白いカラス
幼い頃、カラスの死骸を見た記憶がある。
おそらく、その時からだったと思う。
生きながら頭の隅で死ぬ場所を探すようになったのは。
それはいつでも確かに私の中で呼吸をしている。
「立入禁止」という文字に魔法がかかっていると思っていたあの頃、フェンスの隙間をくぐって入った雑木林にカラスの死骸はあった。
それは私の瞳に美しく映った。
そして、私の死への憧れともいえる、理想的な死がそこにはあった。
人の訪れない、静かで暗い、死がとても似合うそこでカラスは本当に安らかに横たわっていた。
カラスに「立入禁止」の文字が読めたとは思わない。
けれどもカラスがその場所を選んで死んだのだと今でも本気で信じている。
17歳、夏。
家族で海に来た。
まぶしい色の服でごった返している海辺は綺麗なんて表現からはほど遠い。
似合いもしない白いワンピースを着て海辺を歩いた。
両親はいつもより少し派手な服を着て、いつもより少し大きな声で話している。
夕方、一人でペンションを出る。
人のいない海を見たかった。
海に向かって歩き、すぐにがっかりした。
昼間ほどでないにしろ、人は多く残っている。
みんな夕焼けに燃やされているみたいだ。
人がいないところを探して歩き続ける。
どれほど歩いたかわからない。
「立入禁止」の文字を見つけた時、私はまっすぐそれに向かって行った。
その看板と、細いチェーンは生と死の堺であるかのように思える。
バーベキューや花火の煙とは違った種類の匂いがするのではないかという妙な期待を抱く。
チェーンをたやすくまたいで一歩踏み出したそこは、やはり別世界だった。
海と向かい合って、風を受ける。
揺れたワンピースは炎のようだ。
砂浜に寝転がる。
きっと私は今、全身真っ赤だ。
空しか見えない。
けれど波の音は聞こえる。
空と海を錯覚してしまう。
砂の上を歩く音が聞こえて、立ち上がった。
そこにいたのは警備員には見えない若い男性。
白いワイシャツを着ている。
「ここ、立入禁止だよ?」
男性は口元に微笑みを浮かべながら幼い子供に言い聞かせるように言った。
「知ってます」
私は、すこし背筋を伸ばして言う。
「そう、何考えてたの?」
見透かしたような聞き方だ。
「ここで、死にたいな、と」
ふつうは、なんてことを言うんだ、とか、バカなことはやめろ、と言うんだろうが、男性は違った。
「溺れて?」
それに驚きつつも、冷静な自分もどこかにいた。
「燃えて」
この夕焼けに燃やされて、ここで死ぬ。
それはとても神秘的なことのようにさえ思えた。
男性は煙草に火をつけて、ライターをこっちに投げてよこした。
漂ってきた煙の匂いは私の期待していたものとは違った。
私はライターを見つめる。
安っぽいライターの中で不気味な液体が波打つ。
海よりも乱暴で包容力の無いそれによって自分が死にたいとは思わない。
私はまっすぐ男性の方に歩いて行った。
煙草の匂いが濃くなってゆく。
男性は私よりも頭一つ分背が高くて、私を見下ろす。
ライターを突き出すと、素直に受け取った。
「あなたには、まだ早いよ」
誰かに、あなたと呼ばれたのは初めてだと思う。
私が黙っていると、男性は続けた。
「まだ、死ぬには早い」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
そう尋ねたのは、年齢以外の理由がありそうだと感じたからだ。
「あなたは、まだ白い。死が似合うほど、生を知らない」
その言葉に、ひどく納得がいった。
「昔、カラスを見たんです」
この話を誰かにするのは初めてだ。
幼い頃は、「立入禁止」の雑木林に入ったことを咎められると思って、それからは、誰にも共感してもらえないと思って。
もっとも、共感してもらいたいと思う人などいなかった。
「カラスの死骸、すごく綺麗だった」
「どうしてそのカラスが美しかったか分かる?」
男性は海を見ながら言った。
「黒かったから」
私も海を見ながら答える。
男性は煙草を足元に捨てて踏みつぶした。
そして私のほうを見て笑って頷いた。
「その白いワンピースが黒く染まってしまうまで、いろんな景色を見るといい」
目を閉じる。
夕日の残像が白く瞼の裏側に映る。
そのまま十秒。
「一緒に来てください」
私はしっかりと男性の目を見て言った。
「私は、あなたと生きたい」
「どうして?」
男性はそう尋ねてはいるが、不思議そうな顔をしてはいなかった。
「あなたも、まだ白いから」
嘘じゃない。
もう半分の理由はきっと、言わなくたって分かっているはずだ。
あなたに魅かれたから。
男性は私に背を向けて、生の方向へ歩き出した。
私は足元の煙草を拾って、その背中を追う。
死の場所に煙草を残してはいけない。
私が追いつくと男性は私の手を取った。
煙草を握っていない方の手。
手を繋いだ私たちの影が、ほとんど沈んだ夕日に照らされる。
伸びた影はうっすらと灰色のカラスみたいだ。
チェーンを越えて、私たちは戻ってきた。
夕日が完全に沈むまで、歩き続ける。
何かを話すわけではない。
互いの名前さえ知らない。
影がなくなった私たちは、闇にのまれてはいない。
白いワンピースと、白いワイシャツは確かな光を持って闇から浮き上がる。
赤くも、黒くもない、白い一羽のカラス。
これから見る景色に思いをはせて、生きていく白いカラス。
読んでいただきありがとうございました。