傷つく者たち
薄暗い部屋を見回す。畳にして約七畳半、それが私の世界だ。私の世界はこの狭くて、そして何より私の愛するこの部屋で終わっている。だから私はこの世界でこれからも生きて、そのまま死んでいくんだろう。それが私の人生で、それが私の運命。
だけど、そんな私も一週間に一度だけ、外の世界の人と会う。その子は私の幼馴染であり、何より姉を溺愛するみはりという女の子だ。みはりは毎週金曜日の学校帰りに来ては、一週間の出来事や、お姉さんの話をして、それから一緒に夕飯を食べてから家に帰る。私はそんなみはりとの時間が何より好きで、毎週金曜日が楽しみだった。
私は気になってそのお姉さんの写真を見せてもらったことがある。私が想像したお姉さんは頼れる大人のお姉さんだと思っていたが、どうやら違うようだ。写真で見る限りお姉さんはむしろ、頼り無さそうな雰囲気で、どこか儚いというか、今にも消えてしまいそうな、ある種の異様な感じを纏っていた。何を考えているか分からない、とはまさにこのお姉さんだ。
今日は金曜日。あと数時間すればみはりが来て、学校でのことや、あのお姉さんの話をして、そして夕飯を食べて帰るのだ。楽しみすぎる。私は今からうきうきしてベッドの上で跳ねていると、突然部屋のドアが開き、人が入ってきた。
「……何やってんの。あすか」
母は娘がベッドで跳ねているという奇行を目撃してしまったらしい。恥ずかしくて死ねる。
「別に、何でもない。それより何? いきなり部屋に入ってきたりして」
照れ隠しのため強がってみたが、多分失敗した。なんだか中途半端なツンデレみたいだ。そんな私を見て母は呆れたようにため息をついて、話を始めた。
「あなたが学校に行かなくなってからもう二年だし、別にお母さんも今更あんたに学校行きなさいとは言わないけど、あなたもうそろそろ十八歳でしょ? これからどうするか考えてる? いつまでもこんな生活は続けられないのよ?」
そんなこと、分かってる。分かってるよ。
「今、早急に答えを出しなさいとは言わないわ。ただ、少しはそうゆうことも考えておきなさいってだけだから」
扉が閉じられる。再びの暗闇と静寂。ずっと考えないようにしていたのかもしれない。私の時間はいつまでもあの日に閉じ込められてる。私は過去に縛られた亡霊のように、未来を奪われた囚人のように、この部屋にとどまり続ける。
目を閉じる、薄ぼんやりとした闇ではなく、完全な暗闇が広がる。どれだけ世界が光に満ちていようと、このまぶたの裏に広がる暗闇だけは、誰にも照らすことは出来ないだろう。
神様なんて、この世にもあの世にも、どこにもいない。仮に、本当に万が一いたとしても、きっとろくでもないものだ。万能と言われようと、全能と言われようと、私たちを救わないし、罰も与えない。裁きもしなければ、叶えもしない。ただそこにいるだけの存在。
そんなものはもう、いないのと同じなのではないだろうか。
しばらく部屋の天井を眺めながら呆けていると、玄関からチャイムが鳴る音がした。私は慌てて服装を正し、部屋の電気をつける。普段と同じようにしてみはりを迎えようとしたが、普段から何もしていないので、普段通りがどんなものか私には分からなかった。
「久しぶり! あすかちゃん、元気にしてた?」
そうこうしているうちにみはりは私の部屋に入ってきた。私は平静を取り戻すためにみはりに気付かれないように深呼吸をする。
「うん、久しぶり。元気にしてたよ」
みはりは一通りの挨拶をすると、私がさっきまで寝ていたベッドに腰を下ろす。
「飲み物とおやつか何か持ってくるね」
事前に準備をしていれば良かったのだけれど、今日はその時間も無かった。仕方なく私が一階に下りて、飲み物と軽食を二階の自分の部屋に運ぶ。普段運動なんて全くしていないから、家の階段の上り下りでも軽く息が上がってしまう。
息を整えてから部屋に入ると。普段だったら本棚やテレビなんかを見ているのに、今日はベッドに座ったまま動いていない。
「どうしたの。なんだか今日は元気ないね」
持ってきた飲み物などを乗せたおぼんを机に置いて、私はみはりの正面に座る。さっきは気付かなかったけれど、なんだか今日のみはりは”あの時”のあの子のようだ。
「昨日ね、お姉ちゃんが、家出しちゃった」
みはりは今にも泣きそうな顔でそう言う。
「何でだろうね。私、お父さんとお母さんがあんな状態でも、お姉ちゃんがいれば、お姉ちゃんさえいれば、それで良かったのに」
やめて、私をそんな顔で見つめないで。
「私、お姉ちゃんに愛されてると、ずっと思ってた。違ったのかな。私のこと、本当は嫌いだったのかな」
私には、みはりを救えない。私は外の世界では無力なんだよ。
私はこの部屋でしか生きられないんだよ。
「どうしてお姉ちゃんは私を連れて行ってくれなかったのかな。私は要らない子だったのかな。お姉ちゃんにとって私は、私は……」
そこまで言ってみはりは泣き出してしまった。
私は、そんなみはりを慰めることも、一緒に泣いてあげることも出来ない。こんな状態のみはりに何を言ったらいいか分からない。
私が俯いていると、みはりは私の手を握ってきた。
「あすかちゃん」
私は、その顔を、昔見たことがある。
その顔は、私を頼りきっている顔だ。
”あの時”のあの子のように。
「あすかちゃんは、どこにも行かないよね? ずっとずっと、私の側にいてくれるよね?」
涙をこぼしながら、すがるようにみはりは私に言ってきた。
「うん。私はどこにも行かないよ。ずっとずっと、みはりの側にいるよ」
違う。私はどこにも行けないだけ。どこにも行くあてがないだけ。
それでも、みはりが私を必要としてくれるなら、どこへでも行けるとしても、ここにいよう。
しばらくしてみはりが落ち着くと、お母さんが入ってきて。「夕飯、今日も食べていくでしょ」と言って、オムライスを二つ、持ってきた。多分、部屋の外で入るタイミングを窺っていたのだろう。
「ねぇ、みはり」
「なに、あすか」
私はお母さんが持ってきてくれたオムライスをみはりに渡しながら言う。
「お姉さんは、きっとみはりがすごく好きで、みはりのことすごく大切にしていたからこそ、連れて行けなかったんだと思うよ」
みはりはオムライスを受け取らず、少しの間、それを眺めていた。泣き腫らしたその目で、みはりは何を見て、何を考えているのか私には見当もつかない。
しばらくしてみはりはお皿を受け取りながら、小さな声で言った。
「……お姉ちゃんね、オムライスが大好きだったんだ。家を出て行く前も、私と一緒にオムライス食べてたの」
本当に大好きだったの。と消え入りそうな声で喋る。
「昔ね、お姉ちゃんこんなこと言ってたんだ。『私が好きなものを相手に与えるそのときは、最愛の証と永遠の別れ』だって。酷いよね。大切なら、愛してるなら一緒に連れて行ってよ。大事なら、大好きなら側にいさせてよ」
私は、何も答えられなかった。
答えを持っているからこそ、私は沈黙した。代わりに私は当たり障りの無い、けれど限りなく答えに近い回答をする。
「大切だから、愛してるから遠く離れなくちゃいけないの。大事だから、大好きだから側にいることが許されないんだよ」
みはりのお姉さんは、きっと過去に最愛の人を亡くしているのだろう。私と同じように。
一緒にいることがどれだけ悲しいことか、側に居続けることがどれだけ難しいことか。共に生きていくことが、どれだけ幸福なことで、どれほどの絶望が待っているのか。私は知っている。
みはりは何も言わなかった。何も言わず、涙を堪えながらお姉さんの好物だったオムライスを食べていた。
「また来週ね」
あれからしばらく何をするでもなく、ただぼんやりと二人でテレビを観たり、他愛の無い話をしていた。
「いつでも来ていいからね。私はいつでも歓迎するよ」
みはりは誰が見ても分かるような作り笑顔を残して帰ってしまった。
きっとみはりはその胸の内にある、辛さや寂しさを押し隠して明日も、あの作り笑顔で外の世界を生きていくんだと思う。それなのに、それなのに私はどうしてここで立ち止まっているのだろう。何をそんなに恐れているのだろう。
確かに私は昔、大事なものを失った。そしてこれからも大切なものや、大事なものを失ったり、奪われるだろう。
外の世界はいまだ遠く、眩しくて直視が出来ないけれど、いつの日かそこで生きていかなければならない。きっとその日はすぐそこで、きっとその時も、私は大事なものを失うのだろう。
「いつまでも外にいると冷えるでしょ。早く中に入りなさい」
お母さんが後ろから声をかけてきた。
「うん。分かった」
私は、上手く笑えていただろうか。
とりあえずは、上手に笑う練習をしないと。