一の目にはもう、闘志に似たようなものが宿っていた。
「お疲れ様です、お先に失礼いたします」
定時で仕事を終わらせ、トレンチコートを素早く着て、周りから話しかけらないよう存在を消して、さっさと会社から出る。季節は2月、春の陽気が時々感じられるが、風はまだ冷たい。思わずトレンチコートの前を閉めた。
スーツのまま参加可能、と婚活パーティーの案内に書いてあったので、そのまま会場へ向かう。
19時から開始だ。健一は腕時計をチラリと見た。あと30分もある、会場もそう遠くない。軽食も出る、と書いてあったから腹に何かを入れておく必要もない。
それでも一度コンビニに立ち寄り、身だしなみを整えるためにトイレを借りることにした。
営業する上で好印象に見られるための黒髪短髪を手ぐしで整え、印象つけるための伊達眼鏡は…まぁ掛けたままでいいか、と外すのをやめたが、埃や指紋を拭き取るために一度外した。ポケットから眼鏡拭きを取り出し、レンズを拭く、その手は震えていた。
もちろん緊張している。
それは初めての婚活だからではない、今日でなんとか結婚まで漕ぎ着きたいからだ。
鞄の中には、配偶者の欄だけが空欄の婚姻届が入っている。
今日、これを完成させてくれる人材を見極めなければならない。
気持ちを引き締めるように、震えた手に力を入れ、伊達眼鏡をかける。
トイレから出て、大丈夫だとは思うが一応ブレスケアを買った。
一粒、口に放り込む。爽やかなミントが口に広がり、鼻から吸った冷たい風のせいで更にスースーし、頭が冴えた気がした。
婚活パーティーの会場につき、受付で自己紹介カードと番号札を渡された。
トレンチコートを脱ぎ、12番と書かれた番号札を胸につけ、会場の椅子に適当に座り、自己紹介カードを埋めていく。
既に会場には女性、男性がちらほらといた。お互い横目でさりげなく観察し合っている。健一は、なんだか婚活パーティーというより、就職試験を思い出す光景だと思った。面接待ちの、他の学生達を気にするような気分だ。
自己紹介カードの定型分は直ぐに埋めることが出来た。年齢、学歴、性別、年収…。
健一が悩んだのは「相手に求めること」という欄だ。
健一が今一番求めているものは婚姻届にサインと捺印だが、そういうことではないことは分かっている。ほぼ勢いで参加したため、結婚後のイメージを会場に来てから初めて考えた。
結婚後、プロジェクトに選ばれる。
そうなると向こう一年は通常業務と、プロジェクトで残業の日々だろう。加えて健一は今まで一人暮らしをしたことがないため、家事は出来ない。それに結婚という肩書きが欲しいだけであって、仕事もあるので愛を育む時間はない。もっと言うと、この一年は仕事以外考えたくない。
我ながら最低の結婚生活と健一も分かっているが、出世がかかっているため必死なのである。
さて、改めて紙に書き出してみる。
・一年は仕事が忙しいので、理解できること
・家事を全てやってくれること
もちろんセックスなんかする余裕はない、だがそんなことを書けば間違いなくつまみ出されるので、仕事が忙しい、から汲み取ってもらいたい。
こちらの条件は養うこと。大企業で仕事に打ち込んできたおかげで、今急に子供が3人出来ても、豊かに養えるほどはある。セックス不可の結婚で子供の例えとは、皮肉が効き過ぎて話せないけれど。
『皆さま、お揃いでしょうか』
主催者の声が会場に響く。
はっとして周りを見ると、いつの間にか人が集まってきていた。自己紹介カードに集中し過ぎたようだ。
これからテーブルに向かい合って座り、自己紹介カードを交換して、お互いのことを話す。5分したら相手が横に移動していく、という、いわゆるお見合い回転寿司だ。
初めは番号順に並ぶようなので、健一は重たい腰を上げて、12番の席に向かう。
すれ違う男女は16歳から25歳、若い年齢ほど「今日は何となく社会経験のために参加してみました」という軽い空気が出ている。その様を見て、健一は、やはり同じ歳に近い方がすぐ結婚してくれるだろう、と頭の中で対策を練る。
まぁ、練ったところで、
『では、お見合い回転寿司!スタート!』
早速、目の前の女性と自己紹介カードを交換する。年齢は21歳。可愛らしい、この日のためのワンピースを着ている。が、健一にはそんなこと関係ない。
『ええと…お仕事がお忙しいんですね』
ワンピース子は健一の自己紹介カードを見た瞬間、少し笑顔が引きつったが、一応話題を探そうと仕事の話を振ってきた。
だが、健一の「ど直球に何でも言うデリカシーがない」性質が、すぐさま追い討ちをかける。
「はい、なので正直すれ違い生活になると思います。それでもよければ今すぐ結婚してください。」
『…は?』
ワンピース子から完全に笑顔が消えた。そしてエスパー出なくても分かる、ワンピース子の心の声は「何言ってんだこの人」である。
対策をいくら練ったところで、健一の性格の前では無駄なのである。
ワンピース子は、これ以上話したくない、と言うように口をつぐんだ。
健一もその様子を見て、心の中でため息をつく。相手の気持ちも分かるが、健一も必死なのだ。
そうしているうちに5分経ち、ありがとうございます、と言って自己紹介カードをワンピース子の手から受け取った。健一はそのまま横の席に移動する。
今度は男性だ。自己紹介カードを交換する。24歳、農家というだけあって日焼けした肌がカッコいい、だが健一にはそんなことは関係ない。
そしてまた、農家男も健一の自己紹介カードに顔をひきつらせる。当たり前だ。素敵な結婚を求めてきているのに、とてもそんな未来を描けない条件を出す健一は、正直この場には相応しくない。だが!健一も!必死なので!ある!
『あのー…えー…』
「…今すぐ結婚が無理なら、お話広げなくて大丈夫ですよ」
『…はい』
また気まずい5分が過ぎる。まだ2人目だが、健一は諦めかけてきていた。たかが結婚、されど、結婚。結婚。そのふた文字がこんな難しいとは。
結局成果が見えないまま、時間と相手は過ぎていき、最後の1人。もはや業務的に自己紹介カードを交換するが、見る気力すらなくなってきた。
「あの」
話しかけてきたのは向こうだった。
「はい?」
声をかけられ、顔をようやく見る。男性だ。中性的な顔と、ひとつ結びの茶髪で一瞬女性かと思ったが、骨と少しの筋肉、パーカーにジーンズというラフな格好から男性と分かった。自己紹介カードも見る。やはり男性、の方に丸がついていた。
「これ、本当ですか。家事したら養ってくれるって」
「ああ…そうですけど」
「俺、やります。なので、結婚してくれませんか」
「えっ」
健一の驚き顔を気にせず、目の前の男性は、ていうか同い年なんでタメでいいですか?と話を進める。
「荻野、遼也…さん」
「うん」
「今、結婚って」
「うん、話せば長いようで中身はないんで、この後のフリートークで話できる?」
「ああ」
「じゃあ、詳しいことはそこで」
そう言い終わると、遼也はジーンズのポケットからスマホを取り出し、ゲームをし始めた。健一は、まさか結婚を持ち出されると思っていなかったので、改めてきちんと遼也の自己紹介カードに目を通す。
男性、25歳、職業は、
「明るいヒキニート…?」
「あー…ヒキニートっていうと暗いイメージあるけど、俺、親とも仲良いし、家事するし、なんなら時々バイトもするから、明るいヒキニート」
「いやそこじゃねぇよ、いやそこもだけど、ニートか」
「週5で働くと死ぬから」
いや、死なねーだろ。とツッコミたくなった健一だが、更に自己紹介カード見る。
「相手に求めること」の欄には
・養ってくれること
・24時間オンラインゲームしてても怒らないこと
・時々課金用の小遣いをくれること
・親と仲良くしてくれること
俺よりヤバい奴がいるんだな、と健一は親近感を覚えた。
「寄生虫みたいだな」
健一が思わず、ずばりと言葉にすると、遼也はツボにハマったのか、ははは、と笑った。
「それを言うなら、桃瀬も召使い探してんだろ」
なるほど。冗談を気兼ねなく言えるところは、問題なさそうだ。ふは、と小さく笑う。この場所に来て、健一は初めてリラックスできた。
『はーい!終了でーす!このあとはフリートークになります。ドリンクと軽食をご用意させていただきましたので、つまみながら、気軽に気になる人と!お話されてくださいね〜!』
主催者がテーブルにオードブル、サンドイッチなどのせ始める。周りもザワザワと意中の相手を探し、話し始めた。遼也は皿に適当にサンドイッチや、ローストビーフ、サラダを取って、炭酸ジュースをグラスに入れ、
「あっちの方で話してもいい?」
会場の隅の方を顎で指した。静かそうな空間だ。健一はこくり、と頷いて同じように軽食を持って移動した。
「確認だけど、この後、婚姻届を書いて役所に出したいんだけど、それでもいいのか?」
「あ、今書くよ」
遼也は近くにあったテーブルをひとつ引き寄せて、ジーンズのポケットから、判子を取り出した。健一も驚きつつ、同性婚用の婚姻届とボールペンを、遼也の目の前に置く。迷いなく、さらさらと埋められていく婚姻届を見て、実感も何も湧かない。夢だろうか、とすら思ってきた。
「俺、明るいヒキニートなんだけど」
遼也は手を休めることなく、身の上話をし始めた。
「今後も明るいヒキニートしようとしてたら、親が26歳になったら見放すって言い始めてさ。結婚するか仕事するか決めてくれって言われて、まぁ働きたくないんだよね、俺オンラインゲームしてんだけど、週7で15時間くらいはオンラインゲームしたいし、基本無料プレイでやってるから大丈夫だけど、時々課金したいんだよね。ガチャでSSRのキャラじゃないと倒せない面があったりして」
「悪い、前半しか話が分からん。とにかく結婚か仕事か迫られて、結婚しにきたってことか?」
「うん、家事はニートでずっと家にいたからまぁそこそこ出来るし、24時間パソコンしかしてないから生活費もそんなかかんないし、時々ガチャ代くれれば」
「ガチャ…?よく分からんけど、まぁ家事してくれるなら」
よっしゃ、と遼也は微笑んだ。話している間に、もう婚姻届の配偶者の欄は完成していた。あとは証人の欄だけだ。
「証人、どうする?」
遼也は、俺友達ネットにしかいないけど、と付け足す。
「俺の弟にでも頼むよ」
「うん」
「それ、食べ終わったら役所に行っていいか?」
「うん、そっちは?」
身の上話を催促されて、健一は素直に話した。仕事が趣味であること、プロジェクトのために結婚すること、親には内緒にしておきたいこと。ふんふん、と軽く頷いて、遼也がポツリと呟いた。
「偽装結婚だね」
「…そうだな」
そうだ、それなら実感が湧く。偽装結婚、という言葉が健一の胸にすとん、と落ちた。
お互いの利害のために結婚する。
「1年間、結婚する。お互いに好きな人が出来たら離婚する、好きな人が出来なくても、利害が不一致になった時点で離婚、で、どうだ?」
「いいね、それ」
まぁ俺は恋愛しないと思うけど、と小声で遼也は言った。それは健一を思って、ではなく、諦めのような、遠い目をして言った。思わず、過去に何かあったのか、と健一は聞きたくなったが、これは偽装結婚。あくまでも社会的生活を円滑にするためのもの、深入りは必要ないだろう。
サンドイッチを口に入れ、言葉と一緒に飲み込んだ。
ちなみに離婚(バツ持ち)は未婚よりステータスは高い。一度でも結婚出来る人、として未婚より社会性は認められる。なので、最悪プロジェクトが終われば離婚すればいい話だ。
「本当にいいのか?」
軽食を食べ終え、2人で婚活パーティーを抜け出し、役所の前。健一は最終確認を遼也にしていた。
「うん」
遼也の口から白い息と返事が出る。すっかり暗くなり、春めいてきているとはいえ、夜は寒い。この役所の前には桜の木がたくさん植えてあり、春になると思わず立ち止まって、感嘆の息をもらすほどの桜並木が見れる。今はまだ蕾だが。
あ、そうだこれ。と遼也はパーカーのポケットから紙を取り出し、健一に渡す。それは戸籍謄本や住民票など、婚姻届を出す際に必要そうな書類だった。
用意がいいな、と言うと、あんたが言うのか、というような顔を返された。
「結婚式はしない、結納も。もちろん子供も。周りにも結婚したことは最低限しか広めない。」
「うんうん」
「物件は近々決めよう」
「ん、てかクエストのイベントあるから帰っていい?これ俺のメルアドね、なんかあったらメールして」
「マジかお前」
一応結婚すんだけど、と言うと、
「健一のこと信用してるから」
「出会って1時間も経ってないけどな、つーか下の名前…」
「だって俺も桃瀬になるんだから、仕方ねーじゃん、じゃあ、おやすみ」
さみー、と小走りで遼也は帰っていった。
一度も振り返ることなく、足取りは軽やかだった。
「変な奴だな…」
出会って1時間も経ってない奴と結婚していいのだろうか、と本当に今更な考えが浮かぶ。
しかし、その次に浮かんだのはプロジェクトのことだった。プロジェクトのためなら、多少のリスクを負ってでも、ある程度なんでもやる。そのために今日まで頑張ってきたのだ。
婚姻届や書類をしっかりと持って、健一はスマホを取り出し、弟の優太に電話をかける。
もしもし、優太?今大丈夫か?ちょっと頼みたいことがあって…と話す。
寒い夜の中、桜の花が小さく咲き始めていた。
誤字脱字加筆修正よくします、すみません。