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第三章 二人だけの学校見学「1」

   1



 翌朝の土曜日、午前九時ごろに目を覚まし、起き上がるのが面倒だったのでそのまま二度寝を

した。再び目が覚め、ベッドから起き上がり、枕元のスマートフォンを手に取って、マナーモードを切ってから現在の時刻を確認した。画面には13:48と表示されていて、自分の生活の荒廃ぶりを改めて実感し、深く息を吸いながら苦笑した。そして再度、ベッドにその身を預けた。

 僕は適当にネットでも見ようとスマートフォンをいじろうとしたが、それを止めた。夏生からの着信が何件かきていることに気づいたからだ。

 そういえば、今日は夏生に学校を見せてやる約束だったな、と昨日の彼女との約束を思い出し、面倒くさいなと思いながら寝返りを打った。

 親友や恋人はもういないし、家族ももういない。何人か連絡先を持っている友人(と呼べるのかわからないの人達)はいるが交換してから連絡を取り合ったことはほとんどない。あとは、たまに間違い電話がかかってくるくらいだ。つまり俺の着信履歴欄は必然的に夏生が埋まっていくことになる。現に、俺が寝ている間に彼女が連絡を何回か送ってきたせいで、それだけで僕の着信履歴欄の大半が夏生という文字がゲシュタルト崩壊を起こしそうなくらいに連なっていた。なんとも末恐ろしい。

 僕はスマートフォンの画面を閉じ、枕元に投げるように置き、ベッドから身体を起こした。

 せめて顔だけでも洗うか、と自室を出て洗面所に向かった。

 廊下は、薄暗い。それもそうだ。なぜなら、全ての部屋のカーテンは閉め切っているからだ。更に掃除も換気もしていないため家の中は常にどんよりとした空気が漂っている。それでも、クーラーはがんがんにつけているのでたまに、夏だというのに肌寒く感じることがある。そして、その環境に慣れてしまったせいか、家の外が、特に晴れの日は外は苦手だ、というより、嫌いだ。

 母の病状が安定していて、父も失踪していなかった頃は少し狭いなと贅沢なことを思っていたが、一人で住むとなると3LDKの一軒家は広すぎる。自室意外ほとんど使っていない。

 それなら引っ越しをすればいいじゃないかと言われるかもしれないが、アルバイトなんてしていないから引っ越しの資金を捻出することなんてできないし、それ以前に学生の身分の僕にはそんなお金をすぐに用意することはできない。

 そんな僕を不憫に思う親戚の人達が頻繁にやってきては食材や生活用品などを置いていってくれるので生活自体に困ることはない。洗濯炊事等はまだ母が生きていたときから父と分担してやっていたのでこれも心配はない。

 さて、肝心なことは家賃や光熱費だが、どうやらしっかりと父の口座から引き落とされているらしく、これもまた心配しなくてもよさそうだ。けれど、これに関しては、俺や母を裏切った父に養われているような形になるので父に対しては勿論だが、それを受け入れざるをえない自分の現状が、またそれを打破することができない自分自身が憎くて、情けなくて仕方がなかった。

 それにしても、なぜ父は僕たちから姿を消したというのに、裏切ったというのに家賃等の経済的支援を続けているのだろうか。関わりを持とうと、してくるのだろうか。父なりの罪滅ぼしのつもりなのだろうか。僕には父の真意がわからなかった。わからなかったが、そんなことをされても父に対する憎しみが消えることはない。寧ろ、大きくなっていくだけだ。

 ――自分の妻の最後を看取ることもせず、他の女を作って逃げて、それでも面倒はみるって、一体何がしたいんだよ。

 ――自分の息子に、逢う勇気すらないのかよ。

 蛇口をゆっくり捻ると、それに比例して水がゆっくりと出てくる。僕は水がお湯に変わるのを左手の人差し指で触れながら待ち、頃合いの温度になったのを確認すると、左手にお湯を溜めて、それを思い切り顔にかけた。その際右手のギブスが濡れないように注意を払った。

 洗顔を終え、タオルを洗濯機に放り込むと同時に自室から着信音がした。相手が誰か、見当はついている。若干デジャヴを感じつつ、こんなことならマナーモードのままにしておけばよかったと後悔した。

 重い足取りで自室に戻り、ベッドの上でけたたましい鳴り響く着信音を止めるため、俺は苦い顔をしながらスマートフォンを手に取った。

「あ、やっと出た」

 夏生は難しいゲームでもクリアし上機嫌な子供のような声で言った。

「着信、気づかなかったの?」

「ああ、寝ていたからな」

「こんな時間まで? もしかして毎日そんな生活しているの? 身体壊すよ?」

 元から身体が壊れていて、余命宣告されているやつにそんなこと言われるなんて、なんて皮肉なんだ、と俺は苦笑した。

「それで? なんの用だ?」

 夏生との昨日の約束を思い出しながら、僕は敢えて惚けた。

「え? 昨日約束したじゃない。学校を見せてくれるって」

 夏生は不機嫌な声で言った。さすがに悪いと思った僕は訂正するための言葉を探し始めた。

「すまん、わざと忘れたふりをしたんだ。覚えているよ。今日、行くからさ」

「人を騙すなんて、悪趣味だよ」

「人が泣いている姿を窓から見ていたやつに言われたくないな」

 昨日の記憶が、香織を見かけたときの記憶がよみがえり胸が苦しくなる。それでも、

「泣き崩れる姿を高いところから見物なんて、さぞ良い眺めだっただろうな」

 僕の胸中を悟られぬよう皮肉を言い、わざと明るく振舞った。

「じゃあ、今回のことでおあいこ、ってことでいいかな?」

 感づいたかどうかわからないが、夏生は言った。

「ああ、もう、それでいいよ」

 僕は一言だけ言った。

「じゃあ、今から点滴だから、また三時にかけるね」

「その時間に学校にいればいいってことか?」

「ううん、家にいて」

「どうしてだ?」

 僕は怪訝に思いながら尋ねた。

「登校、してみたいの。だから学校に行く途中の色々なところで『視界の交換』をする」

 ああ、そういうことか、と僕は納得した。学校に行ったことがないということは登校もしたことがないということだ。僕たちにとっては普通のことでも夏生にとっては特別なことなのだ。そう、夏生にとっては。

 どうせ、今日も暇だ。

 カーテンを少し開ける。その瞬間、太陽の光が目を刺し、僕は咄嗟に目を瞑った。

「――なあ」

「ん? なに?」

「――いや、なんでもない」

 このうざい太陽の光を『視界の交換』で夏生に見せてやろうと考えたが、おそらく彼女は嫌がるどころか、寧ろ喜んでしまうだろう。

 この気持ちはおそらく、いや、きっと、嫉妬だ。

「じゃあ、また三時に」

 夏生はそう言うとすぐに電話を切った。

 僕はスマートフォンを閉じベッドに放り投げ、病院のスケジュールは意外とタイトなんだな、と思いながら右腕に巻かれたギブスを撫でた。



「横断歩道見たの、久しぶりだなあ」

 電話口から聞こえる夏生の声に苦笑いしながら、夏生の病室の天井のシミを眺めていた。

 色々なところで『視界の交換』をするとは言われていたが、まさかその最初の場所が横断歩道とは。見たいものが海とか山とかならわかるが、昨日の平凡な川といい、今回の横断歩道といい、そして、これからいく学校といい、なんというか、夏生がわからない。

 視界が、戻った。

 僕は信号が青になったのを確認すると速足に横断歩道を渡った。

「ねえ、今は何が見える?」

 電話口から夏生が僕に尋ねる。

「今は特に何もないよ。ただの住宅街があるだけだ」

「ねえ、それも見せて」

「は?」

「いいから、見せてよ」

 僕が何か言う前に『視界の交換』が起こった。僕の視界には先ほど同様、やはり天井にシミ。こんなことが何回も続けば天井のシミの数を覚えてしまうかもしれない。まあ、そんな退屈なものくらいしか見ることができない生活をしているのが夏生なんだなと考えると、なんとも言えない気持ちになる。

「前から思っていたんだけどさ」

「なんだよ」

 僕は許可なく『視界の交換』をされたことに若干腹を立てながら言った。

「屋上から住宅街を見ていたときは大きいな、とか、広いな、とか思っていたんだけど、案外そうでもないみたいだね。病室での生活に慣れちゃったからこんなこと考えちゃうのかな」

 夏生がはしゃぐように言った。それなら薄暗い3LDKの一軒家に一人で住んでみろよ、と僕は彼女の言葉に少し苛立ちながら思った。

 再び視界が戻る。

「学校はいつ着くの?」

「住宅街を抜けて、しばらく歩けば着くよ」

「ねえ、その途中には何があるの?」

 夏生は若干食い気味に尋ねてくる。

「屋上からこの町の景色を見ていたならどこに何があるかくらいわかるだろ」

 俺がそう言うと夏生は少し息を吐いた。

「それがそうでも、ないんだよね」

 夏生が呟くように言った。

 俺は以前、夏生と自分を広く浅く、狭く深くという言葉に準えて考えていたことを思い出した。彼女は屋上から広くこの町を見ているが、町の細部の様子を全く知らない。例えばあそこの道を抜けるとあそこの道につながっているだとか、そういったことを彼女は全く知らないのだ。

 その逆も然りだ。俺は高い場所になんて滅多に行かないため広くこの町を見ることはない。

 夏生は特異な例なのだ。彼女のように余命を宣告されるほどの大病を抱えている人はごく稀で、それ以外の人は所謂『普通の人間』なのだ。その『普通の人間』が仮に高いところから自分たちの町をみる機会があったとしても、それを詳しく、しっかりと記憶に留める人は多分、あまりいないだろう。

 夏生は町全体を一枚の絵画のように見ているのだろう。けれど、それはぼかしがかかっていて、線や色彩等の細部まで見ることはできない。仮にぼかしがとれて見えるようになったとしても、そんなものたかがしれているのだと、少なくとも俺は思う。けれど、彼女にとっては違うようで、それらはとても綺麗で、鮮やかで、きっと憧れなのだろう。

「そうかい」

 僕は一言だけ言って住宅街を抜けた。

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