契約
◆
妖精の緊張した声が聞こえる。
(警告。すぐ声に出して否定してくださいっ! 言霊を使った魔術の可能性あり。契約が成立すれば強制されます)
だが彼女の警告は間に合わなかったようだ。エンケパロスのマナが身体を駆け巡るのを俺は感じる。
(マスター、敵魔術の発動を確認)
悪魔は魂と交換に三つの願いを聞くと言う。結局のところ邪神も似たようなものらしい。
契約を定めそれを守ることを強制する。これはそう言うタイプの魔術だ。
俺は邪神との会話を思い出す。助ける代わりに俺自身を対価として受け取る……こいつの術はそんなところだろう。残念ながら心理防壁はこの種の魔術を防げなかったようだ。
「……やってくれたな」
「油断したあなたが悪い。女に甘すぎるのは致命的な欠陥よ。これからは注意することね……もっとも、もう遅すぎると思うけど」
「不意打ちは卑怯だろう」
「負けは素直に認めなさいな。男らしくないわね」
ああ言えばこう言う。主導権はまた向こうだ。
「あなたの頼みを聞いてあげる。それであなたは私のもの……でも悪い話じゃない筈よ。あなたは一生を幸せに過ごせる」
「ペットにでもする気か。止めとけ。俺は飼い主でも噛み殺す」
「強がっても駄目よ。あきらめなさい。あなたは私の可愛い子犬に成るの。餌なら私がたっぷりあげる」
妖精が囁く。
(マスターすみません。私では力不足だったようです。防護出来ませんでした)
(気にするな。お互い魔術は本職じゃ無いんだ。それに、まだ負けと決まった訳じゃない)
(エリスさんの……エリスさんのサポートを貰うことを提案します)
(……いいだろう。ギアスが発動した時の状況をエリスに送ってくれ。前後のセリフも忘れるな。分析結果が欲しい)
(了解です)
俺は邪神のモノに成るつもりは無い。だが、これはチャンスでもあるのだ。
言霊を使った魔術に関し俺には経験がある。今は俺の腰で眠っているアザーテスの小剣だ。
この強力な魔法剣は言霊で条件を設定し、マナを燃やし術を発動する。
エンケパロスの術は、俺の小剣と同じ匂いがした。
いくらなんでも……俺のカンは囁く。いくらなんでも、契約の条件設定が甘すぎる。
エンケパロスは自分が勝ったと思っている。それにつけ込むんだ。手伝わせた後で契約を無力化すればいい……可能ならばだが。
邪神が微笑んだ。
「変な事、考えてるでしょ」
「いいや。お前と一緒に生きていくのも愉しそうだ、と考えてたとこだ。実を言えばそう言う生活は嫌いじゃ無い。軍人だとなかなか本音は言えないがな」
「嘘よ。裏をかこうとしているのは分かっているわ。私を甘く見ないで」
「信用が無いな……ところで一つ教えてくれないか?」
「言ってみなさい。諦めの悪い子犬ちゃん」
「何故、そこまで俺に固執する?」
エンケパロスは再び微笑んだ。まるで女神のように。
「モテる理由を女に聞くのは反則よ。でも……まあいいわ。教えてあげる。私が人間だった時の事を思い出したの」
「思い出す?」
「言ったでしょ? 私達スプランクナは元は人間だった……でも人間としての生を終える時に、ほとんどの記憶を失う。生きてる時の私はどこかの王国の魔術師だったのよ。それだけは覚えているわ。戦いで殺されたの」
「俺に執着する理由はそれか。お前を殺した奴が俺に似ていた……それで恨みを晴らしたい。違うか?」
「どこをどう突っついて、どう折り曲げたらそう言う発想が出てくるのよ? もちろん違うわ。私を庇って死んでいった男の事を思い出したのよ」
「そいつは、つまり……恋人だったのか?」
「そうなんだと思う。良く覚えてないの。でもその男が最後に言った言葉は鮮明に思い出せる。“待っててくれ。必ずお前を迎えに行く”必死な表情だけは、今でもはっきり思い出せる」
「言っておくが、そいつは俺では無いぜ」
「当たり前でしょ。あなたよりずっと二枚目だったし。でもね」
エンケパロスは少し寂しげに見えた。
「レガリアで助けて貰った時、私には、あなたがその男に見えたの。不思議よね。全然似てないのに」
「代用品は勘弁だ」
「きっかけに文句をつけるもんじゃないわ。今は代用品なんかじゃない……って私の口から言わせたいの?」
妖精の声が脳内に響く。
(エリスさんとの通信が一瞬だけ回復しました)
(回答は貰えたか?)
(はい。“敵のギアスは不完全。自分の言葉に注意して……オーバーライド”短い時間だったので解読出来た内容はそれだけです。私達は新日本国の通信妨害を受けていると思われます。今までエリスさんから連絡が無かったのはその為です)
(分かった。ご苦労だった)
ギアスは不完全。エリスの答えはもらった。どこが不完全なのか目星もつく。
後は俺の覚悟次第だ。なんとかして邪神を油断させるんだ。
「聞いてる? 手ぶらで帰るつもりは無いのでしょう?」
「そうだな。ようやく覚悟ができた。認めよう。悔しいがお前は魅力的だ」
「そんな事は思ってないクセに」
「そうでもないぜ」
(妖精よ、頼む。俺を守ってくれ)
そう脳内で囁くと、エンケパロスの身体を抱き寄せた。
邪神は予期してなかったのだろう。身体を硬くする。それを無視して強く抱きしめ口づけをした。
エンケパロスの心臓の鼓動が高まったのを俺は感じる。邪神のクセにまるで少女みたいだ。
(マスター!)
トライデント・システムが咆哮した。
リミッター解除、焼き付き覚悟の戦時緊急出力の解放だ。システムの膨大な出力で心理防壁が強化される。
邪神と合わせた唇から、抱きすくめた全身から魔力が流入し俺の心に浸透する。
システムは必死に食い止めようと心理防壁がきしむ。頭が割れそうに痛い。
俺は邪神を抱く腕に力を込めた。
俺の意思が溶かされていく。突き上げるような強い快感で何も考えられなくなる。
離れたくない。ずっとこうしていたい。俺は彼女の唇を貪った。
突然エトレーナの悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。
……許して欲しい。俺は残った意思をかき集めて邪神から顔を離す。
「……信用したか?」
「もう一度……キスして」
羞恥心がようやく俺の頭の片隅に浮かぶ。ここは酒場の中なのだ。レオの教育上もよろしくない。
しかし周囲の人間は全く興味を示していなかった。エンケパロスの術だろう。
邪神にも恥ずかしさの感覚はあるらしい。
向こうから唇を重ねてくる。
俺は妖精の金切り声を無視して彼女を抱きしめた。
◆
俺とエンケパロスは酔い覚ましの為に外に出た。“気のいいレオの親父亭”は街外れにあって、少し歩くと小さな林に出る。
ニューワールドの二つの月が明るく俺達を照らしていた。地球のフクロウに似た鳴き声が遠くに聞こえる。
邪神は俺の身体には触れずに距離をとって歩いた。女心は良く分からない。
「1つ目のあなたのリクエスト。答えはノーよ」
俺の一つ目の頼み。それは邪神アストロサイトの弱点を教えてくれ、と言うものだった。
すでにアストロサイトとの対決は6日後に迫っている。もっとも、あいつの言う事を信じればの話だ。
もっと早く急襲してくるかもしれない。
「ノーか……そいつは予想外の回答だな。それぐらいは教えてくれてもバチは当たらんと思うぜ。何せ対価は俺自身だ」
「あいつの弱点なんて私、知らないもの。アストロサイトが自分の弱点をこの私に教える訳ないわ。アレはこの戦区の“脳”で、私も他の戦区の“脳”よ」
「ライバル関係と言う訳か」
「ええ、そんなところ。でも心配しないで頂戴。もっといい事をしてあげる。あなたを自分のものにしたいから」
「それは何だ?」
「一緒に戦ってあげる。あいつの事は嫌いなの。ライバル関係と言うのを抜きにしてもね」
「本気か? 味方だろうが」
「敵では無いわね。でもあなたはスプランクナの事が分かっていない。私達の第一原則は“我は我の欲する事を成す”よ。欲望の追求は義務でもあるわ。つまり……私は心の底からアレが嫌いなの。あなたと一緒なら負ける心配も無い」
「味方同士の潰し合いか? それは創造主の命に背くだろう」
「さっきから文句ばかり言って……何よ。手伝ってあげるのが、そんなに不満な訳? 無能な“脳”が消えて、私と言う優れた“脳”に置き換わるだけよ。それは創造主様の為でもあるわ」
「確かに俺は、お前らの事が良く分かっていないようだ」
「次のあなたの願い。“杖”に関する情報が欲しいのね」
「そうだ。“グアルディの杖”を手に入れたい」
“グアルディの杖”。それは物事を本来在るべき姿に戻すマジック・アイテムだ。それさえあれば俺は妖精――トライデント・システムの機能を回復できる。俺の妖精は、数両の車両を呼び出すだけの非力な存在では無い。本当は数百、数千の兵器を同時に呼び出し、一国全体でさえ制圧出来る戦略兵器なのだ。
だが、すんなりと邪神が助けてくれるとは思っていなかった。敵を強くするのを喜んで助ける馬鹿はいない。
「結論から言うわ。協力を拒否する。他の願いを言って」
「そう言うと思っていたよ。確かに“杖”を手に入れれば俺は強くなる。お前としては不安だろう。だが俺の力はお前の力でもある。なんせ、俺はお前のモノに成るんだからな」
「そうじゃないわ。そうじゃないの」
「まさか……杖は既に破壊されている?」
エリスから貰った報告書の事が脳裏によぎった。報告書には、グアルディの杖は既にこの世に無い可能性が記されていた。信じたく無かったが、やはり……そうなのか?
「教えてくれ。“杖”は今でも存在するか?」
「あれは形を変える事はあっても、無くなる事は無いわ」
俺はホッとした。エンケパロスが断言するなら、そうなんだろう。
「でもね、駄目よ。あなたを愛している一人の女として言うわ。だから信じて頂戴。その“杖”は罠よ。近寄っては駄目。絶対に」




