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第四章 見せるべき景色「1」

   1



 七月はとうに過ぎ、八月に入っていた。

 雨が降るのだろうか。空はどんよりと曇っている。湿気もすごい。

 女性の声のアナウンスが駅のホームに鳴り響く。それと同時に遠くから電車がこちらに向かってくるのが見えた。スマートフォンで時刻表を再確認していると、いつの間にか電車は僕の目の前に止まっていた。

 電車に乗るのは、久しぶりだ。

 僕は座席に座ると、鞄を抱えるようにして持った。鞄の中身は飛び降りたとき以来変えていない。変えるのが面倒くさかった、ということもあるが、一番の理由は、いつでも遺書を書けるようにするためだ。

 着信がきた。

「電車のなかってどうなっているの?」

 いきなり夏生の興味津々な声を聞いて思った。

「はいはい、いつでもどうぞ」

 僕がそう言うと、すぐに『視界の交換』は起こった。

「どうだ?」

「なんかがらんとしてるね」

「まあ、通勤ラッシュを避けたからな」

「テレビでみた電車のなかはね、すごく混雑してて、まるで石の下にうじゃうじゃいる虫みたいだった」

 夏生の例えが面白くて、僕は思わずふふと笑った。それと同時に、無意識だったとしても、現代社会を皮肉っている彼女に感心した。

「全国のサラリーマンの人たちに謝れ」

「ごめんなさい」

 夏生は素直に全国の満員電車で会社に通うサラリーマン達に謝罪し、やがて視界を戻した。

「それにしても、初めてだね。君が見るものを提案するのは」

「ああ、そうだな」

「なにかあったの?」

 二人で、というより一人で学校を見学してから既に一週間が経過していた。

 その一週間の間、カウンセリングがある日をのぞけば、僕は相変わらず暗い家に引きこもりながら、頻繁に電話してくる夏生の対応をしていた。

 カウンセリングを終えた後、夏生の見舞いをしようかと毎回考えるが、行ったことはない。

 通話を重ねるたびに僕は思った。

 そういえば、あの学校のとき以来『視界の交換』をしていない。別にしたいというわけでもないが、夏生は見たいものを見終えたのだろうか。いや、そんなはずはない。

『夏の景色と、それと――』

 夏生のみたいものは夏の景色と、僕の知らないなにか、だ。だが今まで見てきたものといえば、横断歩道に住宅街、学校の教室やグラウンドくらいで、夏らしい夏を彼女に一つも見せることができていない。

 そんなことを考えていた昨日の夜、僕は夏生と通話をしながらぼんやりとテレビを見ていた。大して面白くもないバラエティー番組だったが、『今の僕』にとって興味深い特集をしていた。

 その時、僕は幼い頃に両親に連れて行ってもらったことを思い出す。それと同時に、優しかった父と母のことを思い出す。そして、一筋の涙を流す。夏生がガラケーでよかったとこのとき心底思った。スマートフォンでビデオ通話なんてされたらおそらく、いや、聡い彼女のことだ。たとえガラケーでの電話越しでも僕が泣いていることに気づいてしまうだろう。

 ――見せてやるか。

 我ながら、どういう風の吹き回しかわからないが、そう思いながらテレビを消して、夏生に行こうと提案したのだ。まあ、行くのは僕一人だが。

「――色々、あったんだよ」

 何から話せばいいかわかららなし、話すべきことかもわからず、曖昧な返答をすることしかできない。

「色々って?」

「――色々は、色々だよ」

 僕が強めの口調でそう言うと、夏生はそれ以上聞いてくることはしなかった。

 向かいに座っている初老の女性が不快そうにこちらをちらちらと見ていることに気づく。これ以上の通話はさすがに他の乗客に迷惑と思い、夏生にその旨を伝え、通話を切った。

 その後数回乗り換えをし、やがて電車は、僕は地元から出た。



 目的地の最寄駅に着くころには窓の外は文句なく快晴だった。

 やがて停車し、僕は他の乗客と共に下車し、改札口に向かった。

 改札機にICカードをかざすと、小さな画面にチャージされている金額から乗車料金が差し引かれた残高が表示されている。事前に料金を調べてはいたが、こんなに高いのか、と改めて残高の表示を見て思った。

 僕は改札の抜けるとすぐに券売機に向かいICカードを差し込むと、帰りの乗車料金をチャージした。

 行きも帰りの乗車料金も父からの仕送りによるものだ。間接的に父に連れてきてもらったということを考えると、なんともいえない虚無感が胸に広がる。まあ、この気持ちも今日までだろう。

 僕はポケットからスマートフォンを取り出し夏生に電話をかけた。2コールで彼女は電話にでた。

「着いた?」

「ああ。駅には着いた。これからそこに向かうよ」

 駅を出て、近くのベンチに腰を下ろし、忙しく行き交う人々を眺める。

「楽しみだな。なんてたって君が初めて私に――」

「その話はさっきもしただろ」

「だって、嬉しいんだもん」

 不思議なことに、悪い気は、しなかった。寧ろ、その逆だった。

「交換、するか?」

「うん」

 夏生は僕の『視界の交換』の提案に応じると、すぐに視界は交換された。

「すごい晴れてる!」

 夏生ははしゃぎながら言った。

 僕の視界はというと、相変わらず天井のシミ、快適な涼しさを提供するクーラー。それに加えて、どんよりとした窓の外の空。

「でも、なんか暑そう」

「ああ、おっしゃるとおり、暑いぞ」

「私もその暑さを体感できればいいのな。暑い日とかは屋上に出ちゃいけないって主治医の先生に言われてたから」

「じゃあなんであのときお前は屋上にいたんだ? 初めて会った日だよ。結構暑かったぞ?」

「私の胸を触った日?」

 電話口の向こうでは悪戯っぽい笑みを浮かべているのだろうか、夏生は笑いながら言う。

「……ああ、そうだよ。お前の胸を触った日のことだよ」

 僕はそのときのことを思い出し、赤面しながら、半ば投げやりに答えた。

「君がいたからだよ」

 俺がいたから、という理由でなんとなく彼女が屋上にいた理由がわかった。

「――契約のこと、か」

「うん、そうだよ」

「暑かっただろ」

「うん、すごく暑かった。でも、嬉しかった。生きてるって、実感できたから」

 その言葉に多大な切なさを感じた。

「――それは、良かったな」

「またあの感じ、味わってみたいな」

 夏生がしんみりとした声で言った。

「やめとけ。死ぬぞ」

 僕が躊躇せずにそう言うと、夏生はふふと笑った。

「大丈夫だよ。その前に死ぬから」

 そんなに余命が短いのか、と僕は驚いた。

「あの日、私が君の居場所をばらしたって言ったでしょ?」

「確かに言ったな」

 忘れていた怒りがこみ上げてくるのを感じたが、それを無理やり押し殺した。

「実は私、あの日を境に屋上に行けなくなっちゃったんだ。主治医の先生に止められちゃった。身体に負担がかかるからって。特に今年の夏は猛暑日が続くから余計に、って」

 なるほど。だから『視界の交換』のテストをしたときも、校門のときも窓が閉められていたのか。

「病室、どんな感じだ?」

「どんな感じって?」

「温度とか、湿度とか」

「寒くもないし、暑くもないよ。身体に負担がかかるといけないから温度も湿度も常に一定だよ」

 夏生は淡々とした声で言った。

 病室の端に目をやると空気清浄機があった。

 視線を窓のほうに移し、窓の外のどんよりといた雲を眺める。そして、ここへ来る前、湿気がすごかったことと、先ほどの夏生の言葉を思い出す。

「そっか」

 僕には、それしか言うことができなかった。

 夏生自身の身体はもう夏を感じることはできない。夏は暑いのが当たり前、なんて言葉はもう彼女には通用しない。

「あ! でもね!」

「なんだ?」

「蝉の鳴き声だけは、聞こえるんだよ!」

 夏生が窓越しで感じることができる夏は、それはあまりにも陳腐なものだ。

「――そっか」

 やはり僕には、それしか言うことができなかった。

 今回の僕の計画は、無駄に終わってしまうのだろうか。

 僕にはまるでわからなかったが、それでも、行かなくてはならないと思った。夏生に夏を見せるために。夏を生きていると実感してもらうために。

 ――お前、変わったよな。

 ――だろ? たが本質は、変わってないんだよ。

「じゃあ、戻すね」

「ああ」

 視界が戻ったことを確認すると僕は立ち上がり、夏生と他愛のない話をしながら、目的地に向かって歩き始めた。

 今でも自殺志願者であることに変わりはないし、最初の頃は嫌だったが、学校見学を境に、今では夏生との『視界の交換』を受け入れることができている気がする。けれどその反面、願わくは、この奇妙な関係が続きますように、と願い始めてしまっている自分が心のなかに現れてしまってきていることに気づき、我ながら困惑した。

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