紡ぐ糸は誰のため?
あなたはどこへ行ったのか
カンダタという人物を知っているだろうか。
かの有名な芥川龍之介の書いた短編小説『蜘蛛の糸』に出てくる登場人物である。
残忍な性格ながらも、小さい命を慈しむ一面を持つ彼の姿を通して人間のエゴは描かれた。
かの作品を通して、蜘蛛の糸はその短編を知らぬ者すら慈悲の象徴として扱うほど世に馴染んでいる。芥川龍之介がいかに偉大な人物か分かる。
あと単に益虫という一面もあるし。
私は獲物を確実に捕らえる蜘蛛の糸を恐ろしいとも思うし、雨に濡れ水滴が真珠のように連なる蜘蛛の糸を美しいとも思う。
だが、この物の見方も偏見だ。
真珠は実は元々丸くない。否、球体の物も自然界でたまにあるが、丸いのは養殖真珠の核入れによるものだ。
月が常に球体であると知られるようになったのは、歴史から見ればつい最近のことだ。
それまでは
神や精霊によって姿を変えていた。
月そのものが成長し老化していた。
と、考えられていたらしい。
蜘蛛の糸の本質も、月の姿も、真珠の形も、人は存外知らない。
では死後の行き先についてはどうだろう。
あなたは
天国と地獄、どちらに行くと思いますか?
あなたはどこへ行ったのか?
自分にそう問いかける
あの日からずっと
冷えた風に身をさらしながら、橋の真ん中に立つ少女が一人。
長い髪は風になぶられてお世辞にも美しい状態ではないし、水色のワンピースはくちゃくちゃだ。
しかしそれを全く気にせずただ空を見つめる少女には危うさがあった。
危うさがあったので、
地元民から通報された。
当たり前である。なんならその橋は自殺スポットとしてめちゃくちゃ有名だった。
少女にどんな事情がありどんな考えを持っていたのかは分からないが、一つ言える。
誰であっても私の前で身投げとかするなや!
そう私。
あいにくスマートフォンを持ってない、通報手段を持たない私。
身投げシーンなんて見たらトラウマになってしまう私。
半年前この橋で路上飲酒してベロベロに酔っ払ってすっ転んで頭を打ち、気がついたら死んでいた私。
そしてこの橋に縛られて地縛霊をしている私である。
いや、死後の世界があったら酒池肉林がある天国に行きたいと思い、常日頃から善行に励んでいた在りし日が懐かしい。
だが結局は路上飲酒をしてその愚行の報いを受けたわけだが。
全国の皆のもの! 路上飲酒はダメ絶対!
天国にも地獄にもいけなくなるぞ!
否、地獄に行くくらいならここのほうがマシな気がする。
やはり皆、やましいことはあるだろう。
地獄に行くかも…と思うそこの者!
地縛霊になってみないか?!
なんて
私も極度に寂しさを感じなかったら路上飲酒に参加していなかっただろう。
そう寂しさ。
うさぎは寂しいと死ぬという。
まあ私は人間さまでストレスに強いとされる女だったわけだが。
身の丈以上の幸運を掴んで、それにふさわしい人間になろうとしたら、その幸運を逃してしまった。
そんな愚かな人間だ。
まあ幸いここは犬の散歩コースだからあまり飽きない。猫もたまにこんにちはをするし、ここから見る月は美しい。
こんな地縛霊ライフもいいのかも。
だがまぁ
生前の知り合いが一人も来ないとは思わなかった。そこそこ人望はある方だと思っていたのに、意外だ。せめて共に路上飲酒という業を背負った仲の者がいてくれたらな、と、思わなくはない。
ここは気が滅入る。
ここで自死をした者宛の花束がどんどん積み上がっていくからだ。
先ほどの少女もそうだ。花束を持ち、ここへ置いてから空を見ていた。
きっと、死んだその人が天国にいると信じて。
一つ
一つ
また一つ
積み上がっていく
花束が積み上がっていく。
また一つ。
また一つ。
悼まれる誰かのために。
妬ましい。
悲しい。
狡い。
どうして?
悼んでもらえる人望があったくせに
どうして?
なぜ死を選んだ
どうして?
私には無いものを持っているくせに
どうして?
なぜ死を選ぶ
…どうしてだ
…どうしてだ
…どうしてだッ!!
いけない。
この感情に呑まれてはいけない。
私の横を、ゆっくりと黒い影が通っていく。
大きな魚みたいな見た目の者が、通っていく。
一昨日まで、幽霊同士でお話が出来ていた竹田さんだ。彼のおかげで私はこの世界観を受け入れる事が出来た。
彼は三年前、ここで事故を起こして亡くなった。
そして地縛霊となった。
つまり私の前任だ。
しかし。
昨日彼の奥方と、珍しいことに受験生になってあまり来なくなったというお子さんが月命日に来たと思ったら、知らない男を連れていた。
そして。
いつもより大きな花束を置いたと思ったら、泣きながら大切に扱っていたはずの竹田さんの遺骨から作られたメモリアルダイアモンドの指輪を川に投げた。
怖くて竹田さんの表情を見れなかった。
そして、奥さんたちは帰っていった。
男を残して。
彼女達は俺が幸せにしますよ、と言って彼も去っていった。
その時、骨まで凍るような冷たさを感じた。
竹田さんの方を初めて振り返ると、彼はどんどん変貌していった。
奥さんと出会うきっかけでもあったから釣りが好きだったんだと柔らかに笑っていた顔がドロリと溶けて、黒く膨らんだ。
体中が泡のようになって崩れていき、最終的に彼は宙を泳ぐ魚になってしまった。
多分、この感情に飲まれたら私も同じになる。
それは嫌だ。
先程のように明るいことを考えよう。
す、と瞼を撫でる。
二重瞼になった自分の瞼を撫でる。
初めて、自分が好きになった人から告白された。
嬉しかった。
彼が私を好き?
本当に?
舞い上がって
少しでも彼に釣り合いたかった
でも、努力をすればするほどに
彼の心は離れて行った。
どうしたの?
彼が悲しそうにこちらを見た。
なぜ目を背けるの?
どうして?
…私、何かした?
寂しかった。
彼がどんどん離れていって
寂しかった。
もっともっと近づきたかったはずなのに
私は飽きられたのだろうか。
彼はそんな人だったか?
私の好きになった人は、そんな人だったか?
距離を取ろう。
冷静になろう。
そう思った。
でも寂しさはひどくなって。
友人は、そんな私を気にして飲もう! と誘ってくれた
そして私は飲み会と誘われた場所に
この橋にやってきた。
あなたはどこへ行ったのか?
自分にそう問いかける
あの日からずっと
気がついたら夕方になっていた。
目を空けたらオレンジ色の空に、ピンクと紫の雲が浮かんでいた。まだ空の青い部分に、三日月が浮かんでいる。
トトッ
橋の手摺の上を猫が駆けていく。
パッパ―――
クラクションの音が大きく鳴る。
車の通りが多くなった。
確か、この時間帯に竹田さんは亡くなったはずだ。
竹田さんだった魚は大きく身を捩らせながら空を泳いでいた、
その時だ
「父さん!」
声がしたのは
魚が大きく身を震わせた。
竹田さんの、お子さんだ。
道行く人は驚き、脇に逸れる。
一瞬、死んだ竹田さんと私のことが見えているのかと思った。しかし、微妙に竹田さんとの角度がズレている。
刈り上げ頭も、赤い眼鏡も変わっていない。
だが、一昨日と決定的に違うのはその身に纏う物だった。
「父さんあのね!」
光り輝くそれは、アクセサリーなどではない。彼を取り巻くのは宙に浮かぶ、糸だ。
その糸についている球体達は大きさが一つ一つ違い、水草につく泡のようにも、太陽系の周りを回る天体のようにも見えた。
ふわり、とその糸から磯の香りがした。
まるで、竹田さんが家族でもよく行っていたのだという釣りの帰りのように。
「幸せになって、」
膝に手をつき、荒い呼吸になりながら、
「俺たち、幸せになるから! 父さんも!」
彼は言った。
「父さんも! 幸せになって!」
彼が身にまとっていた糸が黒い歪な魚に向かって進んでいく。糸に纏った球体が、魚の周りを糸伝いに幾重にも回転していく。
やがて気がつけば"それ"は魚ではなくなっていた。どんどん身の回りを速く回転していく糸と球体の中で、天然真珠のように虹色に輝きながら自由に形を変えていく。
そしてやがて、天地を裂く光となって消えた。
―――あぁ―――
最後に、竹田さんの声が聞こえた気がした。
竹田さんの息子さんがいなくなり、日はどっぷりと暮れて、深夜になるまで私は動けなかった。
美しかった。
あまりにも美しくて、妬ましくて、悲しくて、狡い光景だった。
いいな、
いいな、
私にも、あんな
手のひらを見た。
悲しいくらい白かった。
でも、指先や手首のあたりが黒く染まり始めていた。
ぐつぐつ
ぐつぐつ
音を立てながら泡立っていく
パタッ
パタパタパタッ
身体が煮崩れて地面に垂れていく。
上を見上げた。
眩い電灯の向こうで、白々しく月がこちらを見ていた。
月に手を伸ばして、白かったはずの手のひらが頬にボタボタと落ちる。
私もきっと、竹田さんのようになるのだろう。
だが、私に救いは来ない。
私はきっとここをさまよい続ける"何か"になって永遠に
「ッ先輩…!」
嘘だと思った。
「先輩…先輩…!!」
振り返る。
彼がいた。
私の、好きな人が。
深夜になったことで、その身に纏う糸はさらにくっきりと輝いて見えた。少し粘ついているようにも見える。糸から、私が以前よく身に着けていた香水の匂いがした。
それを見て、
想っていてくれていたのか?
あなたも私のことが好きだったと自惚れてもいい?
止まっているはずの心臓が温かく鼓動した気がした。
あぁ、どこかで見たことがあると思ったら
過去に空想した、カンダタに差し出された蜘蛛の糸だ。
このタイミングで?
このタイミングで、私は
私のままで、逝―――
「逝かないでください!!」
え
「戻ってきて!」
えぇ?
「死なないで―――病院へ!」
「あなたの身体のもとへ!!」
「あなたは!! まだ生きています!!!」
こちらへ放たれた蜘蛛の糸は慈悲のものではなく、
捕食者のそれだった。
一重瞼に戻った自分の瞼を、そっと撫でる。
"戻った"ばかりの時、むせ返るような花の匂いがした。病院の部屋には、橋に置かれていたものとは比べものにならないほどたくさんの花束があった。意識を失ってから、半年間ずっと絶えず贈られて来たそうだ。
日の光の眩しさと暖かさ。
乾きを覚える喉と水の冷たさ。
彼の目の熱っぽさと手をつなぐ温もり。
退院するまで、入れ代わり立ちかわり人が出入りした。多くの人から、お前は永遠に禁酒だと言われた。
病院から退院してしばらくしても、彼は周りをついてきていた。
たくさん話しをした。
なぜ、あの橋に来たのか。
病院へお見舞いに来た時に、ふと夢を見たのだという。暗い空の下、電灯に白く照らされた私が一瞬で黒く染まり無形の墨汁のようになり、地面に染みていく夢を。
目覚めた時、私が意識を失った時どこにいたのか聞いてここへ来たのだと。
なぜ、離れていったのか。
彼は怖かったそうだ。
化粧を頻繁にするようになったり、服装もガラリと変えたり、香水を変えたり。
終いには顔も変えて。
会えば会うほど、彼が好きになった私がいなくなってしまうように感じたそうだ。
そして、本当にいなくなりそうになって。
初めて素直に自分の思いを言えばよかったと後悔したそうだ。
…だから昔の香水の匂いがしたのか。
嬉しかった。自分の好きなものを、彼も好きで。
私は離れられて感じたことをそのまま伝えた。
彼は無言のままずっと泣いた。
仕方のない人だ。
幸い、瞼は埋没法という抜糸をすればもとに戻せるものだったからもとに戻した。
好んでつけていた香水もつけることにした。
ファッションも、私の好きなものに戻した。
彼はまた泣いた。
彼と共に歩く。
ふと見上げた誰かの家の窓に、昨日の土砂降りで水浸しになった蜘蛛の巣と、反射された月が映っていた。
あの不思議な糸を思い浮かべた。
結局、竹田さんがどうなったのかは知らないし、分からない。
でもそれで良いのだと思う。
だって大事なのは今を生きることだから。
先のことを考えるのも大切だが、今をのびのびと生きよう。
あなたはどこへ行ったのか?
自分にそう問いかけていた
けれど、自分がどこにいるか知ることも大切だ
私は、彼の手をもう少し強めに握った。




