第一章 少女の望み「2」
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僕は屋上に駆けつけてきた看護師に腕を掴まれ、そのまま屋上から連れ出されてしまった。
その時の夏生の顔、忘れられない。
笑っていやがった。それも可笑しそうに。無邪気な子供のように。
「だめですよ! 命を粗末にしちゃ! 悲しむ人もいるんですから」
看護師が半分怒鳴りながら僕の腕を掴み、半分引きずりながら言った。
自殺者対応マニュアルにでも書いてありそうな薄っぺらの常套句を看護師が必死な顔で言っているのを見て僕は心の中で深く溜め息をついた。俄かに興が醒める、というのはこのことをいうのだろう。
――看護師さん、それは綺麗事だよ。
やがて、僕が寝ていた病室の前までくると、看護師は扉を開け、僕を引っ張りながら入った。看護師の対応に不満が爆発しそうになったが、周りの老人達の好奇な目を感じ、それをぐっと堪えた。
僕の病室には医者がパイプ椅子に腰かけて座っていた。
「屋上へ行っていたんですか?」
医者が僕に言った。僕はそれに答えず、病室の床の埃を眺め始めた。
「だめですよ、自殺なんて」
先ほどの看護師が言っていた綺麗事を医者が言った。
どいつもこいつも同じ様な台詞を吐く。こうまで同じ言葉を繰り返されると本当に自殺者対応マニュアルが存在するのではないかと思ってしまう。
「とりあえず、腕を見せてください」
医者がわざとらしいにっこりとした笑顔で言った。僕はしぶしぶ右腕を医者のほうへ向けた。
「全治は一カ月くらいかな。その都度病院に来てもらうけど、いいかな?」
「……はい」
僕は医者の着ている白衣の裾を眺めながら言った。
まあ、骨折もある意味病気みたいなものだ。通わなければならないのは仕方がない。
だが、次に医者が言った言葉によって僕の心に、悪い意味で戦慄が走った。
「あと、君はカウンセリングを受けてもらうよ」
「カウンセリング?」
僕は思わずは聞き返した。
「そう、カウンセリング。君は昨日と今日で二回も自殺未遂をしているだろう?」
「なん、で、それを――」
昨日のことならまだわかる。だが、今日のことはわからないはずだ。
僕は頭の中で考えた。そしてわかった。
――夏生め!
『やっぱりここにいたんだ』
夏生が事前に看護師に知らせていたのだろう。そうとしか考えられない。
「カウンセリングはこれから週二回受けてもらうよ」
「二回も!?」
僕は半分叫びながら言った。
「そう、二回だ」
医者が、やはりわざとらしい笑顔で言った。
「君は身体の治療よりも、心の治療が必要だ。そのための薬も出さなければならない」
「そんなの――」
そんなの、まるで異常者扱いだ。
「とにかく、自殺はだめだよ。悲しむ人がいるんだからね」
――またそれか。どうして皆同じ言葉を吐くんだ? それ以外にないのか? もう、聞き飽きた。僕の死を悲しむ奴なんて、もういねえよ。
「とりあえず、今日はもう帰って大丈夫だよ。カウンセリングは早速明日からやるから、必ず来るようにね?」
「……はい」
僕は力なく折れていないほうの腕をだらりと下げながら言った。
ギブスでぐるぐると巻かれた右腕を睨みながら、僕は病院を出た。外はすっかり夕方になっていた。
『夏らしい夏を見てみたい』
ふと夏生の言葉を思い出した。
たとえ夏だとしても、日が落ちれば涼しくなってしまうし、蝉も鳴かなくなる。
骨折の程度にもよるが、僕程度の骨折では一日の検査入院で済むらしい。なかには折れたその日にうちに家に帰れたり、反対に約一カ月は病院漬けだったりと、骨折の程度によって期間は違うらしい。
「くそ!」
僕はアスファルトに思いっきり蹴った。周りから見たら地団駄踏んでいるよう見えるだろう。どう見られたって今は構わなかった。このイライラを少しでも和らげることができれば何でもよかった。
「くそ!」
もう一度蹴った。今度は打ちどころが悪かったらしく、つま先に激痛が走った。腕だけじゃなく足まで骨折したとなればいよいよ僕の自殺計画は難航するだろう。そう僕は思い直してアスファルトを蹴るのを止めた。
ポケットのスマートフォンが鳴った。
画面に表示された着信相手の名前を見て、俺は顔をしかめた。
「……なんだ?」
「うわ! すごく暗い声」
相手は夏生だった。
「何の用だ?」
「そうそう! テストしようと思って」
「テスト?」
「例の話の、だよ」
夏生の明るい声色が耳を劈く。
例の話とは 例の話とはおそらく『視界の交換』のことだろう。
「――勝手にやれよ」
僕は投げやりになった。
――いや、待て。
「そういえばお前、看護師に俺が屋上にいることばらしただろ?」
「うん、言ったよ」
夏生は悪びれもせずに言った。
「でも君の搬入理由は特異だから、私でなくても、誰でも想像はできると思うよ」
言われてみれば、確かにそうだ。けれど、ばらされたことに変わりはない。
「ばらしたことは本当だろ?」
僕は若干苛立ちながら言った。
「はいはい、ごめんね」
夏生は平謝りをした。それが余計に僕を苛々させた。
「とにかく、テスト、やるなら早くやれよ」
「わかった」
夏生が言ったと同時に視界が一瞬暗くなった。
スマートフォンを耳に当てながら、何やら茫然と立ち尽くしている少年がいた。右腕がギブスでぐるぐる巻きにされている。
――……僕だ。
「すごい! 外ってこんな風になっていたんだっけ!?」
夏生がはしゃぎながら言った。どう見ても普通の道路だろ、と思った。
「ねえねえ、そっちはどう見える?」
「どうって――」
感想を言う前に、僕はなんとなく口に手を当てた。
昨日、僕が落ちていく光景がフラッシュバックしたのだ。
目線の先の僕が口に手を当てている姿がはっきりと見えた。その姿はとても滑稽で、あれが自分でなければ指を差して笑っていただろう。
「……違う意味で、すごいよ」
僕は露骨に暗い声で言った。
「それじゃあわからないなあ」
「語彙力がないとでも思っとけよ」
「そう思っておくよ。さてと、それじゃあ、もう戻すね」
「もういいのか?」
「うん、だって君、嫌そうだもん」
「その嫌そうなことをこれからもずっとやらせるんだろ?」
僕はため息交じり言った。
「それもそうだね。でも今はこれくらいで我慢しておくよ」
夏生は笑いながら言った。
「君が死ぬまでこれが続くのか」
僕は皮肉を込めて言うと、
「そう、死ぬまで」
と言い、続けて夏生は、
「じゃあ、戻すね」
僕の皮肉を無視して言った。
一瞬視界が暗くなり、アスファルトの灰色がぼんやりと視界に浮かんできた。どうやら視界が元の僕のものに戻ったようだ。
僕は病院の窓のほうを見た。
夏生が、こちらに手を振っていた。
窓は、開いていない。
――あいつは、あそこから僕を見ているのか。あそこから、世界を見ているのか。
広く浅くという言葉がある。夏生にはその言葉が最も適切だと僕は思った。そして、その逆がおそらく俺だろうと思った。
「意外と眺めがいいんだな、お前の病室」
「そう? 私はそうは思わないけどな」
「何も考えずにただぼんやりと窓の外を眺める。僕にとっては最高の至福だと思うけどな」
「君にとっては、そうかもしれないね……」
夏生の声色が少し暗くなった。
「できることなら身体ごと変わりたいものだね。だってお前、長くないんだろ? 最高だし、羨ましいよ」
僕は皮肉を込めて言った。事実、羨ましかった。
「さすがに、それは傷ついたよ」
夏生が困ったように言った。
「ああ、そうかい」
僕は投げやりに言った。
「学校、嫌いなの? それにその口振りだと親とも仲良くなさそうだね」
「学校とか、人が多くいるところは嫌いなんだよ。親も、母さんは一年前に死んでいるし、親父もいないようなものだから」
僕はため息交じりに言った。
「まるで僕一人だけ取り残されている感じがするよ。だからさっさとおさらばしたいのさ」
この一年、色々なことが起きすぎた。僕一人では抱えきれないくらいに。
「それ、私も感じるよ。病室で、世界で一人ぼっちなんだなって思うことがあるよ」
夏生は静かに言った。
確かにあんなところにいたら自分が一人だと感じてもおかしくはないだろう。けれど、
「お前みたいなやつと一緒にするなよ。僕は自殺志願者だ。お前みたいなやつとは違う。どうせなら視界だけじゃなくて身体も変えて見せろよ。さっきも言ったけど、お前が羨ましくてしかたがないよ」
僕は吐き捨てるように言った。
言い終えると、僕は深くため息を吐いた。
本来なら昨日、もしくは今日死ぬことができたはずだった。昨日は僕のミスだとしても、今日は明らかに電話の向こう側のやつのせいで失敗したのだ。思い出しただけでも腹が立ってきた。電話口の向こうの我儘な女のせいで僕は未だに死ねずこの世を動く蝉の抜け殻の如く徘徊し続けなければならないなんて、考えれば考えるほど気が沈んでいく。
つまり、空っぽなんだ。僕の人生は。
電話口から深く息を吸う音が聞こえてきた。
「……ごめんね」
夏生が申し訳なさそうな声色で謝った。
「確かに、私は生きたい。でもそれは叶わぬ願い。君の言うとおり身体が交換できるようになったらどれだけ嬉しいかわからない。でも、それはできない。それはしかたのないこと」
そこまで言って夏生はふうと息を吐いた。そして再び言葉連ねた。
「私、さっきも言ったよね? 『君が生きることに全力なように、私も生きるのに全力なんだよ』って」
「ああ、確かに言ったな」
僕は夏生が屋上で言った言葉を思い出しながら言った。
――僕が生きることに全力だと? 笑わせるな。その逆だ。
「私は君が本当に死にたいと思っているようには見えない」
夏生に対して憎しみにも似た感情が湧きあがるのを感じた。
「お前に俺の何がわかるんだよ」
「確かにわからない。でも何か対して懸命に足掻いているように見える。ああ、この人、本当は死にたくないんだなって、少なくとも私はそう思った」
心の底からうざいと思った。
「そんなのお前の勘違いだ。僕は死にたいんだ。そんな僕をこの世に留まらせているのは他でもない、お前だ」
「……うん、ごめんね」
夏生の暗い声で謝る。
「ああ、本当だよ。人の生き死に介入して自分の我儘を満たそうとする。そんなお前は最低だよ」
僕は今までの人生の憤りをぶつけるように、まるで八つ当たりをするように言った。事実、八つ当たりだ。
「ごめん。でも、身勝手なお願いだってことはわかってる。だから改めてお願いする。どうか私に力を貸して。私に、外の世界を見せて」
少女の声色は何か大きなことを決意しているように感じられ、俺は返す言葉を失った。
「聞こえてる?」
夏生が尋ねる。
「……聞こえているよ」
「契約、解除する?」
夏生が暗い声で俺に尋ねる。
「君が辛いなら、私は諦めるから」
「解除したら、どうなるんだよ」
僕はやや口ごもりながら尋ねた。そんな僕の問いに対し、夏生は少し間を置いて、
「死んじゃう」
「――は?」
「契約を解除したら、私の寿命は尽きるの」
「ちょっと待ってくれ。意味がわからないんだが」
既に『視界の交換』で頭が混乱している僕に更に追い打ちをかけるように夏生は言った。
「これは私の残りの人生全てを使った賭けなの。だから、私に外の世界を、夏を見せてほしい」
電話口から夏生が懸命な声が聞こえてくる。どれだけ本気なのか、電話口から聞こえる声だけで容易に想像できた。
こいつは、本気で外の世界をみたいと思っている。けれど、俺の気持ちを、思いを汲んでくれている。
『君が辛いなら、私は諦めるから』
『契約を解除したら、私の寿命は尽きるの』
夏生の言葉が頭の中を駆け巡る。
俺はふうと息を吸って、それからゆっくりと吐いた。
「契約は、解除しないよ」
この言葉は断れば夏生を死なせてしまうことへの罪悪感からなのか、一度引き受けたことを無碍にできない僕のなかで僅かに残った正義感からなのか、どうやって出たのかまるでわからない。そんな僕の言葉に対し、
「ありがとう」
夏生は一言だけ言った。
これで用件は終わりだろうと思い、僕は電話を切ろうとしたが「あ、そうそう」と夏生が思い出したように口を開いたので電話を切らずに「なんだよ」とやや声を低くしながら聞いた。
「九月に蝉の鳴き声は、聞こえないんだよ」
夏生が意味深なことを言った。
「なんだよ、それ?」
「いや、なんでもない。それより、これから楽しみにしているからね」
夏生はそう言ってすぐに電話を切った。僕は彼女の意味深な言葉をさして気に留めず、ふうと息を吐きながらスマートフォンをポケットにしまった。