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第一章 少女の望み「1」

   1



 霞んだ視界に白い壁、白い床、白いカーテンが映った。一瞬、天国かと思ったが、徐々に光に目が慣れていくにつれ、今居るこの場所が天国ではないことに気づいた。

 白い壁や床はところどころ塗装剥げが目立っている。カーテンに至っては、茶色い染みがいくつか付着していて、お世辞にも綺麗とは言い難い。敢えて言葉に表すのなら、灰色が適切だろう。

 僕は深い溜息をついた。それが安堵からでたものか、それとも落胆から出たものかはわからない。いや、寧ろ両方の意味なのかもしれない。

 体を起こそうとすると、チクリと、左腕に何かが刺さっているような微かな痛みを感じた。目を眇めながら左腕を睨むとそこには真っ白なガーゼが貼ってあり、そこから細い管が伸びていた。それを辿っていくと透明な液体の入った袋に辿り着いた。医療ドラマでよく見る点滴、というやつだ。つまり、僕は今病院にいるということになる。

 目をこすりながら今居る場所を再確認した。カーテンのみで仕切られただけでそこまで広くはない。時折カーテン越しに咳払いが聞こえてくる。

 幸か不幸か、右手の、利き腕の骨折だけで済んだようだ。思わず僕は自嘲的に笑ってしまった。

 僕は、夢でないことを、死んでいないことを確認するために自分の頬を強くつねった。

 ――……痛い。

 ここは、天国ではない。

 どうやら僕は、死ねなかったようだ。

 こんな奇跡なら、いらなかった。

 けれど、幸い医者や看護師はいない。いるのは患者の老人ばかりだ。これは神様が与えてくれた二回目のチャンスに違いない。

 僕はギブスが巻かれた右手を気にしながらベッドから起き上がり、無駄に手触りの良いシーツを乱暴に払い除け、ご丁寧にそろえられたスリッパを履き、左腕に刺さっている点滴を乱暴に引き抜き、こっそりと病室を出た。



 若干デジャブを感じつつ扉を開けると、たくさんの白いシーツが干されている屋上へ出た。太陽の光がその白さに反射し、容赦なく瞳を突いてくる。

 落下防止のために設置されているフェンスを掴み、向かいの、昨日飛び降りた学校の屋上を睨んだ。

 所詮三階だ。簡単に死ねると思った俺が甘かった。

 僕は確実に死ぬための算段を考え始めた。

 昨日は落ち方が悪かったのかもしれない。中途半端な落ち方をした結果、中途半端に怪我をしただけで終わってしまったのだ。まったく、我ながら間抜けだ。けれど今日は、今回はきっと成功する。いや、成功させる。そしてこの世界から確実にさよならするのだ。

 簡単だ。

 頭から落ちれば、確実に死ねるのだ。

 冷静に考えれば当たり前のことだが、昨日の僕はそこまで考えることができなかった。ただ死に急いでいただけだった。いや、もしかすると、

「はは、そんなわけ、ないよな」

 僕は脳裏を浮かんだ思考を無理やりなぎ払った。

 ――そんなわけ、ないんだ。

今回はきっと成功する。いや、成功させる。

 僕はフェンスに足をかけた。

 利き腕が骨折しているせいか、上手く上ることができない。

「くそ! くそ!」

 僕はめげずに何度もフェンスに足をかけ、上ろうとした。その度に忌々しい右腕が邪魔をする。僕は上りづらさを実感するたびに包帯でぐるぐる巻きにされた自分の右腕を睨んだ。

「くそが!」

 僕は叫びながらフェンスを思い切り蹴飛ばした。早くしないと病室に僕が不在だと気付いた医者か看護師が屋上に探しに来るかもしれない。そうなってしまえば僕の計画は破綻だ。きっとすぐに病室に連れ戻されてしまうだろう。そして常に監視されてしまうだろう。なんとかならないものか。

 僕はフェンスとその向こう側を交互に見つめた。すぐそこに自分の望みがあるのに叶えられない。まるで僕の今までの人生のようだ。そして、昨日が最後の日になるはずだったのに、間抜けな自分自身のせいで生きながらえてしまった。右腕の骨折のため簡単に自殺もできない。俺は突きつけられた現実を改めて再確認すると深く絶望し、その場に座り込んだ。

「……どうしていつもこうなんだよ」

 僕は昨日に引き続き太陽が空を占拠している真夏の晴天を仰ぎながらぼやいた。

 汗が絶え間なく流れてくる。ギブスの下はきっと蒸し風呂状態だ。昨日学校の連中が終業式を行った体育館よりも暑い違いない。この蒸し風呂とこの気温、交換できないものだろうか、と投げやりな気持ちになった。

 ――いや、少し冷静になろう。急いては事をなんとやらというじゃないか。

 僕は心のなかでそう呟きながら再び立ち上がり、フェンスに左手をかけた。そして右腕を庇いつつ一歩一歩慎重に上り始めた。

 コツさえ掴めば、難なく上れた。

 ――あと少しで、越えられる。

 僕の左足がフェンスを越えようとした、その時だった

「やっぱり、ここにいたんだ」

 女の声がした。

 看護師かもしれないと思い、僕は振り返らず、なりふり構わずフェンスを越えようと懸命に足をあげた。

 だが、その努力は報われなかった。

 身体が望んだ世界とは逆方向に引っ張られた。

 もはや、冷静さの欠片もない。

 鈍い痛みが背中を襲った。どうやらコンクリートに思い切りぶつけたようだ。

 空を仰ぐと、まるで太陽が僕を嘲笑っているように見えた。

 ――そんなに、僕が可笑しいか?

「大丈夫?」

 女が心配そうな声で僕に言う。なんて荒っぽい看護師だと心の中で毒づいたが、冷静に声色を分析してみるとそれが看護師のものではないとわかった。

「ねえ、大丈夫?」

 女の声が再び僕の耳に届いた。

 俺は骨折した右腕を庇いながら起き上がり、声の主の方を睨んだ。

 目が声の主を捉えた途端、僕は驚き、硬直した。

 声の主は、看護師ではなかった。昨日、僕が校舎の屋上から飛び降りたときに偶然目が合った少女がパジャマ姿で立っていた。

「ねえ、大丈夫かって聞いてるんだけど」

 少女が探るように言った。

「大丈夫なわけあるか」

 僕は不機嫌になりながら答えた。

「うん、大丈夫そうだね」

 少女が笑いながら言った。僕はそんな少女の言葉に腹が立った。

「こっちは骨折してるんだぞ? それなのに君は――」

「死のうとしている人間が何で骨折した右腕を庇いながらフェンス上ってるんだろうね」

 少女が俺の言葉を遮りながら言う。

「本当は、死にたくないんじゃないの?」

「そんなことはないよ。ただ、登りやすいようにしていただけだ」

 僕は少女の言葉を即座に否定した。

「本当は?」

 少女が探るように言った。

 少女の言葉に僕は確かな怒りを覚えた。

「放っておいてくれ」

「それはできない相談だね」

 少女が真夏の晴天を仰ぎながら言う。きっと彼女の眼には、この空は綺麗に見えていることだろう。

「どういうことだ?」

 僕は訝しげに少女に尋ねた。できれば早くこの会話を終わりにして、早くフェンスを飛び越えてこの世界からおさらばしたい。

「君に死なれると私が困るの」

 どういう意味か、全くわからない。

「意味がわからないよ。一体どういうことだ?」

「そのままの意味だよ。君に死なれたら私がすっごく困るの。だって、もう契約しちゃったから。だから今は死なないで」

 少女が笑顔で言った。

 ――契約? 一体なんのことだ?

 本当に、意味が分からない。

「そうかい。契約だかなんだか知らないけど、俺には関係ないことだな」

 僕は無理やり会話を止め、再びフェンスに向き直り、上ろうと試みた。だが、それも再び少女の手によって阻まれてしまった。

 少女の右手が僕の左腕を掴んで離さない。

「なんだよ」

僕は少女の手を振りほどかずに尋ねた。

「だから、死なれたら困るの。もう契約しちゃったから」

 先ほどまで笑っていた少女が今度は真剣な表情をしながら言った。

「だから、それは僕には関係ないだろ」

 僕は苛立ちながら言った。

「それは、そうだけど……」

「だろ? だからこの手を離してくれないか? 早くしないと誰かきちまう」

 僕は少女の手を振りほどこうとした。だが少女はそれに抵抗し、腕を握り返してきた。

「――離せよ」

 俺の苛々が徐々に溜まっていく。

「離せよ! 離せったら!」

 僕は思い切り少女の腕を振り払おうとした、が、

「もし、今ここで君が死んだら――」

 少女が僕の腕を強く握りながら口を開いた。

「もし今ここで君が死んだら、君が昨日書いた遺書、コピーしてばら撒くから」

 少女は俺の腕を掴んでいないほうの手で彼女のパジャマのポケットから見覚えのある『遺書』と書かれた茶封筒を取り出した。

 僕は驚愕した。

 ――あれは、僕の字だ。昨日僕が書いた遺書だ。

「お前、それ、どこで――」

 僕は混乱する自分を落ち着かせながら少女に尋ねた。

「君が搬送されたときに、こっそりと君のポケットから抜いたの」

 少女が掴む力を緩めずに言った。

「中身、読んだのか?」

「読んだよ。君って達筆で文章力あるんだね」

「返せよ!」

 僕は少女の手を振りほどき、逆に少女に掴みかかった。

 遺書がどうなろうが、中身を読まれようが知ったことではなかった。ただなんとなく、少女に僕の自殺を、人生を嘲笑われたような気がして、腹が立った。

「きゃ!」

 少女が小さく悲鳴を上げる。

 予想で通り、少女は抵抗した。僕は構わずそのまま取り返そうとした。取り返した後、ひとまず少女に見つからないところまで逃げようと試みた。だが、そんな僕の試みを察したのか、少女は抵抗する力を一層強める。

「乱暴は、だめだよ」

 少女が怯えた様子で言った。

「お前が返してくれないからだろ」

 僕と少女の攻防は少しの間続いた。

 早くしないと誰かがきてしまう。そうなれば僕の計画は破綻だ。それが医者や看護師なら尚更だ。無断で病室を抜け出しただけならまだ弁解の余地はある。だが、この場面を見られたら、少なくとも他の人の目には僕が女の子に乱暴しているように見えるだろう。早くこの攻防に終止符を打たなければならない。

 苛立ちが最高潮に達した。

「いい加減にしろよ!」

 僕はついに怒鳴り始めた。それにビックリしたのか、少女は一瞬怯んだ。その隙を見て僕は少女から遺書を取り返そうと手を伸ばそうとした。骨折しているためか、右腕に鋭い痛みが走る。無我夢中だったせいか、利き腕が咄嗟に出てきてしまったらしい。だが、それも次の出来事で全てかき消された。柔らかい感触が僕の右手を襲ったのだ。

 一瞬、頭が混乱した。混乱するな、という方が無理な話だ。

 慌てて手を引っ込めた。その際も右腕に痛みが走ったが、それ以上に先ほど僕を右手を襲った柔らかさの方を僕は鮮明に覚えていた。

 嫌な予感がした。

 遺書は、取り返せなかった。

「えっち……」

 少女が顔を真っ赤にしながら小さな声で言った。

 さっき触ったのは、どうやら少女の胸だったようだ。それを確信すると、いよいよ頭が混乱してきた。

「お、お前が早くそれを返さなかったからだろ?」

 僕は焦りながら言い、再度遺書を取り返そうとしたが、少女の真っ赤な顔を見て先ほどの柔らかな感触再びを思い出し、僕も赤面し、そして呆然としてしまった。

「――から」

 少女が小さな声で何かを言っている。

「え? なんだって?」

 僕は聞き返した。

「今のこと、人に言うから。広めるから」

「ちょ、それはやめろよ」

「じゃあ、私の言うこと聞いてよ」

「なんでそうなるんだよ。大体僕は悪くな――」

「じゃあ、広めてもいいんだね?」

 少女は僕の言葉を遮って脅しをかける。

「そ、それは……」

 僕はしきりに目を瞬かせながら考えた。この場の打開策を。だが、頭が混乱しているため、何度考えても良い打開策は見つからなかった。

「どうすれば、いいんだよ……」

 結局、僕は少女の要求を仕方なく呑むことにした。

「簡単だよ。私の見たいもの見てもらう」

 少女は満足げな顔で言った。」

「見たいものってなんだ? 具体的に言ってもらわないとわからないよ」

「そのときの気分で決める。大丈夫。見たいものは大体決まっているから」

「というか、お前自身がその見たいものをみればいいだろ」

 僕がそう言うと少女は少し困った顔をした。

「私、病気だからさ、外に出られないんだよね」

「重い病気なのか?」

 僕は躊躇せずに尋ねた。

「うん」

 少女も躊躇せずに答える。そして、おどけて、笑った。

「どうやって見せてやればいいんだよ? 身体でも入れ替えるつもりか?」

 僕は意地の悪い口調で言った。

「もう、わかっているでしょ? 目を閉じてごらん」

 少女が悪戯っぽく笑いながら言う。

「え?」

「いいから、早く目を閉じてみてよ」

僕は少女の指示通り目を閉じた。口調がまるで命令しているように聞こえ釈然としない。

「はい、目を開けて」

 ――随分早いな。

 指示通り目を開けると、視界には右手にギブスをした、冴えない男子高校生がいた。

「こ、これは!?」

「『視界の交換』ってやつだよ。これで私の見たいものを見てもらうから」

 昨日、飛び降りたとき起こった現象と酷似している。というより、まさしくそれだ。

「一体、これ、どうやって……」

僕は混乱しながら頭を抱えた。

 僕の目には頭を抱えて項垂れる冴えない男子高校生が写っている。少女の視界は僕の身体を無遠慮に凝視しているようだ。

 僕は深く深呼吸し、少女に、正確には俺に向き直った。それと同時に僕の身体が俺に向き直る。なんとも奇妙な光景だ。僕はこんなにも陰気な面をしていたのかと心底げんなりした。

 数秒間互いを眺めあって、やがて少女は『視界の交換』を止めた。

 視界が少女のものから僕のものに切り替わるとき、一瞬目の前が真っ暗になった。

「これ、どうやってるんだ?」

 僕は懸命に冷静になりながら少女に尋ねた。

「魔法みたいなものだよ」

「魔法?」

「そう、魔法。神様がくれた特殊能力ってやつかな」

 少女は得意げに言った。俄に信じられなかったが、実際やってみせたのだ。信じるしかないだろう。

「魔法ってなんだ? 神様ってなんだ? そんなもの――」

 そんなもの、いるはずなどないのだ。それは僕が今までの人生をかけて証明した。もしいるとするなら、それはきっと――。

「この能力を使える対象は一人だけ」

 混乱している僕に構わず、少女は言った。若干それにむっとしたが、

「その大切な一回を僕に使ったと?」

「そう」

 それは大層なことだ。たった一人にしか使えない謎の能力をよりにもよってこんな陰気な奴に使ってしまうとは。

「もっと他に適任がいたんじゃないか?」

 僕が言うと、少女は晴天を仰ぎながら目を瞑り、再び開き、そして僕を真っ直ぐ見つめた。

「空に興味があったの」

 俺は神秘的に見えた太陽や青空、体育館や校舎を思い出した。

「理由はそれだけか?」

 僕は少女の言葉に確かな殺意を抱いた。

 あの神秘的な光景は僕だけのものだった。けれど少女に、目の前にいる奴にそれを横取りされた。そして今回も、僕は死ぬチャンスを目の前にいる奴に潰された。僕の完璧な自殺計画は目の前にいる奴のせいで徒労に終わったのだ。

「人を嘲笑うのが、そんなに楽しいか?」

 僕は低い声で少女の言葉を遮り、威圧的な態度で言った。

「そんなつもりはないよ」

「なら馬鹿にしているのか? 自殺する、この世から逃げる僕が面白いのか?」

「そういうわけじゃない」

「じゃあなんなんだよ!」

 僕は頭を掻きむしりながら怒鳴った。

 少女はそんな僕を見て少したじろいだ。だがすぐに姿勢を戻した。

「君が生きることに全力なように、私も生きるのに全力なんだよ」

「は?」

 ――こいつは何を言っているんだ?

「私は――」

 少女が何かを言おうとしたがそれを躊躇した。その態度に僕はイライラした。

「なんだよ。言いたいことがあるのなら言えよ」

 僕の言葉に意を決したのか、少女は深く深呼吸をし、やがて口を開いた。

「私は、余命を宣告されている。そして、もう、長くない」

 少女の表情は凛としていた。

「余命?」

 僕は訝しげに尋ねた。

 僕はまるで漫画か小説の中にいる感覚を覚えた。

 そういえば、さっき少女は自分が重い病気だと言っていた。

 改めて少女の身なりを観察する。

 屋上に干されている真っ白いシーツよりも真っ白いパジャマ姿。昨日見た白髪の老人よりも細い腕。確かに、なんらかの重い病気を抱えていそうな体つきをしている。

「どこが悪いんだ?」

「心臓」

 少女はあっさりと答えた。

「心臓、か」

 僕は無機質なコンクリートを見つめながら言った。

 『視界の交換』や、余命宣告されていることの暴露によって先ほどまでの苛々や憤りはどこか遠くへ行ってしまった。代わりに僕の胸中に生まれたのは、極度な混乱だった。

「私は確実に死ぬ。小学三年生の頃にそう診断されて、それからは色々な病院を転々とした入院生活。そして、多分、ここが最後の病院になるかもしれないってこの間主治医の人に言われたよ」

 少女の表情から諦めに似た何かを感じた。

 おそらく、いや、確実に僕は少女に同情している。が、それと同時に嫉妬もしている。僕の運否天賦よりも確実な死を彼女は持っているからだ。

「死ぬ前に見てみたい。本当、見るだけでいいんだ。私はこの病院からでしか、夏を感じることはできないから」

 俺は何も言わず、ただ少女の話を聞いていた。

「夏の景色と、それと――」

 さっきまで饒舌に話していた少女だったが、ここにきて口を噤んだ。

「それと?」

「ごめん、それはまだ言えない」

 少女は僕から目を逸らし、遠くの雲へ視線を移しながら言った

「それで僕が納得すると思っているのか?」

 僕は少女に詰め寄った。

「納得するとは思ってない。けど、納得してほしい。君が本気で私の願いを叶えたいと思ったそのときに言うよ」

 少女にそう言われた僕は何も言わず、彼女に倣い遠くの雲を眺めた。

「私は夏が好き。でも夏らしい夏を覚えていない。というより、もう、知らないって答えた方が正しいのかもしれない。だから、それを思い出したい。もう一度だけ、見てみたい」

「なんで、その役目が僕なんだ?」

「偶然、だったのかな。いや、違う。必然かな。きっとそうだったんだと思う」

「偶然? 必然?」

 少女の含みある言い方に若干疑問が湧いたが、僕は敢えてそれを受け流した。

「勝手に契約してごめんなさい」

 少女は深々と頭を下げた。そして、

「どうか、どうか私の願いを叶えてください」

 少女は頭を上げずに言った。その姿が、不憫に感じた。

「とりあえず、顔上げろよ」

 僕がそう言うと少女はゆっくりと顔を上げた。

「……わかったよ。願いだっけ? 叶えればいいんだろ」

 僕はしぶしぶ少女の頼みを引き受けた。

「ありがとうございます」

 少女は律義に、再び深々と頭を下げながら言った。そして思い出したかのようにすぐに顔を上げた。

「あ、それと」

 少女が思い出したようにパジャマのポケットから携帯電話を取り出した。ガラケーだった。今時ガラケーとか珍しいなと思った。

「『視界の交換』をする際には電話で連絡するから。電話で話しながら私に景色を見せてよ。そのほうが確実だし、何より、きっと楽しいはずだから」

「ああ、わかったよ」

 楽しいかどうかさておいて、今は少女の要求を呑むことにした。

 もはや少女に反発する気はなかった。

「はい、これ」

 少女は画面をこちらに見せてくる。

 画面にはメールアドレスと電話番号と、少女の名前が表示されていた。

 僕はそれらをアドレス帳に打ち込んだ。

「あ、名前」

「うん、私の名前は夏生っていうの。今の季節にピッタリでしょ?」

 夏生は笑った。

 僕はそれを軽く受け流しながら何気なく夏生の真っ白な手、肌を見た。日焼けの日の字もなく、ちっとも夏らしくなかった。

 そういえば、夏生は余命を宣告されていると言っていた。

『私は確実に死ぬ』

 夏生の余命があとどれくらいかはわからない。それでも、彼女の真っ白な手、肌を見ると彼女の病気の重さが容易に想像できた。

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