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第八話 修理という名の証拠


朝。


湿気の中に、油と血の匂いが混じっていた。


石切り場の隅に放置された手押し車。


昨日ヴォルグに押し付けられた、壊れた運搬具。


レインはそれを前にしゃがみ込み、しばらく何もせずに眺めていた。


「直せないなら、別の奴に回すぞ」


背後から看守の声。


レインは振り返らずに答える。


「いえ。やります」


軸は曲がり、車輪は歪み、枠はひび割れている。


常識的に考えれば“修理不能”。


だがレインは、まるで計算式を解くように指先で触れた。


(……壊れてるのは、形じゃない。見せ方だ)


金具をわずかに緩め、板を押し出し、角度を変える。


軸を完全に直すことはできない。


けれど「見た目上、回るように見せる」ことは可能だった。


彼は周囲の視線を感じながら、あえてゆっくり作業を続けた。


何も考えていないような、囚人の顔で。


だが、指の動きは正確だった。


(ヴォルグの取り巻きが三人。看守が一人。


見ている角度、距離、光の位置——全部記憶済み)


昼前、レインは立ち上がった。


「できました」


看守が半信半疑で近づく。


レインが手押し車を押すと、


軋む音を立てながらも、確かに動いた。


「おお……動くじゃねえか」


看守の顔に驚きが浮かぶ。


「ちょっと歪んでますけど、使えると思います」


「よくやったな。お前、ほんとに器用だな」


その一言が欲しかった。


レインは深く頭を下げた。


だが、笑ってはいなかった。


(“器用”って言葉が、今日の通行証になる)


ヴォルグたちは遠くでその様子を見ていた。


取り巻きがひそひそと話す。


「マジで直しやがったのか?」


「いや……たぶん、ハッタリだ」


「けど看守が信じたぞ」


ヴォルグは腕を組んだまま、にやりと笑った。


「面白ぇ……。犬のくせに芸が細けぇな」


その後、作業中。


レインはわざと少しずつ“演技”を加えた。


わざと汗を垂らし、息を切らす。


見ている者が「努力してる」と錯覚する動きを繰り返す。


囚人たちはそれを見て、少しずつ目を変えていった。


(同情と軽蔑は紙一重。どっちに転ぶかは、見せ方次第)


夕方。


看守がヴォルグに声をかけるのが見えた。


「お前んとこの囚人、やるな。壊れたもん直してやったぞ」


ヴォルグは少し驚いた表情を見せた。


「へぇ、そうかよ」


(……釣れたな)


噂はすぐに広まった。


“レインは看守に取り入っている”という言葉は、


今度は“看守がレインを利用している”へと変わった。


立場が入れ替わる。


夜。


牢に戻ったレインの隣で、エルドが小声で言った。


「……なんでわざわざあんなことしたんだ」


「修理か?」


「いや、あんな手間のかかる演技までして」


「簡単な話だ。


“誤解”は修正するより、別の誤解で上書きした方が早い」


エルドは息をのんだ。


レインは薄く笑い、壁にもたれかかった。


「噂ってのはな、真実を消す力じゃない。


ただ、方向を変えるだけだ」


牢の外で雨が降り始めた。


石壁を叩く音が、低く、静かに響く。


レインはその音を聞きながら、目を閉じた。


(“犬”はもういない。


今この牢にいるのは、“道具を直せる奴”。


それだけで、明日の立ち位置が変わる)


闇の中、薄く笑みを浮かべた彼の顔は、


誰よりも冷静で、そして——自由だった。


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