第五章 解かれた心と――「3、4」
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自動ドアが開き、入ってすぐのところのあるナースステーションへ向かった。
「あの」
カウンターを隔てて受付の看護師に話しかけた。
「はい? えっと、受診でしょうか?」
受付の看護師は俺の右腕をちらりと見ながら言った。
「いえ、お見舞いです」
俺は少し苦笑いをしながら言った。
「あ、すいません。えっと、どちらの方のお見舞いでしょうか?」
看護師は謝罪しつつも、意外そうな顔をしながら俺に尋ねた。まあ、こんな腕をしているのだから受診と間違われても文句は言えないだろう。ましてや、俺は受診の他にカウンセリングも受けているから頻繁にこの病院に訪れている。きっとこの看護師もきっとそれを覚えていたのだろう。
「あの、なつ――明石さんのお見舞いできました」
名前で言いかけたのを訂正した。
「少々お待ちください」
受付の看護師はテンプレートに笑って立ち上がり、ナースステーションの奥のほう、ある看護師のところまで歩いていった。そこには、以前俺が夏生の見舞いをしようとしたのを止めた看護師がいた。受付の看護師がその看護師に、時折こちらをちらりと見ながら話しをしている。
やがて看護師が、以前の夏生の見舞いをしようとしたのを止めた看護師がこちらに向かって歩いてきた。そして、カウンターを隔てて、事務的な表情で、
「坂口さん、ですね?」
わかっているくせに、と俺は心のなかで言ったがそれを悟られぬように、
「はい、そうです」
「明石さんのお見舞いですか?」
「はい、そのつもりできました」
それを聞いた看護師の表情が少し険しくなった。それでも、しっかり見ないとわからない程度に。さすがプロだな、と感心した。
「明石さんがまだICUにいることは、知っていますか?」
「――はい」
おそらくこの看護師は僕と夏生がメールの内容を知っているのだろう。電話での会話を聞いていたのだろう。
「今日は、これを置きに来ました。これだけを、置きに来ました」
僕は鞄から二つのドーナツを取り出した。それを見た看護師は、
「はい、わかりました」
そう言って夏生の病室に案内し始めた。
夏生の病室の前に着くと、看護師は
「ここが明石さんの病室です」
「わかりました」
僕は頬を少し緩ませながら看護師の言葉に静かに頷いた。
「ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼します」
そう言って看護師はナースステーションの方へと戻っていった。
僕はドアを開けて夏生の病室に入った。
質素で、女の子らしいものはほとんどなかった。まあ、『視界の交換』である程度は見ていたが、いざ自分の目で見ると、やはり感じ方が違う。なんというか、本当に夏生は、病人なんだなと思った。
――ここで、あいつは過ごしていたんだな。
願わくば、夏生がもう一度この場所に、もっと言えば、もうほぼ不可能ではあるが、病気が治って外の世界を彼女自身の目で見ることができるようにと、心から願った。
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思い出なんて、思い出せばきりがないことはわかっている。僕はその記憶を、過去を消し去ろうと懸命にもがき、苦しんだ。衝撃的な記憶なんて消えないし、過去は変わらない。しかし、僕はそれすらも相殺できるほどの感情を今は抱いている。夏生のことが好きだ、という感情だ。ただ、恋愛的に好き、というわけではない。もっと深い何かを彼女に抱いている。その正体がなんなのかはわからない。恋は盲目というが、盲目になっているつもりもない。むしろ冷静すぎて自分で自分を不気味に思うくらいだった、はずだった。
思い出は、時として残酷だ。そう、残酷なのだ。
夏生のお見舞いに行ってから一週間が経過していた。
「行ってらっしゃい」
父の言葉を背中で聞きながら、
「昼過ぎには帰ってくるよ」
この一週間で父との関係は驚くほど改善され、今では一緒に食事をしながらテレビを見て笑い合っているくらいだ。まるで今までの確執が嘘みたいだ。父は僕や母を心から愛していてくれていたし、過去の憂い故か、蟠りが解けた今でもなにかと俺のこと気にかけている。
僕はもう、父を憎んでなどいない。
「行ってきます」
この時期の暑さは残暑というらしい。僕は文字通り、残りの暑さに撫でられながら、住宅街を抜け、若干賑やかな街並みを横目に黙々と歩いた。暑さに耐えるために心頭滅却をしていたつもりだったが、家を出てから数十分が経とうとしていたとき、僕の心と身体は同時に根を上げてしまった。
アスファルトからの熱気から避けるためと、気分転換のためにサイクリングロードへ入った。というのも、そのサイクリングロードのわきには小さな川が流れており、その音に耳を澄ますと、それだけで暑さを忘れられるくらいだった。
一般道とサイクリングロードの合流地点から数分間歩くと、やがて数メートル先に川岸へ通ずる階段が見えた。
僕は歩みを止めた。
階段には忘れもしない人物が座っていた。彼女の様子から察するに、きっと誰かを待っているのだろう。それを見て、僕は彼女に気づかれずにその場を駆け抜けようとしたが、それは叶わなかった。動揺していたせいで足がもつれ、僕は盛大にその場に転んでしまった。当然、彼女はそれに気づきこちらを向いて駆け寄ってきた。転んだ人物が、誰かを知らずに。
「大丈夫ですか?」
「――大丈夫だよ」
僕はできるだけ顔を伏せて彼女に正体がばれないように図ったが、それは彼女が僕の顔を覗き込むという行為により徒労に終わった。
「――久しぶりだね」
香織は僕の顔を確認すると、そう言った。
「――ああ」
僕はそれだけ答えて自転車を起こし、急いでその場を離れようとした。
「待って」
香織が静かに言った。僕は彼女の顔を見ずに、
「なんだ?」
「自殺未遂したって、先生から聞いたから、大丈夫かなって」
「――大丈夫だよ」
「その話を聞いた時、私思ったんだ。もしかしたら、私が君に自殺未遂をさせたんじゃないかって」
僕は頑なに顔を伏せていたため香織の表情を見ていないが、恐らくお墓の時の父と同じ様な表情をしているのだろう。父はともかく、なぜ彼女がそんな表情をするのかわからない。
「私は、君を助けられなかった」
「そんなことは、ないよ」
「そんなこと、あるよ」
香織は僕の返答を即座に否定した。
「どうして、そう思うんだ?」
「私、君に恨まれていると今でも思ってる。だって――」
「時期が時期だったからね」
相変わらず顔を伏せたまま僕は言った。
「……うん」
「香織のせいじゃないよ。むしろ、僕が悪かったんだ。あのときは、僕の心が弱かったんだ。だから、君を傷つけて、泣かせてしまった」
『いかないで』
香織の言葉を思い出す。握ってくれた手のぬくもりを思い出す。
「……でも、君は苦しんでいたのに、私だけ幸せになって」
「僕が君の幸せを望んでないとでも思っていたのかい? 今の僕は以前の僕とは違うよ」
「うん、正直思っていた。さっきも言ったけど、恨まれているんじゃないかって」
「それは違うよ」
「違う?」
「君にも幸せな時間が、大切な人ができたように、それは僕も同じなんだ」
僕の言葉に香織は目を丸くした。
「恋人、できたんだ」
「恋人じゃないよ。好きな人ができただけさ。心から大切に思える人が、できただけさ。それに」
「それに?」
「君だってもう、恋人がいるだろ?」
僕は伏せていた顔を上げて香織の顔をしっかりと見ながら言った。彼女は、複雑な表情をしていた。
「――見られちゃってたか」
「なんか含みのある言い方だな」
僕がそう言うと、香織は自分で自分の右肩を撫でながら、
「君は、本当にへんなところで聡いね」
「どういうことだ?」
「人の動向に対して過敏すぎるってことを私なりに褒めたの」
香織は複雑そうな顔をしながら、それでも、微笑んだ。
「――そっか」
僕は息を吐いた。
「私、恋人なんていないよ」
香織が突然話を切り出す。
「――え?」
僕は思わず驚きの声をあげてしまった。全て僕の勘違いなのだろうか。
「私、気づいていたよ。君が走っていた、ううん、あれは私達から逃げていた後ろ姿だった」
「……そ、それは」
僕が口ごもると、
「君が見た人は彼氏じゃないよ。あの人はただの幼馴染。あの時偶然会っただけ」
香織の言葉が本当なら僕は本当に勘違いをしていたことになる。顔から火が出るほど恥ずかしい。
「それで、今日はどこに?」
香織が僕に尋ねる。僕は赤面しているのを悟られぬように努めながら、
「誠のところに行くんだよ」
「そっか」
その一言に香織の優しさが全て濃縮されている気がした。ああ、この子は僕のことを別れた後も見てくれていたんだな、と思うと胸が熱くなった。
「――ねえ」
香織が僕の自転車のハンドルを握りながら、
「また、やり直せないかな」
それに対する返答は、僕の中では既に決まっていた。
「ごめん」
好きな人がいようがいまいが、僕は、断っていたと思う。
「――そっか、じゃあ私、もう行くね」
「誰かを待っていたんじゃないのか?」
「うん、これから隣町に買い物に行くところだったの。それの待ち合わせ。でも、もう近くまで来たみたいだから早くいかないと怒られちゃう。それじゃあね」
香織はそう言って僕の自転車のハンドルから手を離し、僕の横を通り抜けていった。そのとき僕と彼女の服の布地が微かに触れ、それだけでなく、彼女が泣いていることに気づいた。だが後悔はしていない。
「……ごめん」
僕は宙に向かって、泣いた。
思い出は、時として残酷だ。そう、残酷なのだ。けれど、それがまた良いのだ。
たぶん、いや、確実に僕は憂いを一つ取り除けた気がする。
もう、あの頃の僕とは違う。
「もう、一年前か……」
誠の母は悲しげに、それでいて懐かしむように言った。
「すいません、いきなり尋ねて」
僕は突然の訪問を詫び、誠の遺影に手を合わせ、目を瞑った。
合掌を終えると、僕は誠の母に向き直り、
「本当に、申し訳ございませんでした!」
深々と頭を下げた。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
当然、誠の母は慌てる。そして、僕の手を取り頭を上げるように促した。だが、僕はそれを頑なに拒んだ。
「お葬式の時、言っていなかったことがあるんです」
「言ってなかったこと?」
顔は見えないが、声色から察するに、恐らく困惑しているのだろう。
「――はい」
「どういうことかしら? やっぱり、誠のことよね」
誠の母は僕の手をやや強めに握った。
「……はい」
空気が強張る。少なくとも、僕はそう感じた。
「聞きます。話してください」
そう言われ顔を上げると、そこには凛とした表情をした誠の母がいた。
僕は誠が死ぬ直前の話を誠の母にした。その間、彼女の目を合わせることができなかった。あまりにも、あまりにも申し訳ないと思ったからだ。いや、そんな安直な言葉だけじゃ足らない。
「本当に、申し訳ございませんでした! 全て僕が悪いんです! 誠もトラックの運転手も悪くないんです! 僕が、僕が悪いんです!」
もはや、それは叫びだった。
誠の母は僕の手からその温かい手を離した。
――……嗚呼、そりゃそうだよな。
僕の手の甲と誠の母の手のひらの間に冷たい風が吹いた、気がした。だが、
「そんなこと、言わないで」
温かい手のひらの感触を髪に感じた。
「え?」
「誠が死んだのは貴方のせいじゃない、と言いたいけど、当時はそんなこと思えなかった。トラックの運転手は勿論、貴方も恨んだりしたわ。でもね、あの子は、誠はそれを望まない。望むはずがないの。誰よりも優しい誠が親友である貴方を恨むわけがないもの。それに、貴方はこうして私に心境を打ち明けてくれた。それだけで私は嬉しいの。だから、そんな辛い顔をしながら謝らないで」
「……でも、僕は――」
「お願い」
誠の母は今にも泣き出しそうな目で僕を真っ直ぐ見つめた。
――どうして、そんな目をするんですか? そんな目で、僕を見つめられるんですか?
僕にはわからなかった。わからなかったが、誠の母の気持ちを、思いを受け入れようと懸命に心のなかの悪いものをつまみだし、そこに入れた。
「ありがとう、ございます……」
僕は上げた顔をもう一度下げた。今度は先ほどよりも更に深く下げた。
「その言葉が今の私にとって、何より誠にとって一番嬉しいはずだわ。こちらこそ本当に、ありがとう」
その言葉に、僕は、泣いた。声を上げて、泣いた。
――ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
帰り際、誠の母からあるものを手渡された。
「これって」
「あの子が使っていたリストバンドよ。貴方に持っていてほしいの」
――そういえば、中学の頃からこれ、着けていたな。お気に入りだったんだな。
「ありがとうございます」
僕は涙で腫らした目に再び涙を浮かべながら礼を言った。
「またいつでもいらっしゃい。誠もきっと喜ぶわ」
「はい! ありがとうございます!」
そう言って、僕は誠の家を後にした。
夕暮れの空、鳥と蝙蝠のシルエットが交差する。もうそんな時間なのか、と僕は思いながら帰路に着いた。
僕がここまで変わることができたのは他でもない夏生の存在があったからだと思う。そんな夏生からの連絡は依然としてない。




