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 サイズの合わない男物のモッズコートの裾や袖ををたなびかせ、少年のような風体の幼い少女は、灰のような砂浜を歩いていく。青緑の海は、波を伸ばしてその足跡を洗い流そうとするが、届いていない。ボロのスニーカーは、ただひたすらに歩いた形跡を刻み続ける。夜になれば、潮が満ち、海に消えてしまうであろう痕跡を残し続けるのだ。

 遮光ゴーグルごしに、海へ目をやる。沖の方に、永い時をかけても風化しきれない細長い建築物が生えている。あそこも、大昔は都市として機能していた。

 この世界は、海に沈みつつある。緩やかに、しかし確実に。

 ゴーグルを額に持ち上げて、トレミングされてない現実を眺める。少女の濁った瞳に映るのは、白い太陽に照らされ、海に支配される荒廃した世界。

 それは、あまりに無情で、そして美しかった。

「しょーちゃん」

 くぐもってはいるが、甲高い男児の声がして、しょーちゃんと呼ばれた少女は再びゴーグルで視界を覆った。

 しかし、この海辺に少女以外の人影は無い。それに疑問を持たずに、しょーちゃんは「わかってる」と応対する。

「わかってないよ、しょーちゃん。しょーちゃんは目が弱いんだから、昼間は外でゴーグルを外しちゃダメだって、僕は何度も何度も口を酸っぱくして言ってるんだからね。よりにもよって、こんな天気のいい日に!」

「せいくんこそ、わかってない。天気がいいからこそ、見たくなるんだ」

「それを我慢してって言ってんの!」

 せいくんというらしい声の主は、憤慨した様子でしょーちゃんに苦言を呈する。けれど、しょーちゃんはその声を無視してまた歩み始めた。

 海と、反対の方向に。

 それに気がついたせいくんは、荒げていた声を一変させ、喜色に染まった反応を見せる。

「しょーちゃんしょーちゃん、ねえしょーちゃんってば!」

「…………」

「しょーちゃーんー」

「……なに」

「波の音が離れていってるね!」

「うん」

「何か見つけた?」

「うん」

「それって……いい感じ?」

「どうだろう、わからないな」

「えー……じゃあ近寄らないでおこうよ」

 先ほどまでの喜びようはどこへ行ったのやら、せいくんは、それはそれはウンザリだと言いたげな態度をとる。しかし、しょーちゃんはやはり無視をするのだ。

 その、足跡が向かう先には。

「……死んでいるの?」

 人間が、横たわっていた。





――――――――――





 この世界は、海に呑まれようとしている。それを止めるというのは、人間に出来る領分を超えているのだろう。

 ならば、どうするか。人間は、最早進化出来ない生物だ。今さら、変わりつつある世界に順応など無理な話である。

 それならどうするか。簡単な話だ。人間は進化出来ない代わりに、常に進歩を続けてきた。生き残る為に、自分ではなく環境自体を変える。縄張りを広げ、環境を整備するのだ。そしてこの島国は山が多い。

 つまり、人間は山に登った。そして、強固かつ堅牢な〈シェルター〉を造りあげたのである。

 散々、他の野生動物を山へ追いやったというのに、人間は生き残る為に、なけなしの共存共栄を捨てたのだ。

 けれども、それも選ばれた一部の人間だけに与えられた安寧である。ただでさえ狭い土地に、生存する全国民が収まりきるはずが無いのだから。

 多くの人間は、今もなお海の見える土地で生きることを強いられている。ゆっくりと、しかし着実に蝕んできている海面を見つめながら、その現実から目を逸らしているのだ。

 山の麓に生まれたこの男は、珍しくもないことに、生まれた時から海を見てきた。恐ろしいくらいに、大きな水平線に睨まれてきた。

 だから、だろうか。青年期に入り、思ってしまった。

 もっと近くで見てみたくなったのだ、あの海とやらを。いずれ、自分達を殺すであろう怪物を。

 死を、直面してみたかった。男に限らず、この国のほとんどの人間は、生きることを諦めているふしがある。この男が、ことさら特殊というわけではない。

 だから、海に向かう漁師の集団に混ぜて貰うのにも、そんなに手間は掛からなかった。勿論、いい顔はされなかったが、自力で帰ることを条件に渋々だが了承してくれた。

 まだ夜中のうちから車に乗り、海に着く直前で降ろして貰った。自分の足で海に行ってみたかったのだ。

 かくして、潮の香りに誘われるまま、黄色い朝日に迎えられるように、防波堤を越え、男は海に辿り着いた。

 ――未だに都市の面影を残す紺碧の海は、男が思い描いていたよりも広大で。

 男の体はぐらりと傾いた。そして、砂浜に腰を落とす。

 視点が低くなり、更に海が近く感じた。今にも呑まれそうで、怖い。

 怖いくらい、美しい。

 男は砂浜に倒れると、海を見つめながら、ゆるゆると目蓋を落とした。こんなにも穏やかな気持ちになったのは、初めてだった。

 悟ってしまったのだ、男は。

 人間は、海に、世界に勝てないと。




―――――――――





 目が覚めて、男が最初に目にしたのは、紺碧の海でも、蒼穹の空でもなかった。だが、それが何なのか、判別をつけるのにそれなりに時間がかかった。

 それは、髪の毛だった。だが、その髪は何色と表現すれば適切なのか、最初はわからなかったのだ。光の加減で、キラキラと色を変化させているが、よく見てみればしかしそれは白髪である。

 その髪は艶やかで、上等な織物のようだ。少なくとも、栄養失調や老化のそれとは一線を画するほどの瑞々しさがあったのだ。

「あ、生きてる」

 髪の持ち主が振り返った。そこでようやく、その人物が幼い子どもだと気がついた。

 ゴーグルで顔は隠されているし、男性用のコートを着ているから、少年のように見えるが、声は少女性を孕んでいる。

 男は身を起こす。そして、その際落ちきらなかった砂を払いながら、辺りを見回した。

 間違いなく、ここは海辺だ。何故、こんな場所に子どもが居るのだろう。

「よかった、心配したよ」

 砂浜に座り込んでいた少女も立ち上がり、男に近寄ってきた。

 そして、コートのポケットから、何か袋のような物を出し、男に差し出した。彼の財布だ。

「大丈夫、中身は抜いていないよ。ただ、改めてさせては貰ったかな」

「えっと……?」

「身分証明書が見たくって、ごめんね」

「はあ」

 とりあえず財布を受け取り、背負っていたリュックサックにしまった。その際、リュックサックと財布の中身を確認したが、弄られた形跡はあれど、確かに物が減ってはいなかった。

 男は、今一度少女を見やる。服はどれをとってもボロボロで、どう見ても浮浪児だ。実際は金を盗ろうとしたのではないだろうか、と思わなくもない。

 少女は愛らしく小首を傾げると、桃色に色づいた濡れたような唇を動かして言葉を紡いだ。

「君が無事で、しょーちゃんは嬉しい」

「……しょー、ちゃん?」

「うん。しょーちゃんは、しょーちゃんっていうんだ」

 胸に手を当てて言うこの少女は、しょーちゃんと呼ばれたいらしい。

 そして、しょーちゃんとやらは「じゃあね」と告げると、その場を立ち去ろうとした。その方向には、ただひたすら灰色の砂浜が続いているだけで。

 放っておこうかと思ったが、海を見たからか気が動転していたらしく、気がついたら「待って」と声をかけていた。

 振り向いたしょーちゃんは、怪訝そうにしつつも戻ってくる。

「どうしたの」

「あー……そうだ、君はどうしてこんなところにいるの?」

 折角なので、先ほど抱いた疑問を解消することにした。たとえどんな答えが返ってこようが、聞いたらオサラバする心算である。

 首を捻ったしょーちゃんは少し考え込み、やがて口を開いた。

「それは」

「君にとやかく言われる筋合いある?」

 しょーちゃんの言葉を遮るように、甲高い声が邪魔をした。幼い少年のような声だ。

 周囲には、二人の他に誰もいない。ならば、どこから声がしたのだろう。かなり近くから聞こえた気がした。

 空耳という可能性を考慮し始めた男の目の前で、しょーちゃんは腰に付けていた筒状のホルダーを取り出した。もしかしたら、その中に携帯電話とか、ラジオとかが入っているのかもしれない。

 浮浪児が、そんなものを持っているとは思えないが。少なくともなにか音声を発する何かしらがあるはずだ。

 そして、しょーちゃんが引っ張り出したのは――――ペットボトルだった。

 並々と、青白く発光する液体の入った、ペットボトル。強烈な光ではなく淡いものだが、それ故に目を奪われる。少なくとも、入っているのは真水ではない。

 しょーちゃんは、そのペットボトルを男の前に置くと、しゃがんでそれを睨み付けた。

「せいくん、謝ろう」

 ペットボトルに向かって、真面目に叱責をするしょーちゃん。

 一瞬、彼女は気がおかしくなっているのかと思ったが、そうではないとすぐに思い知った。

 ペットボトルが突然震えだした。

「なんで。僕はしょーちゃんが変なことを口に出さないように、牽制しただけだよ?」 震えだすと同時に、また少年の声がした。

 液体状の通信機か、ペットボトル型のスピーカーか、滑稽な考えばかりがよぎる。

 これは、彼女に訊ねてみるのが一番手っ取り早い。男はペットボトルを指差した

「あの、これって、なに?」

「せいくん」

「せいくん?」

「しょーちゃんのペット」

「……ペットボトル?」

「違う、ペット。ちゃんと生きてる」

「…………」

 ちゃんと生きてるらしい。

 生きてる。生きている。つまり、生物であるということ。

 男は、言葉が出なかった。

「ほら、せいくん。謝って」

「えー……嫌だなあ。でも、しょーちゃんのお願いだしなあ……って、そういえば誰がペットだって?」

「せいくん」

「……あとで、ちゃんと話し合おうね。僕は納得いかないから」

「うん、たくさんしよう。せいくんとのお喋りは楽しいからね」

「しょーちゃん!」

 一際大きく震えたせいで倒れそうになったペットボトルを、しょーちゃんは胸に抱き締めた。その一連の行動は、確かに生き物じみている。

 あの生き物は、なんなのだろう。人語を喋ってはいるが、とてもじゃないが人間ではない。他の動物にも思えないし、植物や微生物だったらまず鳴かない。つまり、液体にしか見えない。

 けれど、確実にわかったことがあった。

 あれは、とても珍しく、そして価値がある。

「あーっと、別に謝らなくていいよ。俺のほうが気が利かなかったんだから」

「……そう?」

「うん、気にしないで」

「ありがとう。えっと、なんて名前だっけ……」

 身分証明書を確認したのに、忘れてしまったらしい。それでは意味が無いではないか。

 仕方がないので、男は自己紹介をすることにした。

「俺の名前はアオイだよ。よろしくね」

「うん。しょーちゃんはしょーちゃんです。よろしく」

 握手をしようと手を差し伸べたら、ペットボトルのせいくんとやらが盛大に震えたので、うやむやになった。

 さて、この浮浪児を手厚く保護しなければならない。アオイはしょーちゃんに微笑んでみせた。

 安心して欲しい。安堵して欲しい。

 そして、油断してくれればいいのだ。




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