プロローグ さよなら、世界
【プロローグ さよなら、世界】
屋上へ通ずる扉をほんの少し開けた途端、刺すように眩しい光が目に飛び込んできた。思わず手で目を覆った。そしてそのまま屋上へ出ると、中と外との明暗の違い、気温の差に若干目眩がした。
太陽が貸し切ってしまったのだろうか、遠くの山の方にぽつりぽつりと白い雲が浮かんでいるだけで、頭上は文句なく快晴だ。早くこっちにきてこいつを隠せと遠くの雲達に強く念じたが、いっこうにこちらに流れてくる様子を見せない。寧ろ、逆に離れていっているような気がする。まあ、無理もないだろう。この暑さなのだ。雲達も逃げ出したくなるだろう。
額から、脇から、全身から鬱陶しいくらいに、絶え間なく汗が吹き出す。それが頬を、顎を伝って、ぽたぽたと一滴ずつ足下のコンクリートに落下し、そこに小さな染みを作った。その様子を見ていると、夏は水分補給を欠かしてはならないこととその理由に納得ができる。
僕は一つ二つと染みが増えていくのをぼんやりと眺めながら、徐々に、確かに身体の水分が失われていくのを感じた。
「ったく、暑いな」
僕は額の汗を拭いながら溜息混じりに、自分の声色を確かめるようにぼやいたが、それと同時に鳴り出したチャイムが僕の声を呆気なくかき消し、校舎全体に正確に時間を伝えた。チャイムの音があまりにも大きかったのか、それとも僕の声があまりにも小さかったのか、自分の声色を確かめることはできなかった。
チャイムの最後の音符が鳴り終わり、それが山彦となって耳に届く。けれど、それは雑多な町の音に跡形も無くかき消されてしまった。
僕は鞄からスマートフォンを取り出し時刻を確認した。
どうやら終業式が終わったらしい。
明日から、夏休みが始まるようだ。
体育館の入り口の方へ目を眇めると、そこからぞろぞろと生徒達が出てくるのが見えた。見知った者を見つけたとき、僕は思わず身を屈めた。
ここからでは細かな表情の変化は確認できないが、きっと顔を緩ませているに違いない。蒸し風呂と化した体育館の中と外とでは、その温度差は歴然だろう。
「――よくやるよな」
哀れむようにそれらを眺めた。
生徒教師全員が校舎内に入るのを見届けると、僕は屈めた身体を起こし、道路を挟んで学校の向かいの小さな病院の窓に視線を移した。
カーテンが開いている病室を見つけ、目を眇めて見てみるがベッドには誰もいない。どうやら患者は不在のようだ。おそらく検査か何かにいっているのだろう。
やがてその病室に、検査が終わったのだろうか、患者であろう白髪頭のおじいさんと若い看護師の女性が戻ってきた。看護師の女性はおじいさんがベッドに入ったのを確認するとすぐに、開かれていたカーテンを隙間無くしっかりと閉めた。
他の病室の窓にも順番に視線を移していくが、どの病室もしっかりとカーテンが閉まっており中の様子を確認することはできない。まあ、こんな暑い日に、こんな痛みさえ覚える陽射しを浴びたらそれこそ症状が悪化し、寿命を縮めかねないだろう。
「いいよな、あんたらは」
僕は何気なく目を止めた病室のカーテンを睨みながら、向こう側にいるであろう顔も名前も知らない患者に対して小さくぼやいた。その声色は、いやに冷静だった。
――さて、誰も見ていない。今が、チャンスだ。
僕は鞄を持ったままフェンスをよじ登り、それを跨ぎ越えた。
やがてつま先に、土踏まずに、踵に靴を介してコンクリートの熱が伝わった。
落下を防ぐために設置されたであろうフェンスは僕に対して、ついにその機能を果たすことができなかった。
「……皮肉なもんだな」
僕はフェンスを嘲笑った。
肩にかけていた鞄を下ろし、中からまだ封を開けていない十枚入りの茶封筒の束と、これもまた封を開けていない三十枚入りのB5サイズの原稿用紙の束を取り出した。先日、近くの文房具屋で購入したものだ。
汗ばんだ自分の手に苛立ちを覚えながらもそれらの封を丁寧に開け、それぞれ一枚ずつ取り出した。全国の文房具を取り扱う店は、今後は俺のような目的の客のために、封筒一枚と原稿用紙一枚のセットを作って売るべきだと思った。そうすればこいつらだって余らずに、必要としてくれる客に、それこそ余すことなく使われたはずだ。手紙を入れて誰かに送られることのない九枚の茶封筒が、読書感想文の下書きすらも書いてもらえない二十九枚の原稿用紙が哀れで仕方がなかった。
「……ごめんな、買ったのが僕でさ」
くだらないことを考えながら、余った封筒と原稿用紙を鞄に乱暴に押し込み、ペンケースからシャーペンを取り出すと鞄をしっかりと閉めた。この鞄も、持ち主は二度と開けることはないだろう。
ざらざらしたコンクリートに原稿用紙を広げ、ガリガリと音を立てながら、シャーペンの芯がしっかりと白紙を文字で埋めていく。誰に見せるわけでもない。というか、見せられないし、見せたくない。そんな内容だ。
書き終えると誤字脱字がないか数分間眺め、丁寧に折りたたんで茶封筒に入れた。そして今度はその茶封筒をコンクリートに置き、本来宛名を書くだろう場所にシンプルに二文字だけ書いた。
『遺書』
我ながら上手く書けたと思う。
遺書を制服のズボンのポケットに入れて立ち上がり、改めて周りを順番に見渡していく。
校庭や校門には誰もいない。恐らくまだホームルーム中なのだろう。
学校付近の道路を見える範囲で確認する。青い車が一台こちらに背を向けて走っている。十秒もしないうちに車体の色を判別するのがやっとなくらい姿は遠くなった。それ以外に人も車も見当たらない。
最後に、向かいの病院の窓を警戒した。先ほど同様、すべてのカーテンはしっかり閉められている。これから起こることをあの白髪のおじいさんに見られたら、寿命が縮むどころか、最悪ショック死するだろう。
――よし、誰も見ていない。
僕は一歩二歩と小さく足を進め、これもまた落下を防ぐためなのだろうか、縁に右足をかけ、そこから下を見下ろした。
「うわ、高いな……」
怖くないと言えば、嘘になる。けれど、それ以上に、生きているのが、今は怖い。
目を閉じると走馬燈とは少し違う映像が頭の中にたくさん浮かんできた。
――色々、あったな。
一つ一つが徐々に僕に死を決意させていった。
そう、僕は今から死ぬ。心残りなんて、きっとない。
僕は目開き、両足で縁に立ち、大きく手を広げた。
右足を一歩踏み出す。
何かを踏みしめている感覚は、もうない。
宙に浮いている、というより落下している。
全身に容赦なく風が当たる。そのため容易に目を開けていられない。
やっとの思いで顔を上げ、目を開け空を見上げると、太陽が相変わらずそこにいた。けれど、なぜだろう。先ほどまでは鬱陶しく感じていたのに、今は寧ろその光が心地よい。
校庭も、体育館も、校舎も、ただの建物のはずなのに幻想的に見える。
おそらく、すでにこの世界とはもう関係が切り離されたのだろう。飛び降りたあの瞬間から。
ふと視線を病院の方へ向けた。多分、それがいけなかった。
心地よかった太陽は一変、鬱陶しさが蘇り、幻想的に見えた校舎や体育館はただの建物にしか見えなくなった。
血が逆流する、蒼白になる等々、あらゆる諺がある。文字通り血が逆流している感覚だし、鏡がないから確かめようがないが、顔も蒼白になっていることだろう。
一カ所だけ、病室のカーテンが開いている。いや、それだけじゃない。窓も全開だ。そして、そこから俺と同い年くらいの少女が身を乗り出してこちらを凝視しているのが見えた。
視線が、合った。
――まずい、見られた。
このとき、僕は学校と病院が無駄に近いことを激しく恨んだ。この距離だと、少女の細かな表情の変化まで見ることができてしまうのだ。
案の定、少女は表情を変えた。けれど、その表情は驚いてもいなければ、恐れてもいない。少なくとも自殺の場に居合わせた人間の表情はしていない。まるで、哀れんでいるように見える。若しくは、悲しんでいるようにも見える。
――やめろ、やめろやめろやめろ! そんな顔をするな! み、見るな!
心の中でそう叫び、目をきつく閉じた。
再び目を開けると、視線の先には宙に浮いている、いや、落下している男子学生がいた。
「え?」
間の抜けた声を発しながら、男子学生が落下していく様を凝視した。そして、気づいた。
あれは、僕だ。
僕が落下している。
――一体何が起きたんだ?
おそらく、今見ているこれは、きっとさっきの少女の見ているものに違いない。位置的に、場所的にそう考えるしかない。しかし、現実的に考えてそんなことがあり得るのだろうか。いや、あり得ない。そんなことあっていいはずがない。だが、この状況だ。なんらかの現象が僕と少女の間に起こったことは間違いない。
――身体が、入れ替わったのか?
いや、それはない。身体が風を感じている。落下の感覚を、感じている。
――一体、なにが――。
考えるより先に、全身に、主に右腕に強烈な痛みが走った。あまりの痛みに呼吸ができなくなった。
校舎の壁にかけられた時計が淡々と僕の視界の端でその針を動かしている。
飛び降りてから、まだ十秒も経過していない。
頭がぼんやりしてきた。
意識が遠のくなかで最後に見た景色は、焼けるように熱いコンクリートの上で、数匹の蟻が名も知らない虫の死骸を運んでいる姿だった。






