なまあたたかい出会い
目覚めると頭痛がした。頭の奥でまとわりつくような嫌な痛みだった。とりあえず顔を洗えば痛みも引くのではないかと思い、洗面台へと向かう。部屋の中はまだ暗くて、壁を触りながらのそのそと動く。
冷たい水が皮膚を叩く。目に水が入らないよう閉じながら、手探りでタオルを探す。それを掴むと顔に寄せ、寸前で止めた。なんだか臭った。嗅いでしまったからにはなんだかそれで顔を拭くのははばかられ、着ていたシャツで水をぬぐう。
鏡を見ると暗くて自分の顔がよく見えない。電源を探し明かりをつける。次第に点滅し、自分の姿がはっきりしていく。定まらない視点も次第にそれへと移る。
息を呑んだ。
鏡は割れていた。中央が強い衝撃を受けたように細かく割れ、そこから全体に亀裂が入っている。そこに映る自分も同様に欠けて見えた。目元を隠す茶に染めた髪に中肉中背の男。ただでさえ特徴の少ない自分が、ひび割れた外観しか分からない。
いつ、割れた?
疑問に、次第に意識が覚醒していく。足元に落ちた破片。これほど激しく壊れればそれだけ大きな音が鳴ったはずだ。眠っていたとはいえ起きるほどの。そもそも自分はそれほど深く眠る性質ではない。
昨夜見た時は割れていなかったはずだ。昨夜したことを順に思い出していく。
「……」
目を閉じ、自分にもぐる。自然な動作だ。記憶の糸をたぐりよせ――。
「あん?」
奇妙な感覚に声を上げた。そこにあるはずのものがない。おぼろげな形さえも。なにもない空間を押しているような。手ごたえさえ返ってこない。
昨夜の記憶が、ない。
「な、なんでだ」
もっと前にさかのぼろうとしても、昼も朝も、どこでなにをなんのためにしたのかまったくもって思い出せない。まるでその一日だけがなかったことのように。
「おかしいだろ、おい」
呟いた自分の言葉さえも疑わしい。
「意味わかんねえ」
昨日の記憶がまったくないのに、昨日を過ごしたという実感だけはある。気味が悪い。背筋からなにかが這い上がってくるような嫌悪感。首を左右に、それを振り払う。
自分は昨日なにか余計な事をしてしまってはいないだろうか。いや、そもそもいつも通りの一日を送れたのかどうかさえわからない。記憶がなくなっているのだ。なにか特別なことがあったにちがいない。不安だけが大きくなっていき、胸をかきむしっていく。心臓が不規則に鼓動を繰り返している気がしてくる。
しかしいくら考えようがそれは不安ばかりを増やしていく。考えても仕方のないことだ、となんとかそれを自分に信じ込ませる。強くそれを思う。それが他を埋め尽くし、鼓動はおさまり、不愉快な感覚は薄れていく。ふと時計を見れば、もう外に出ないといけない時間だ。準備をしないと間に合わない。
知り合いに会ったら嫌だな……。胸元のボタンをとめながら、また考える。昨日のお前はなんとかだった、とか、会ってすぐに妙な含み笑いとかされたりして。うわー、嫌すぎる。いやいや。その程度で済めばまだましだ。ひょっとすると、俺を見た途端に顔色を変えてそそくさと離れていくかもしれない。そうなると、俺はもうどうしようもない。
そうこうしているうちに準備を終え、玄関へ向かう。ドアノブを開けると、太陽の光が部屋の中を隅々まで照らしていく。
「うわー!」
その光を浴びながら、見知らぬ男が目の前を横切っていく。
「あん?」
数階の高さのアパートから見える街並みのその間を、男が右から左へ。それに伴い首を動かす。
……宙を飛んでる?!
いやいや。待てよ。こんな朝からおっさんが空を飛ぶわけないだろ。低血圧で大変だろ。ってああ、そこじゃねえよ。そこじゃねえだろ。そもそもおっさんは飛ばないんだって。そこだって。あーくそわけがわからねえ。
「うわー!」
耳をふさいでも男の声は聞こえてくる。観念してそれを見る。
まるで落ちていっているような。下にあるはずの重力が別の向きになったような。男は必死に泳ぐように宙をかいているが、そのままとまることはなく見えなくなっていく。
「お、おおお、おおおおー?!」
自分も混乱している場合ではなかった。まっすぐ開いた扉は右に、足元にあったはずの重力はその反対側に。
ぐらりと体が投げ出され、支えているのはつかんだままだったドアノブのみ。
「ぬお、おち、落ちるう!」
ドアノブを両手で掴み、落ちてたまるかと力を入れる。開いたドアは俺の重みでまた閉まり、腕が隙間に挟まれる。ただただ慌てて、じたばたと暴れた。そうして体の向きを何とかかえると、壁に足をやり態勢を整える。背でドアを支えるような姿勢に落ち着き、ほっと一息。
「死ぬかと思った……」
呟いた途端にドアが重くなった。
「ぐおお……」
足に力を入れる。踏んばるが、重い。足が震える。こんな危機にあうんだったら、普段から鍛えておくんだった。そんな現実逃避さえしはじめる。
「馬鹿め……」
急に聞こえた声。おっさんの声だ。心地いい低音だった。どこから聞こえたのだろうとあたりを見渡してみる。
ドアの上だった。
スーツを着こなしたおっさんだった。鋭い相貌に引き締まった口元。風格のある容姿だった。きっとどこかのお偉いさんだろう。おっさんは遠い眼をして落ちていくさきほどの男を眺めていた。
「こら! このくそオヤジ! どけこらあ!」
しかしそんな澄ました感じが焦る俺を苛立たせ、声を荒げる。
「なんだだらしのない」
おっさんは一瞥をくれると、かがみこみ、その足もとに集中した力を解放した。
「は?」
ドアが重くなったかと思うと、突然軽くなった。震動が音とともに俺に伝わってくる。
おっさんは跳躍し、数百メートルあろうかという隣のビルへと降り立っていた。ただそれを俺は口をあけたまま見ていることしかできない。
そうしてその開いた口からは、衝撃で足元が滑り、そのまま真下に落ちていることに気付いた叫び声が発せられた。
「ぎゃあああああああああ!!」
俺こんな女の子みたいな高い声出たんだ、とかそんな場合じゃなくてマジでやばいって。落ちてるって。体の中身が持ち上げられてる。吐きそうだ。脳みそももう虫が沸いたみたいに落ち着かない。最悪だ。もう落ちる。地面にたたきつけられる。そうなって俺はミンチになって通行人に物珍しそうな目だとか汚物を見るような目だとかでさんざん見られた後にやる気のない清掃員に綺麗にされてゴミ箱行きなんだろうか。ていうか地面? そういや、今横向きで、あるはずの地面は俺の正面で――。
下を見た。……キノコ?
でかいキノコだ。真っ赤で毒々しい、俺の何倍どころか、穴を開ければ中に住めそうなやつだ。それがどんどん迫ってくる。もう目の前だ。もうぶつかる。
ぐにょ。
すげえ、やわらけえ。なんだこれえ。気持ちいい。瞬間ゆるんだ頬だったが、また強張る。キノコはその形を俺を受け止めた衝撃で歪め、ぷるぷると震えている。まるで元の形に戻ろうと全力をいれているような姿だ。そしてその通りになった。
「びああああああ!!」
俺こんな赤ちゃんみたいな声も出せるんだ、とか新たな自分を発見、とかそんな場合じゃなくてマジでやばいって。いままで落ちてきた内臓が慣性? 慣性ってやつなのか? 慣れてきてたのに突然反対側に打ち上げられたもんだから、もう俺の体の中はレヴォリューションさ。こんな感覚もうだめ。もうたまんねえ。すげえよ、ほんと。なんだよ。目ん玉ももうどこ見りゃいいのかわかんねえ。というか口が閉じれねえ。よだれが空に流れてキラキラ光ってキレイだ。ぜってえあのよだれ地面に落ちてそこに花とか咲かすね。信じてる。
そしたら、また落ち始めやがった。おしまいだ。もう俺は目を閉じて神に祈るくらいしか選択肢がない。ああ、神様。いままでごめんなさい。いないなんて言ってごめんなさい。怒ってるよね。俺があんまり馬鹿にするから。こんなに矮小の意地汚くて人間をもてあそぶ神という名前の悪魔だとか、そんなこと考えてないから許してくれ。困ったときの神頼みなんてもうしないから。頼むよ。これからは困らなくても頼ることにするから。ほんと。
ぐにょ。
すげえ、やわらけえ。なんだこれえ。気持ちいい。それに、あったかい。瞬間ゆるんだ頬だったが、また強張る。それはぷるぷると震えている。まるであまりの怒りに拳を震わせて今にも俺に殴りかかりそうなぼええあああああ?!
鼻血、ブー、だ。
俺の顔はその一撃でとてつもないことになった。といっても自分で見れないからそんな気がするだけだが、きっと間違ってない。
俺の目の前に立っているのは自称キノコの精だとか名乗るちっちゃい女の子だ。よく恥ずかしげもなくキノコの精だとか名乗れるな、とかそんなことを第一に思ったが確かにこの子ならべつにしかたがないんじゃないかとも思えてきた。
格好があきらかに変態だ。絶対将来的に有望な容姿だというのに台無しだ。いや、まあ人によっちゃあそうでもないかもしれないが。さっきのキノコと似たような情熱的な赤。そして胸元に腋にへそ、そして細い腕や足まで。だせるところは全て出しましたみたいな、むしろもう服なのか疑問に思えてくる一品だ。腰の少し上くらいにきっと妖精らしさをだすためだろうが、翅がついている。
綺麗な金色の髪を二つに結んで、頭からしっぽみたいに左右に伸びている。健康的な手足にくりくりとした両目。柔らかそうな頬に唇にまるくて小さい鼻。ああもう見てらんない。絶対痛い子に違いない。ていうか痴女ってやつじゃねえのかこれ。でもまあ年齢が年齢か。痴幼女? ああいや、そんな変な言葉作ってる場合じゃねえのか。
「だから、わたしを連れて行ってください」
「俺は今忙しいんだ。遊ぶなら今度にしてくれ」
「ひどい! わたしとのことは遊びだったの?!」
知らねえよ。初対面だろうが。
泣き喚くキノコの精を放っておいて、俺は周りを見渡す。さっきのキノコばっかりだ。というか地面がちゃんと足元にある。草とか生えてるし、なんか薄暗い。上を見上げればずっと遠くになんか見える。きっとあそこがさっきまでいたところだ。にしても虫が多いなくそ。ああ、うっとうしい。寄るなこの。
虫をはたき落とすと、「げええ」とか気持ち悪い声を出した。最悪だ。なんだこの気持ち悪い生命体は。
ていうか何時だ今? いつもどおり早めに出たのが幸いか。うまくいけばまだ間に合う――のか? 帰れるのか? というかそもそもなんだ? 俺のアパートは右から生えてて、それで下に落ちて、それで今ちゃんと立ってるってことはこれも右から生えてるなにかの上? 右であってったっけ? 左は空だよな? ああ、もうわけわかんねえ。あー、気分悪う。
「連れてって、連れてってよー!」
俺の身長の半分くらいしかない女の子が俺の服の裾を引っ張っている。
どうなってんだこれ。こんな変態、いるわきゃねえよな。ていうかこんなキノコもあるはずないだろ。というかなんでおっさんが数百メートル跳躍すんだよ。なんで重力が違うんだよ。夢か? 夢なのか? 俺はこんな奇妙な夢を見るまでに頭がおかしくなってしまったのか?
キノコの精を抱き上げる。
「ひゃっ?!」
そしてその胸元に頬を寄せる。やわらかくてあたたかくて気持ちいい。
「くそー。こんな感覚は味わったことがねえ。これが夢であるはずがねえ。思い出すならともかくそんな経験はねえぶおええああああ?!」
腰の入った、いい、パンチだ。
キノコの精に案内されて、俺はキノコの間を抜けていく。キノコの森を抜けると、キノコの村があった。そこには俺の連れている似たようなキノコの精がたくさんいて、俺にキノコ料理をふるまってくれた。
「うぜええええええ!!」
キノコキノコキノコ。なんの嫌がらせだ。しかも最後のキノコ料理が最悪だ。なめこのでかい版みたいな、もう見るだけで不愉快になれる。味は、まあまあだったけど。
今もキノコのベッドの上で寝ている。俺を2回も殴ったあのキノコの精。ややこしいな。名前を聞いておかないと。いや、めんどくさい。勝手につけてしまおう。んー……。キノ子でいいや。まあ区別できるからいいだろ。
「いまいいですか?」
「あいよ」
キノコのドアをノックして、キノ子が部屋に入ってきた。近くのキノコのイスに座り、寝そべる俺と二人。キノ子はうつむいたりチラリとこちらを見たり。
「……なんか用?」
「ふぇっ?! どうしてわかったんですか?!」
何の用もないのに部屋に来る理由がないだろ。目で訴える。
「それで、なんだよ」
「あの、たぶん知ってるとは思うんですが、その」
指をもじもじさせながら上目づかい。頬は赤い。うん。変態度2割増といったところかな。
「わたしのものになってください」
「3倍増しだああああ!!」
キノ子の話によると、上から落ちてきた人間は初めに会ったキノコの精のものになるらしい。いや、ほんとはキノコの精の相手、つまりはパートナー、もっといえば夫になるという規則らしい。ちなみにキノ子はこの話をしながら、信じられないこんなことも知らないの頭おかしいんじゃないの、という顔をしていた。正直腹が立つ。お前に言われたくない。
まあそういうわけで、俺はキノ子のものになってしまった。これからまた規則というやつで聖地巡礼をしなければいけないらしい。3ヶ所の場所を二人で訪れることで二人はまた深い絆がどうこうなんたらかんたら、聞きたくもなかったので詳しいことは知らん。
にしてもひょっとして昨日で世界はこれが常識なってしまったとかそんな奇想天外摩訶不思議ストーリーが繰り広げられているんじゃないんだろうか。ハッハッハ。くっだらねえ。ざけんなぼけ。