邪神とお酒を
◆
俺はため息をついた。
「エンケパロス、それぐらいにしておけ。その程度でお前がくたばるなら、俺は苦労してない」
「……意地悪」そしてすねたように言う。「痛かったのは本当なんだから」
邪神は俺を見つめた。そしてにっこりと微笑む。
いつのまにか、地面の血だまりは消えている。腹部を覆っていた血の跡も無い。
腹の傷は幻影だったと言う訳か。
彼女はゆっくりと立ち上がり、身体についた埃をはらった。
「俺の心を乗っとろうとしたな。どういうつもりだ?」
「そんなに凄むもんじゃないわ。キスしてもらいたい女のちょっとした悪ふざけよ。誰かさんの背中を少し押そうとしただけ」
「そう言うやり方は好きじゃ無い」
「もう少しでキスしそうだった男のセリフじゃないわね」
邪神は俺を睨んだ。が、すぐに表情がゆるむ。
「でもさっきは嬉しかったわ。あなたは身体を張って私を守ってくれた」
「どうだったかな。お前の勘違いだろう」
「前の時にも、私を守ってくれた。レガリアを攻撃した時よ」
「昔のことは、もう忘れた」
邪神はゾクゾクするような眼差しで俺をじっと見つめた。
「まあいいわ。さて……と。お酒でも呑みながら話さない? いいかげん中に入りましょう。ここでゴチャゴチャやるのはバカみたい」
「構わないが酒はお前のおごりだ」
この国の金を俺は持っていない。支払ってもらう予定だったクリフは、そこでのびている。
「悪戯の罰と言う訳ね。いいわ。おごってあげる。でもね」
「……おい」
逃げられなかった。
エンケパロスはまるで恋人のように俺に寄り添う。手を絡めてきた。
横腹にあたる柔らかい感触。鼻をくすぐる女の甘い匂い。
「さあ、入りましょう」
「……気が変わった。おごらなくていい。割り勘にしよう。お前は借りを作ってはいけないタイプだ」
「もう遅いわ。私からは死んでも逃げられないわよ」
邪神は嬉しそうに笑った。
◆
エンケパロスに腕を貸しながら”気のいいレオの親父亭”に入る。中の男どもが一斉にこちらを見た。視線の先はもちろん俺じゃ無い。だが、いくつかは俺に絡みつく。チッというわざとらしい舌打ち、あいつが?と言う聞こえよがしの嘲り。
俺も男だから気持ちは分からんでも無い。だが無益な嫉妬だ。真実は知らない方が幸せだろう。
エンケパロスは一人の男に軽く会釈した。相手も挨拶を返す。男は一瞬、俺の方を値踏みするように見た。
「誰だ?」
「気になる?」
「分かった。教えなくていい」
邪神はいたずらっぽく笑う。「さっき、酔っ払いに絡まれたとき助けてくれたの。ここの軍人さんらしいわ。なかなかいい人ね」
「助けなんてお前には必要無いだろう。あえて言うなら、助けが必要なのは酔っ払いの方だ」
「もしかして妬いてる?」
「さあな……それにしても今日のお前はずいぶん人間ぽいな。前に戦った時に比べるとずっとだ」
「こう見えても元は人間よ。スプランクナはみんなそう。まさか忘れたの?」
「いいや。忘れてはいない」
レオが俺達の側にやって来た。今まで給仕で忙しかったのだ。
「兄ちゃん、姉ちゃん。奥のテーブルを空けといたよ。こっちこっち」
「すまんな」
「いいって! お礼に自動車、たっぷり乗せてくれよ」
部屋の片隅に小さなテーブルがぽつんと一つだけ空いていた。
周囲は適度に騒がしい。俺たちの会話を聞かれる可能性は低そうだ。
(マスター。く、く、苦しい。心理防壁がもう……)押しつぶされたカエルのような声が脳内に響く。
妖精がもう限界らしい。
なんせ俺の身体は邪神とぴったり密着している。魔力の侵入を拒み精神を守る心理防壁を維持するのは、かなり負担の筈だ。
妖精が力尽きて防壁が無くなれば、あっと言う間に人間の理性なんて消し飛ぶ。欲望まみれになった俺が、エンケパロスをこの場で押し倒しかねない。
俺の貞操、そしてわずかばかりの誇りが危険な状況だ、
ひっついている邪神を身体から引き離し、席につかせる。対面の席にこちらも腰を下ろした。
これで妖精も少しは楽になるはずだ。
「ねえ、何で隣に座らないの? あなたを感じながらお酒を呑みたい」
「いい加減にしてくれ。魔力垂れ流しのお前とそんな危ない真似が出来るか」
「わざとやってる訳じゃないわ。私にはどうしようも無いの。でもだからって触れちゃいけないと言うのは、残酷よ」
「お互い立場はわきまえようぜ。お前は邪神、そして俺はか弱き人間だ。忘れているようだが、そちらはこちらを狩る存在だ」
「か弱い?」邪神は笑った。「どの口がそれを言うわけ? あなたは私の仲間の“大腸”や“脊髄”を屠っているのよ。狩られているのはこちらだわ」
「その時は、たまたま運が良かった」
「わざとらしい謙遜は嫌味よ」
俺はため息をついた。こいつと会ってため息をつくのは一体何度目だろう。
確かにデートするとは言ったが、俺のひねくれたユーモアのセンスでそう表現しただけだ。ここまで積極的なのは想定外すぎる。
「お互い目的があってここに来ているはずだ。それを済まそう」
「ムードが無い男は嫌い」
「仕事熱心と言って欲しいね。忘れているようだから教えてやるが、俺とお前の商売は戦争だ。そして今は一時休戦してるだけだ」
「……まあいいわ。用事を早く済ませて。その後は分かってるわよね?」
邪神はウィンクをする。
俺は決心した。話が済んだらとっとと退散するとしよう。
エンケパロスは忙しそうなレオに声をかけた。
「レオン、すまないけどお酒をお願い。私にはブラッディ・スピリットを。カザセ……あなた、何がいい?」
「まかせる」
「ではラスト・ホープを」
「あいよっ!」
“最後の希望”か。あまりぞっとしない名前の酒だ。邪神は注文を終えると俺と向き合った。
こいつには調子を狂わされてばかりだが、ここらで主導権を握りたいところだ。
「では始めよう」
「お好きなように」
こいつから引き出したい情報はいくつかある。
俺に執拗に絡んでくる邪神アストロサイトについて。それにグアルディの杖の情報。
しかし、その前にはっきりさせたい事があった。
「俺はお前と取引がしたい。その為にここに来たんだ。しかし、その前に一つ教えてくれ。ユリオプス王国とレガリアを、お前はこれからどうするつもりだ?」
俺とエトレーナのユリオプス王国、そして同盟国であるレガリアはこいつの担当戦区にある。今は休戦状態だが、回答次第では酒を呑んでいるどころでは無い。
「あなたは、私の手の内を見せろと言うのね?」
「そうだ。取引はそれが前提だ」
「手の内を晒すなんて自殺行為だわ。そうする必要が私にあるのかしら? しかもあなたは強敵よ」
「ある程度の信頼関係はきずけている……と思ってたんだが」
「信頼関係? 恋愛関係じゃなくて?」
「ふざけるのは無しだ」
俺はそこで口を閉じた。レオがやって来たからだ。
「お待ちっ! お二人さん。姉ちゃんにはブラッディ・スピリット、兄ちゃんにはラスト・ホープ」
邪神の前に真っ赤なカクテル、俺には青色のカクテルが置かれた。両方ともアルコール度が強そうに見える。レオは空気を読んだのか、すぐに離れて行った。
「ねえ、せっかくだから乾杯しましょう。我が強敵カザセ ユウとの再会を祝して」
俺はグラスを合わせた。
「美しき敵、エンケパロスとの再会を祝して」
邪神はグラスをかかげ上品に微笑む。艶めかしく輝く唇。全ての動作がエロチックで油断すると持って行かれそうになる。
俺は自分の酒に口をつけた。予想通り強い酒だ。ジンベースのカクテルに似た味がする。
「さあ続きをしましょう。あなたは、私がふざけていると非難したわね。そんなこと無いわ。あなたは私の事を理解していないの。でも私はあなたの事を信頼して理解している。だから提案がある」
「何だ?」
邪神は頬杖をつき笑みを浮かべた。そして低く甘く囁く。
「私の仲間にならない? そうすれば、レガリアもユリオプス王国もあなたにあげる。自由にしたらいいわ。さっき言ったように私達スプランクナは元は人間。あなたはスプランクナに成る資格が十二分にある」
「……」
「ねえ。私と一緒に来て。あんなエトレーナとか言う小娘よりも、ずっと愉しませてあげる。スプランクナの最大の教義は欲望の追求よ。何でもしてあげるわ……それとも私に魅力が無いとでも?」
「それがお前の提案か」
「そうよ。名誉に思いなさい。私はあなたが……」邪神は俺の頬に手を伸ばそうとした。俺は無視して立ち上がる。
「勘違いさせたようだな。俺にその気は無い……旨いカクテルだった。今日唯一の収穫だ」
「待ってよ!」
「ハニートラップ。そして安っぽい裏切りの勧誘。俺も見くびられたもんだ。これ以上、話し合っても時間の無駄だろう」
「怒ったフリ……よね? それでこちらが善処するとでも? あなた、そういう戦略……」
「そう思いたいなら勝手にしろ。俺はこれで失礼する」
酒場の出口に向かう。給仕中のレオがギョッとしてこちらを見た。
「待ってよ! ねえ、ちょっと待って!」 後ろから慌てた声が聞こえる。
周りの男どもが一斉にこちらを見たのが分かった。
「戻って! お願いよ」 エンケパロスの大声が聞こえた。
俺は内心ため息をついた。
(脳内会話を使えばいいのに。これじゃ周りから見たら痴話喧嘩だぜ)
(それだけ慌ててるんですよ。作戦成功ですか?)妖精が呆れたように囁く。
(そうだな)
(性格悪いですよ?)
(今さら何言ってるんだ)
「降参するわっ! 降参よ。だから戻って!」 また大声がした。勘弁してくれ。
◆
席に戻ると邪神はふくれっ面をしていた。
“もっとやれ!”とか、“そんな男とは別れちまえ”とか、“姉ちゃん、俺の言う事も聞いてくれ”とか多数のヤジが外野から聞こえるが、もう好きにやってくれ。
しかし分からないのは、どうしてここまで俺に執着するのかって事だ。クリフに話したら面白いことになりそうだ。
「私の名誉の為にこれだけは言わせて。ハニートラップなんて仕掛けてない。私は自分のやりたいことをやっただけ」
「了解だ」
「分かったなら席についてよ」俺は無言で元の席に座る。
「あなた……怒って無いじゃない。わざとやったのね。憎たらしい男。女の心を弄ぶような男は地獄に落ちればいいんだわ」
「怒ってるさ。顔に出ないだけだ。それにお前は降参したんだろ。言葉をすぐ違えるような相手とは交渉は出来ない。今度は本当に帰らせてもらうぞ」
邪神はため息をついた。ため息と言うのは伝染性らしい。
「いくつか情報を教えてあげる。だからすぐ帰るのは無しにして」
「いいだろう」
「あなたは自分が守っている国がどうなるか知りたいのね? しばらくの間、こちらからの攻撃は無いわよ。かなり長い間、そうなると思ってもらっていい」
「良いニュースだ。だがそれは何故だ?」
「もっと重要な事が出来たからよ。あなたの上部組織に関係があるとだけ言っておく。でもあなたにとって、それが良いニュースがどうかは私には分からない。あなたの捉え方次第ね」
「曖昧な言い方だな」
「女には秘密が多いの。立場は察して欲しいわ」
「思わせぶりな女とは付き合うな、と言うのが親父の遺言だ」
「お父さんモテなかったのね」
「そんな事は無い。俺よりはモテた……ここ新日本国に対する攻撃も無いと思っていいのか?」
「知らない。担当の戦区じゃないもの。この地区担当はアストロサイトよ」
「担当ね。お前、役人に成った方がいいぜ。なわばり根性丸出しで役所仕事が好きなら、そっちの方が向いてる」
「余計なお世話」
エンケパロスは髪をかきあげた。なかなか色っぽい。
「ねえ……聞きたいのはそれだけよね。もっと愉しい話をしましょう」
「残念ながら、これからが本番だ」
邪神は俺を睨む。怒った顔もなかなか魅力的だ。
「あなたは私と取引したいと言った。ならば対価を頂戴。これ以上はタダでは嫌だわ」
「悪魔みたいな事を言う。魂だったらダメだぜ」
「ううん、どうしようかな。私が欲しいものは、そうね……」 邪神は色っぽい目つきで俺を見た。
俺は言う。
「情報の内容と……それがもたらす結果次第だ」
だが欲しがるものを与える事は、俺には恐らく出来ない。「多分な」と言う言葉を最後に付け加えようとする。だがエンケパロスはそれを許さなかった。
「つまり、満足すれば望みのものをくれるのよね」彼女は素早く言う。
妖精の緊張した声。
(警告。すぐ声に出して否定してくださいっ! 言霊を使った魔術の可能性あり。契約が成立すれば強制されます)
ギアスか。だが間に合わなかったようだ。マナが身体を駆け巡るのを俺は感じる。
心理防壁はこの種の魔術に効果は無いらしい。
邪神は微笑んだ。
「もう遅いわ。あなたは私のもの。私が欲しいのは、カザセ ユウ。あなただもの」




