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傷痕

保健室に来た俺は、葛原先生(保健医)に右手を軽く処置してもらった。

来た時、先生は目を点にして驚いていた。

処置が終わると、職員室で電話をかけに行くと言って、保健室を飛び出して行った。

蒼井と二人だけになった保健室は、なんだか余計に広く、寂しく感じだ。

視線を向けるとぴたりと目が合う。

逸らそうとせず、まっすぐだった。

「……今から変なこと話すけど、気にしなくていいから」

無言で蒼井が頷く。それを見て、せき止めるものが無くなったかのように話し始めた。

中3の事故のこと。

親が弁護士だということ。生きてるだけじゃ足りないと思っていること。

恐怖から逃れるために信頼を捨て、自分を守ろうとしたこと。最低な自分。

騒音ばかりの世の中。

他人を殺してしまうかもしれない、自分の手。

やるせなさ。悔しさ。悲しいニュース。

どうにもならない大人たちのくだらない政治。

――関係のないようなことまで、とにかくひたすら喋り続けた。ちゃんと言葉になっていたかもわからないのに、蒼井は穏やかな瞳で頷く。

カーテンからの木漏れ日が、色素の薄い蒼井の髪や肌をうっすらと照らしていて、なんだか優しい人みたいで調子が狂う。

心臓が小刻みに震えるせいで、声も時々震えてしまう。

「…よく父親が言ってた"強くなれ"ってのも、わからない。人に対して優しくするのが親切であり強さで、人を傷つけるのは最低で弱い人間だって言ってんだ。法で裁かれるのもその後者、つまり心の弱い最低な人間が多いから、親父は俺にテレビの犯罪の報道見せて、小さい頃からずっと"お前は優しい人間になれ。強くて立派な人間になれ"って言われてきた。

でも歳を重ねるうちに、そういうのに疑問がでてきた。弱い人間ってのはなんで弱いのか、それはそいつだけの問題で他者は関係ないのか。

弱いとか強いとかって、結局軽蔑に変わりないんじゃないのか?正しいことじゃない気がした。漠然とだけど。

それに、そもそも正しいことってなんだ?法に沿って生きることが正しいってことか?

定められた決まりに何の疑問も持たずに従っていくのが理想の人間像なのか?

違う。そんなんじゃない。そんな乾いた繋がりじゃなくて、もっと……」

息が切れた。

こんなに喋ったのは久しぶりで疲れた。

蒼井は無言で先を促す。

「中3の時の喧嘩で、実際俺が誰かを傷ついた時、そのあっけなさに恐くなった。自分のこの手で、簡単に人は消えてしまいそうになるんだって。俺はやっぱり弱くて最低な人間だと思った。他人と接するのが嫌になったし、避けるようになった。

誰かを傷つけることが俺にとっての恐怖。

逃げたんだ。

自分が傷つかないうちに、自分から他人を突き放した。お前も最初、関わりたくなかった。嫌いとかそういうんじゃなくて、とにかく他人だったから。

俺は一度人を殺しそうになった奴だし、いつかまた同じことを繰り返すかもしれない。いつの間にか広がってく噂話に、ただ傷つくのも好きじゃなかったけど、それよりもっと、他人を傷つけて自分が傷つくのが怖かった。あの時からその怖さから逃げるために、信頼、とかそういうの捨てて、俺自身を守ってたんだ。誰かのためなんかじゃない。

本当に自分だけのために。…関係を持つことで、信頼は徐々にに結ばれていくけど突然の裏切りで繋がりはたやすく途切れるから。

どうせ嫌な思いするんだったら、繋がりなんかいらないと思った。

最初からない方がいい。

俺は優しい言葉も愛情も持ってないから。

世界中の人間を助けることができなくても、自分の周りくらいはどうにかしたかった。

殴られ続けることで、何か救いになればって思ってた。でも結局、なにも―――…」

視界が曇ってく。

ぼやけて前がよく見えない。全部吐き出した口をきつく結ぶ。手がどうしようもなく震えた。

心臓が嗚咽をあげる。

堪えようとも思わないうちに、透明なものが頬を伝った。


視界が一瞬はっきりした。前に座っていた蒼井がいつの間にか横にいて、微笑んでいた。

左手で俺の髪をわしゃわしゃといじり、ポンポンと二回、軽く叩いた。――俺は犬じゃないっつの。


「……優しーね、理久は。今までそんなこと考えて生きてたの?

自分と関われば、俺が傷つくかもって思ったから、あんなこと言ったんだ?」

格好悪いと知っているのに、溢れる涙は止まらなかった。

蒼井に顔を見られたくないから、ずっと下を向いていた。蒼井はゆっくりとした口調で言葉を繋いでいった。俺は優しくなんかないのに。

「理久が思ってるほど、生きてくのって難しくないよー。まあ、簡単ではないけど。

それにさ、生きてるんだから、誰かを傷つけないわけにはいかないと思うよ?

傷つく、傷つけられる、

繰り返してどうにか生きてる。俺もそうだしね。

だから――、上手く言えないけど大丈夫だってこと。噂もちゃんと話せばわかってくれるよ。

実は皆、理久に興味津々だったりするし。

あ、いざとなったら微量だけど力になりますんで」


外から大きな足音が近づいてきて、蒼井が言葉を切った。葛原先生だと思い、急いで袖口で目元を擦ると、勢いよく保健室の扉が開いた。

バンッッ、と響き渡るほどに強く。


「はぁっ、はぁっ、……ッッ」

セミロング。赤眼鏡。

小柄な体。星村風華だった。ボサボサの髪を気にする様子もなく息を弾ませ近づいて来る。

「なんだよ」と言う間もなく、椅子に座る俺を抱きしめてきた。らしくない震え声で、

「……あの、眼鏡のやつが言ったこと、気にしてるんじゃないでしょうね…?あんなのは、ただの逆ギレなんだからね……!!

私、こんなだけど、辛かったら辛いって言ってよ。

一人で抱え込んで、離れていかないでよ……!

もっと、もっといっぱい他人に頼って。

むしろ頼りなさいよ…っ」

ぎゅっと、力が入る。

顔は見えないけど、泣いている気がした。

小さな体がやけに大きく、俺なんかより断然頼もしかった。


「そうそう。俺だけじゃなかったね。フーカだって理久のことちゃーんと見ててくれてる」穏やかに笑う。

悲しくないのに、胸が苦しい。声が出ないようにするのがいっぱいいっぱいだ。これが「嬉しい」ってやつなのかな、と思った。


「あっらー?お取り込み中悪いんだけど、羽柴、病院行くからちょっといいかな〜?」

いつの間にか、扉からこっちを覗く葛原先生が、ニヤニヤ笑って立っていた。

顔を真っ赤にして星村風華は俺から離れる。言葉にならず、「えっ、あ、うっっ」とか意味不明の単語を発し、逃げるように保健室からでていった。蒼井は愉快そうに笑う。

俺はというと、下を向いてひたすら表情を隠していた。

顔が妙にあつかった。




その後、葛原先生の車で市立病院に連れていかれ、母さんに会った。

俺の顔を見てほっとしたようだった。

50歳くらいの医師に右手を診てもらい、一ヶ月くらいで治ると言われ、塗り薬と包帯をもらい家に帰った。母さんは葛原先生と、俺の診察中に何か話していたようだったが、そのことについて、咎めるようなことは言わなかった。


「相手の子のほうから、言ってきたんだって?

嫌味とか、色々。

偉いじゃん。殴らなかったんでしょ?」

いつもと変わらない、陽気な声だった。

「ああ、」と小さく頷く。怒ってるかもしれない。呆れているのかもしれない。父さんが聞いたら、なんと言うだろうか。

怒鳴るだろうか。

溜め息をつくだろうか。

色々マイナスなことを考えたが、それほど気分は悪くない。なぜだろう。

とても温かい。

こう言うのも変だけど、やっと生きてる感じ。

今まで、別に死んでたわけじゃないけど、自分が生きてる感じがしなかった。

言うならば、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す、有害な植物みたいな存在。

でも今は―――


"生きてるんだから"


空を見上げながら、頭にアイツの言ったことを響かせる。


"誰かを傷つけないわけにはいかない"


当然といえば当然のことだけど、初めて聞いた呪文のようにそれは響いてた。

何度も、何度も。

繰り返すことで脳が記憶させようと必死に働いているのだろう。

同時に、息を弾ませてやってきた小さな女の子がふと頭をよぎった。

"一人で抱え込んで、離れていかないでよ……っ"


震えてた。それでも凛と、澄んでいた声。


"私、こんなんだけど、辛かったら辛いって言ってよ"


すぐ傍で聞こえた声もまた、忘れられなかった。

あんなにウザいと思っていたはずなのに。

気が狂ってしまう。



「あ、」


ふいに、母親が声をあげる。何事かと母親を見ると

「夕日、綺麗ねぇ」


あっという間に、さっきまであった空のグラデーションは違うものになっている。

重い荷物を捨てた心は、一度見た景色はずって見られるわくじゃないんだな、と思った。

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