第二話 『はじめての唐揚げと酒』
あの食堂を出てから、三日が経った。
クレドは行き先も決めず、街道を歩いていた。
魔王はもういない。ならば、どこへ行こうが自由だ。
「……美味かったな」
ふと思い出したのは、三日前に食べたブンブン豚の煮付けだった。
甘辛い汁の染み込んだ、ほろほろの肉に、温かい芋スープ。思い返しただけで腹の奥が疼き、もう一度食べたくなってくる。
世界には、まだまだ美味いものがあるらしい。
ならば、それを食ってみたい。
今のクレドには、それだけで十分だった。
昼を少し過ぎた頃、街道の先に小さな村が見えてきた。
木造の家々の周囲には畑が広がり、その向こうでは家畜がのんびりと草を食んでいる。
村へ入ったクレドが、さて何を食うかと辺りを見回していると、ちょうど道の向こうから野菜の入った籠を抱えた若い女が歩いてきた。
「この村で美味いものを食える店はあるか?」
突然声をかけられた女は、きょとんとクレドを見上げた。
「美味しいもの?」
「ああ」
少し考えるように視線を上げたあと、女は小さく笑った。
「それなら、うちかな」
「店をやってるのか?」
「父さんがね。酒場と食堂をやってるの」
「美味いのか?」
「もちろん」
迷いなく返ってきた答えに、クレドは一つ頷いた。
「なら、そこにする」
「ふふっ。分かった。ついてきて」
ミリと名乗った女に案内されたのは、村の中央にある二階建ての酒場兼食堂だった。
開け放たれた窓からは賑やかな話し声が漏れ、昼を少し過ぎた時間だというのに中にはまだ多くの客がいる。
「父さん、お客さん連れてきたよ」
店へ入ったミリが声をかけると、カウンターの奥から腹の出た中年の男が顔を出した。
「おう。珍しいな、お前が客を連れてくるなんて」
「村で美味しい店を聞かれたから」
「それで自分の店を紹介したのか?」
「だって美味しいでしょ?」
「ははっ、そりゃそうだ」
楽しそうに笑った店主が、そのままクレドへ顔を向ける。
「で、兄ちゃん。何食う?」
「一番美味いものを頼む」
「一番か。そりゃ難しいな」
店主は腕を組んで少し考えると、何かを思いついたように頷いた。
「よし。だったらメモリ鶏だな」
「メモリ鶏?」
「この辺りで育ててる鶏だ。肉に弾力があって味も濃い。唐揚げにしてやるよ」
「…………からあげ?」
「なんだ、知らねぇのか?」
「知らん」
「なら食ってみな。美味いぞ」
「そうか」
また、自分の知らない料理だ。
三日前なら不安になっていたかもしれない。だが今は、その言葉を聞いただけで少し腹が減ったような気がする。
クレドが席についた、その時だった。
店の扉が開き、三人の男が入ってきた途端、それまで賑やかだった店内の空気が僅かに変わった。
「よう、ミリちゃん」
男たちの姿を見たミリの表情が強張り、店主からも先ほどまでの笑みが消える。
「何しに来た」
「飯だよ。ここは食堂だろ?」
三人は我が物顔で席につくと、そのうちの一人がミリを手招きした。
「おすすめは?」
「……メモリ鶏です」
「そうか。でも今日は別のもんがいいな」
男の目がミリの身体を舐めるように動く。
「お前とか」
「ふざけるな!」
店主が声を荒らげた。
「借りた金は全部返しただろ!」
「知ってるよ。今日は客として来たんだ」
悪びれもせず笑った男がミリへ手を伸ばすと、周囲の客たちは巻き込まれるのを恐れたのか、次々と代金を置いて店を出ていった。
気づけば残った客は、クレド一人だけになっていた。
「……おい」
男がクレドを見る。
「お前も帰れ」
「断る」
「あ?」
クレドは男ではなく、カウンターの奥へ目を向けた。
そこには、これから料理になるのだろうメモリ鶏が置かれている。
「まだ飯を食ってない」
「てめぇ……俺たちがガルディ商会の人間だって分かってんのか?」
「興味ない」
男が立ち上がり、そのままクレドへ手を伸ばした。
その手首を掴む。
「なっ――」
次の瞬間には男の身体が宙を舞い、開いた扉から外へ消えていた。
「てめぇ!」
残る二人も立ち上がったが、クレドは静かに腰を上げると扉を指差した。
「外へ出ろ」
「あ?」
「店が壊れる」
◇
間もなく、外から二つの短い悲鳴が聞こえた。
何事もなかったように戻ってきたクレドを、ミリと店主が呆然と見つめている。
「…………」
「…………」
クレドは元いた席へ腰を下ろした。
「料理、頼む」
一瞬ぽかんとしていた店主だったが、やがて堪えきれなくなったように豪快な笑い声を上げた。
「ははっ! 分かったよ!」
◇
店主がメモリ鶏を切り分け始めると、クレドはカウンター越しにその手元をじっと見つめた。
肉を器へ入れ、塩と細かく刻んだ緑色の葉を加える。そこへ見慣れない液体まで注ぎ、手で混ぜ合わせていく。
(なんだ、それ……?)
しばらく置いた肉には、今度は卵と白い粉が絡められた。
焼くのとは明らかに違うその手順を、クレドは眉間に皺を寄せながら追い続ける。
(何してるんだ……?)
やがて店主が肉を持ち上げ、そのまま鍋へ落とした。
ジュワァァァァァ――!
「…………!」
突然響いた激しい音にクレドの肩が跳ねる。
大量の泡が肉を包み込み、鍋の中で激しく弾け続けている。
(なんだそれ!?)
一瞬、肉が燃えているのかと思った。
だが店主は慌てる様子もなく、平然と鍋を見ている。
クレドも黙って眺めていると、やがて鼻の奥をくすぐる匂いが漂ってきた。
焼いた肉とは違う、油を含んだ濃く香ばしい匂いに思わず鼻が動く。
(なんだよ、この匂い……)
先ほどまで白かった肉の表面は、いつの間にか食欲をそそる黄金色へ変わっていた。
店主がそれを鍋から引き上げると、まだジュワジュワと小さく音を立てる肉が、次々と皿へ並べられていく。
「ほら。メモリ鶏の唐揚げだ」
「…………」
目の前へ置かれた途端、先ほどまで漂っていた香ばしい匂いが一段と濃くなった。
黄金色の表面はごつごつとしていて、その隙間には僅かに油が滲んでいる。
クレドはその中から一つ手に取った。
「熱っ……」
揚げたての熱が指先へ伝わってくる。
それでも手放す気にはならず、立ち昇る香りに誘われるまま口へ運んだ。
サクッ。
「…………?」
クレドの動きが止まった。
(なんだ、今の)
肉を食ったはずなのに、表面が小気味よい音を立てて砕けた。
そのまま口を動かすと、今度は衣の奥から熱い肉汁が溢れ、脂の旨みと塩気を一気に舌の上へ広げていく。
さらに鼻へ抜けていったのは、先ほど店主が加えていた葉の爽やかな香りだった。
「…………!」
(お、おおお……!?)
外は香ばしく、中の肉は驚くほど柔らかい。
しかも、口を動かすたびに熱い肉汁が染み出し、砕けた衣と混ざっていく。
(なんだこれぇぇぇ!)
(肉なのにサクッていったぞ!? 中は柔らけぇし、汁まで出てきやがる!)
一つ目を飲み込む頃には、もう次へ手が伸びていた。
サクッと衣が砕け、その奥からまた肉汁が溢れる。
(あぁ〜ん……もう……)
さらに一つ口へ運ぶ。
(止まらな〜い……!)
外から見れば、いつもと変わらない仏頂面で黙々と食べているだけだった。
だが、その頭の中では大騒ぎである。
(なんだよこれ! 鶏だろ!? 鶏ってこんなことできんのかよ!)
気づけば皿の上から唐揚げが次々と消えていき、それを見ていたミリがカウンター越しにそっと覗き込んだ。
「……美味しい?」
「ああ」
短く答えながら、また一つ口へ運ぶ。
ミリはその様子に小さく笑うと、今度は白い湯気の立つ器をクレドの前へ置いた。
「こっちもどうぞ」
薄く濁ったスープの中には、細かく刻まれた野菜が浮かんでいる。
匙ですくって口へ運ぶと、唐揚げとはまるで違う優しい塩気と旨みが舌へ広がり、口の中に残っていた油を温かなスープがゆっくりと流していく。
「……おお」
その奥に残る味に覚えがあり、クレドはもう一口飲んでから器を覗き込んだ。
「これは何のスープだ?」
「メモリ鶏だよ。骨を野菜と一緒に煮てるの」
「骨?」
「うん。いい味が出るんだよ」
「…………」
山では肉を食ったあとの骨など、そのまま捨てていた。
そこからこんな味が出るなど、考えたこともない。
もう一口スープを飲んでから、今度は唐揚げへ手を伸ばした。
同じ鶏なのに、一方は衣が弾けるほど香ばしく、熱い肉汁が溢れ出す。もう一方は驚くほど優しい味で、飲むたびに温かさが身体の奥へ染み込んでいく。
(同じ鶏なんだよな……)
唐揚げとスープを交互に見つめる。
同じものでも、作り方一つでまるで別の味になる。それどころか、今まで捨てていた骨からでさえ味を引き出してしまう。
(料理って……すげぇな)
そんなことを考えながら残った唐揚げへ手を伸ばしていると、ミリが今度は別のものを持ってきた。
「はい。これ、サービス」
目の前へ置かれたのは、淡い黄金色の液体だった。
大きな器の上には真っ白な泡が盛り上がり、その下では小さな泡が次々と浮かび上がっている。
「……なんだ、これは?」
「ビアー。お酒だよ。さっき助けてくれたお礼」
「酒……」
クレドはジョッキを見つめた。
酒と聞いて思い出したのは、山で時折ハムエルが飲んでいたものだった。
『師匠。それ美味いのか?』
『お前にはまだ早い』
『一口』
『駄目だ』
『けち』
『ガキが酒なんぞ飲むな』
結局、一度も飲ませてもらえなかった。
「……飲んでいいのか?」
「もちろん」
「そうか」
クレドはジョッキを持ち、一口飲んだ。
「…………」
眉間に皺が寄った。
(苦い)
これの何が美味い。
確かめるようにもう一口飲んでみるが、やはり最初に感じるのは苦みだった。
それどころか、舌や喉では細かな何かがシュワシュワと弾け続けている。
(師匠は、これの何が美味かったんだ?)
分からない。
クレドはジョッキを置き、再び唐揚げへ手を伸ばした。
口へ運べば衣が軽く砕け、柔らかな肉から熱い肉汁と脂が溢れ出す。
塩気と香ばしさが口いっぱいに広がると、思わず頬が緩んだ。
(あぁ〜……やっぱこっちは美味ぇ……)
そのまま余韻を楽しんでいたクレドの目が、ふと先ほど置いたジョッキへ向いた。
「…………」
なぜか、飲みたい。
さっきは苦いとしか思わなかったはずなのに、唐揚げの脂が残る口の中が、あのシュワシュワとした刺激を求めている。
首を傾げながらジョッキを掴み、もう一度喉へ流し込んだ。
ゴクッ。
ゴクッ。
「…………!」
冷たいビアーとともに弾ける刺激が、口の中に残っていた脂を一気に流していく。
(おおっ!?)
さっきとは違う。
苦みは確かにある。それなのに唐揚げのあとでは、その苦みさえ妙に心地いい。
脂で満たされていた口の中がさっぱりしていく一方で、鼻の奥にはまだ衣と肉の香ばしさが残っていた。
そして、口の中が軽くなった途端――またあの唐揚げが欲しくなる。
「…………」
クレドは無言で一つ手に取った。
サクッと衣が砕け、再び肉汁と脂が舌を満たす。
(美味い……!)
すると、今度はまたビアーが欲しくなった。
ゴクッ。
ゴクッ。
(おおお……!)
口の中がさっぱりする。
するとまた、唐揚げ。
肉汁と脂で満たされれば、今度はビアー。
「…………!」
クレドの目が見開かれた。
(なんだこれ……!)
(唐揚げ食ったらビアーが欲しくなって……ビアー飲んだら、また唐揚げが食いたくなるじゃねぇか!)
まるで互いが互いを呼んでいる。
クレドは大きめの唐揚げを口へ運び、香ばしい衣と溢れた肉汁をたっぷり味わってから、その余韻が残っているうちにジョッキを傾けた。
ゴクッ。
ゴクッ。
ゴクッ。
冷たいビアーが喉を流れ落ち、脂っぽさを綺麗にさらっていく。
「ぷはぁ〜……」
とうとう声まで漏れた。
向こうで見ていたミリが、目を丸くしたあとに笑う。
「気に入った?」
「…………」
クレドは手の中のジョッキを見つめた。
最初は苦いだけだった。
だが今なら、ハムエルが美味そうに酒を飲んでいた理由が少しだけ分かる気がする。
「ああ」
そう答えると、残っていた唐揚げへ手を伸ばした。
唐揚げを口へ運び、ビアーを流し込む。
(も……もうこれ最高〜……!)
三十八歳にして初めて、クレドは酒の美味さを知った。




