第十六話
その男は足を震わせてその光景を見ていた。
竜の影が、広大な湖の上で姿を現すのを。
それはあまりにも神秘的で、そこだけ異空間につながっているかのように輝いていた。
その影はしばらくそこに留まっていた。
その間もその神々しさが衰えることは決してなかった。
やがて、まるで階段を駆けのぼっていくかのように勢いよく空へ向かって飛翔し、最後には姿がまったく見えなくなった。
男はその悪夢のような出来事を、目を見開いて、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
失敗した。失敗した。失敗した。
次々と湧き上がる後悔が、私の頭の中で勢いよく流れていく。それはいつまでも止むことはなく、ほかのことを考える余裕を決して許さない。
一面に覆われた雨雲の上をただ闇雲に飛んで行く。
だから私は、このとき方角を気にする余裕もなかった。
もしかしたらとんでもなく明後日のほうへ向かっていたのかもしれない。しかしそれに気づくことはなかった。
そんな状態だったから、周りを何も見ずに飛んでいたから、いつの間にか世界が切り替わっていたことにも気が付かなかった。
気付いたのはどれくらいたったころだったのか。
おそらく、数時間はたっていただろう。ようやく後悔の嵐がその勢いをゆるめ、私が少しだけ冷静さを取り戻したときだったと思う。
そこは夜よりも深い闇の中だった。いっさい光を感じない。
少しでも気を緩めればすべてが飲み込まれてしまう、そんな恐怖を感じさせる暗さだった。
しかし、私はここを知っている。そーいちと会うまでずっと過ごしてきた場所だった。
「止まりなさい」
どこからかそんな声が聞こえてきた。これも聞き覚えのある声だ。
ただ、トップスピードで飛んでいたのですぐには止まることができなかった。
体を少し後ろに傾けて徐々にスピードを緩めていき、完全に止まることができたのは数十分後だった。
「どうして、私をここに呼んだの」
私は闇のなかで声を出して叫んだ。
誰の姿も見えない。誰の気配も感じられない。
しかし私は、あのひとが確かにそこにいることを確信していた。
「あなたに会いたいという人物がいるからよ」
そんなセリフと共にそのひとは姿を現した。
前に会ったときと同じ姿。豪華な椅子に優雅に座っているのも相変わらずだ。
リゼ。
神だった女。
それなのに今でも神とほぼ同じちからを持っている存在だった。
「それに、せっかくあげた体をあんなふうに捨ててきたことについても一言文句を言いたから、かしら」
そして私に人間の体を与えた張本人だ。
「………」
私は何も言わなかった。
リゼもとくに気にした様子はない。
「ひさしぶりね。元気にしていたかしら」
知っているくせに。
私が今までどんなふうに過ごし、何を見て、何を感じて、そしてさっきまでどんな目に合っていたのかも全部見ていたくせに。
それでいて、何も知らないみたいな態度でそんなことを聞いてくる。
私はこの女のそういう態度が嫌いだった。
「私は、もう人間と会うつもりはない」
「ふーん、それがあのそーいちとかいう人間だって言っても?」
「そーいちが、来ているの⁉」
もうそーいちのことは忘れたはずだったのに、女の言葉でまた期待してしまう自分がいた。
「さあ、どうかしら」
「………」
腹が立つ。
「やっぱり未練があるんじゃないの」
「そんなことは、ない」
「なら、どうして人間の姿がなくなったときあんなに動揺していたのかしら。あんなに闇雲に空を飛びまわって」
動揺なんてしていない、とは言えなかった。
「それは、人間に竜の姿を見られたから」
「確かにそれもあるでしょうね。竜はもう人間にほとんど忘れられた存在だから、姿を見られたら大変な 騒ぎになるでしょう。でも、ほんとうにそれだけかしら」
「なにが言いたいの」
「私はこう言いたいだけよ。人間の姿でなくなったら、もう一度そーいちに会うことができなくなる。どうしよう、どうしようって。だって私、はじめに言ったものね。人間の体をあげられるのは一度きりだって」
「それは私の真似のつもり?不愉快よ」
「でも、当たっていたでしょ」
だめだ、この女にはなにを言ってもかなわない。
ため息をつく。
「それで、その人間ってだれのこと?」
そう問いかけるがリゼはなかなか答えない。
代わりに、まるでおもしろがるかのように笑みをその顔に張り付いていた。私の態度がつれないことへの意趣返しのつもりなのかもしれない。
「そうね、そろそろ教えてあげないとさすがのあなたも怒っちゃうかしら」
もうとっくに怒っているから早くしてほしい。
そう口から出でそうになった言葉をぐっと飲み込む。
あまりこの女になめた態度をとっていると、後でどんな天罰が待っているか分かったものではない。もと神の力はあまりに強大だ。
だから、なにも言わない。
ただひたすらリゼが言葉をつづけるのを待つ。
「でてきなさい」
リゼは、後ろにむかって声をかける。
闇の中から、その人物は姿を現した。




