第二章 後悔をする理由「1」
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初日のカウンセリングを終え、僕はそそくさと病院の外へ出た。中と外の気温の差は歴然で、もう何度も味わっているというのに、やはり慣れることはない。頭がくらくらしてくる。夏だけ気温を感じないようにできないものかと思いながら、二十歩ほど先のアスファルトへ目をやると、そこには陽炎が見え、一層頭がくらくらした。更に蝉の泣き声も重なり体感温度が増す。
それにしても、二日連続の病院は、なんというか、心が沈む。まるで自分が大きな病気にかかってしまったような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
カウンセリングでは年配の女性カウンセラーに様々なことを聞かれた。学校での人間関係とか、家庭環境とか、とにかく様々なことを聞かれた。僕はそれに対してまともに答えず、代わりに睨んだり舌打ちをしたり、不遜な態度をとった。
人間関係なんて、そんなもの、今の僕にはない。自分から断ち切ったのだ。というより、断ち切らざるを得なかったのだ。僕は人を不幸にすることしかできないのだから。
家庭環境だってそうだ。母親は約一年前、俺が高校二年の夏、この病院で、心臓の病気で亡くなっているし、父親も母親が亡くなる直前に行方知れずになったきりだ。
ところで、僕の態度に少し困惑した様子のカウンセラーがこんな質問をしてきたことを思い出した。
「何か悩みはありませんか? もしあるのなら言ってください」
悩みかどうかと問われれば、人間関係の件も、家庭環境の件も、傍から見たらきっとそうなのかもしれない。けれど、僕にとってのそれらはもはや悩むに値しない、悩む必要のないことなのだ。つまり、諦めた、ということだ。
「ありません」
その言葉を発するときだけ僕は毅然とした態度をとった。それを思い出し、我ながら笑ってしまった。
「ふう――」
深く深呼吸すると、温い空気が瞬時に肺を支配した。
――さて、帰るか。
僕は誰もいない家へ帰るために歩き始めた。
先ほど見た陽炎を追い越したとき、ポケットの中でスマートフォンが着信音を響かせた。かけてきた相手が誰か、画面を確認しなくても見当はついていた。
「――なんだよ」
立ち止まって電話に出るなり、僕は不機嫌な声で言った。夏生はそれに構わず「ねえ、今暇?」と僕とは対照的な声で言った。
「暇じゃない、って言ったらどうする?」
俺は捻くれた返答をした。
「それなら仕方がないから、またの機会にする」
夏生は少し残念そうな声で言った。
「じゃあ、暇だ、って言ったらどうする?」
「昨日のお願いを早速叶えてもらう」
俺の問いに夏生は間を開けずに答えた。
「――ああ、そうかい」
「ところでさ、もし暇じゃない場合、君はどうするつもりなの?」
「家に帰ってだらだらする」
「うん、暇だね」
「なんでだよ」
暇であることは事実だが、決めつけられるとなんとなく苛立ちを覚えてしまうこの気持ちに名前をつけたい。
「じゃあ、私の見たいものその一を発表します」
「ちょっと待て。まだ暇だとは一言も言ってないだろ」
「私の願い、叶えてくれるんじゃないの?」
夏生の声のトーンが急に下がった。
「言ったけど――」
「お願い」
なんて我儘な女だ、と思ったが、
「わかったよ」
僕は夏生の頼みをしぶしぶ受け入れた。なんとなくだが、これ以上彼女の暗い声を聞きたくないと思った。
「ありがとう」
夏生が明るい声で言った。
「それで、何が見たいんだ?」
「川!」
スマートフォンのスピーカーが若干振動するくらいに大きな声で夏生は言った。
「川? そんなものを見てどうするんだよ」
夏生の声量に顔をしかめながら尋ねた。
「いいから、見たいの!」
夏生の声が一層大きくなる。これ以上大きくなってくると僕の鼓膜がもたない。いや、その前にスピーカーが壊れてしまうだろう。という例えを言えば彼女は怒るだろうか。
「……わかったよ。川に行けばいいんだろ?」
僕はしぶしぶ了承し、歩き始めた。
「着いた?」
夏生の急かすようなに数分おきに聞いてくる。
「もう少しで着くからさ、少し静かにしてくれないか?」
僕は心底うんざりしながら言った。
「ねえ、着いた?」
夏生の期待に満ちた声で僕に尋ねる。
川の景色は、いたって普通だった。こんなつまらないものを見せて夏生を喜ばせることが果たしてできるのだろうか。
「ねえ、聞いてるんだけど」
あまりにもしつこく聞いてくるので僕はこの景色をさっさと夏生に見せたいと思った。
「――着いたよ」
僕は川に着いたことを夏生に報告し、緩やかな、いや、単調な川の流れを睨むように見つめた。
「じゃあ視界、交換するね」
夏生が言うと視界が一瞬暗くなり、目の前に真っ白なシーツ、ところどころ薄汚れた病室の壁が目に映った。
僕が夏生の視界を、病室を見ているように、彼女も俺の視界を、何の特徴もない普通の川を見ているだろう。
川があまりにも普通だったせいなのだろうか、夏生が予想したものと違ったせいなのだろうか、彼女はしばらく黙っていた。
「どうだ?」
僕は沈黙に耐えられなくなり夏生に尋ねた。それでも、彼女は答えない。
電話口から少し荒い息遣いが微かに聞こえる。おそらく夏生も僕の息遣いを電話口で感じているのだろう。
失望させてしまったのだろうか。
「なあ、どうなんだよ?」
僕は再び、急かすように尋ねた。
「綺麗だよ」
夏生は静かに言った。その声色には落胆も失望もなかった。
「綺麗って、ただの普通の川じゃないか」
僕は夏生の言葉を否定するように言った。
「それでも、綺麗だよ」
夏生の声色から察するに、どうやら本気で感動しているらしい。
「そういうものなのか」
「あ! 鳥が飛んでる!」
僕には夏生の気持ちが理解できなかった。
『死ぬ前に私の願いを叶えてほしい』
確かに夏生はそう言ったが、こんなことが彼女の願いの一つなのかと思うと、他人のことではあるけれど、妙に納得がいかない。
――あんなものを見たって、なんの意味もないじゃないか。
「ねえ、そっちはどう? 私の病室の様子」
夏生の言葉で僕は思い出したように彼女と交換した視界を、病室を眺めた。以前も『視界の交換』によって彼女の病室を見たことがある。そのとき感じたことといえば、彼女は広く浅くこの世界を見ているのだということだ。僕にとっては珍しくもなんともない川も、彼女にとっては叶えたい願いで、夢だったのだ。
「――狭いし、窮屈だ」
僕は溜息交じりに言った。夏生は窓から広く浅い世界を見ているが、実際にいる場所は狭く、それでいて心は底の見えない闇、深いところにあるのだろう。余命を宣告され、外の世界に直に触れることができず『視界の交換』に頼ることしか選択肢を与えられなかった彼女が不憫で、哀れに思えた。しかし、それ以上に、なぜ僕がその対象に選ばれたのか、不満というか、不思議でならない。彼女は偶然とも必然とも言った。本当に、不思議でならない。
夏生は夏の景色を見たいと言った。そんなこと、僕でなくても可能だったはずだ。例えば病院の看護師や他の患者の見舞いに来た人たちなどから選別し、訳を話せば快く受け入れてくれる人もいるだろう。
まるで最初から僕を指名していたような、そんな気持ちになる。
飛び降りたときだってそうだ。人が飛び降り自殺をしているというのに驚くことも恐れることもなかった。悲しんでいるように、哀れんでいるように見えた。それが今でも引っかかっているのだ。
しつこいようだが、なぜなら僕は自殺志願者で、彼女が死んだら僕も死ぬつもりだ。たとえ無理やりな願いだったとしても、彼女の願いさえ叶えれば、もうこの世にやり残したことはなくなるのだ。
そもそも僕が夏生の願いを叶える義理も道理もない。胸を触ったことを広められたところで死んでしまえばどうでもいいことだ。僕が願いとやらの途中で自殺すること可能性があることを彼女は理解しているのだろうか。
なぜ僕はこんなことを、夏生の願いを叶えるなどという馬鹿な真似をしているのだろうか。そして、なぜ彼女は僕を『視界の交換』の対象に選んだのだろうか。その理由を知りたいが、なんとなく彼女に聞くことができない。
「私いつもそこで生活してるんだよ? 狭いのは確かにそうかもしれないけど、窮屈はひどくない?」
電話口からでも夏生がふくれ面をしているのがわかった。
「それで? お目当ての川を見られて満足か?」
僕はわざと嫌味、皮肉をこめて言った。不機嫌になるだろうなと予想したが「うん、ありがとう!」と今まで以上に明るい声で礼を言われたので拍子抜けしてしまった。
「できれば、川に中、入りたかったな。水遊びとか、したかったな」
さきほどの明るい声とは打って変わって、夏生は残念そうに暗い声で言った。
「――身体は、交換できないんだろ?」
「……うん」
「なら仕方ないだろ? 見るだけで我慢しておけよ」
「うん、そうだね」
夏生は僕に心配させまいとしているのか、明るい声で言った。それでも、彼女の言葉の端々に直に水に触れることができない寂しさ、もどかしさ、残念さが垣間見えた。自殺を邪魔された挙句、右腕を骨折し、知り合いでも女の子のために動かなければならない自分の現状を恨めしく思ってはいたが、彼女の暗い声を聞くと心配に思ってしまう自分がいることに気づいた
それから約三十分、夏生は川を、僕は病室を眺めた。
「さてと」
夏生は思い出したように言葉を発する。
「そろそろ、視界を戻そうか」
「もういいのか?」
俺にとっては長い三十分だったが、夏生にとっては短い三十分だと思う。それ故、俺は思わず彼女に尋ねたのだ。
「うん、もう充分だよ」
「そっか、わかったよ」
僕がそう言うと視界が一瞬暗くなり、やがて小さな川が目に映った。川の流れはやはり緩やかで、それでいて単調だ。よくこんなものを三十分も眺めていられたなと感心した。僕なら一分ともたないだろう。
どうやら、視界が元に戻ったらしい。
「本当にありがとうね」
声色から察するに、どうやら本気で感謝しているらしい。
「いや、別に」
僕はあえて夏生の礼に素っ気なく答えた。自殺志願者の僕としては、人に感謝されて、そして情がわいて、まだ生きていたいと思ってしまうことが何よりも怖いのだ。
「本当、水遊びしたかったな」
先ほどと同じことを夏生は呟いた。
夏生は、余命を宣告されていて、もう長くはないと言っていた。具体的な日数は聞いていなかったが、それでも残された時間が少ないことは確かだ。それ故に安易に励ましの言葉をかけることができなかった。
仮に病気が奇跡的に治ったとしたら、僕は彼女とこの川で水遊びはおろか、逢うことや通話をすることすらもないだろう。なんとなくだが、そんな気がする。
今の僕は彼女の願い叶えるためだけの存在だ。そして、これからもそれは変わらないだろう。
「元気になったら、君と二人で遊びに行きたいな」
「元気になったらって、お前、自分で余命宣告されているって言ったじゃないか。それに、俺にはその気なんてないよ」
元気になったら、なんて、そんなの無理だって自分でわかっているくせにそういうことを言いたがる。そんな綺麗事は、嫌いだ。
「うん、そうだったね。ごめん。それよりもさ」
夏生が思い出したように、わざとらしく話題を変える。
「なんだよ?」
「次に見たい場所、決まったよ」
「どこだよ?」
「学校、かな」
夏生は明瞭な声で次の希望の場所を言った。
まあ、小さい頃から入院していたのだから学校も満足にいけなかったのだろう。
「嫌だって言ったら?」
敢えて僕はそう言いながら、病院の真向かいに建っている自分の通っている学校を睨みつけた。
「胸触ったこと皆に話す」
夏生は笑いながら言った。
諦めているとはいえ、こいつに弱みを握られた自分が恨めしいし、不甲斐ない。
――それにしても学校、か。
「ああ、わかったよ」
とりあえず夏生の次の願い叶えることを約束して俺は電話を切った。
なんとなく家に帰る気分にもなれなかったので寄り道と評して病院、学校周辺をふらふらと歩いた。
頃合いの時間になったので帰ろうとすると前方に一組の男女が歩いているのに気づいた。そして、歩みを止めた。後ろ姿だけでもわかってしまうのは、未練があるからだ。
あれは、元カノの香織だ。おそらく彼氏らしき男と話をしている。
多分、いや、きっと、寄り道をしたことがいけなかったのだろう。
香織の笑顔を見て様々な記憶がよみがえってくる。それと同時に猛烈な吐き気と頭痛に襲われ、その場に蹲った。
母親の死と父親の失踪。
親友の事故死。
今目の前を歩いている香織との失恋。
芋づる式のように様々なことがフラッシュバックし、それが頭を、俺に心を支配するのに時間はかからなかった。
涙が、溢れてきて止まらなかった。
車の走る音も、人の会話も、何も聞こえない。
それでも、近くの電柱にとまっているうるさい蝉の鳴き声だけは鮮明に聞こえた。