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第三話 囁きの価値


夜。


灯りは消え、通路は闇に沈んでいた。


風はなく、湿気だけが残る。


眠りにつける者は少ない。


夢を見る余裕のある囚人など、この場所にはいない。


レインは、寝藁に背を預けながら薄く目を開けていた。


隣の牢から、微かな声がする。


咳。呻き。それに混じって、押し殺した泣き声。


昼に血を拭かされた囚人だ。


まだ生きている。


だが、声の出し方を知らない人間のように不器用だった。


(……ここでは“泣く”のも危険か)


泣けば、看守が来る。


うるさい囚人は、翌朝にはいなくなる。


レインは起き上がらず、声の方向を見た。


「……まだ起きてるか」


小さく囁く。


返事はなかったが、泣き声が止んだ。


「昼間の、お前だろ。血を拭かされた」


暗闇の中で、相手の呼吸が荒くなる。


「……なんで……知ってる」


「見てた」


「……誰だ」


「誰でもない。ただの観察者」


沈黙。


相手は怯えている。


レインは、声の温度を少し落とした。


「聞きたいことがある」


「……なんだ」


「昼の、倒れた男。あれは何があった」


短い間。


その間に、相手が何を思っているかを読む。


恐怖、迷い、そして“ためらい”。


「……あれは、病だ」


「病?」


「他の牢でも出てる。……熱と、咳。夜になると息ができなくなる」


(つまり、疫病か……いや)


レインは目を閉じる。


(違う。そうなら看守が反応してる。放置する理由がない)


「看守は何も言わなかったな」


「見て見ぬふりだ。死んだら別の奴を入れる。そういう場所だ」


その言葉に、レインは小さく笑った。


「なるほど。命が尽きても、席だけは埋めておくわけだ」


囚人は黙り込んだ。


沈黙が落ちる。


レインは声を潜め、あえて冷たく言った。


「名前は」


「……エルド」


「エルド、な。なら覚えとく」


また沈黙。


だが今度は、相手の息が少しだけ落ち着いていた。


(恐怖を落とすのに、優しさはいらない。共通の“冷めた理解”だけで十分だ)


レインは寝藁に横たわりながら、


今聞いた情報を整理した。


——倒れた囚人。病と呼ばれる症状。


——看守は反応しない。


——つまり、“死因が別”ということ。


(毒か……いや、もしくは処分。静かに間引いてるのか)


この牢の中で最も危険なのは、力の強い囚人でも、怒鳴る看守でもない。


“死因を知る人間”だ。


(エルドは知りすぎてる)


だからこそ、生かしておく価値がある。


観察材料として。


「エルド」


「……なんだ」


「明日も同じ場所で働くか」


「たぶん……」


「なら、俺の前を歩け」


「……なんで」


「後ろに立たれるより、前にいてもらう方が安心できる」


短い沈黙。


やがて、小さく息を呑む音。


「……わかった」


レインは薄く笑った。


信頼でも友情でもない。


“従わせるための同意”だ。


その夜、牢の外で鎖が揺れた。


遠くの方で、鉄が軋む音。


新しい囚人が運ばれてきたのだろう。


その音を聞きながら、レインは目を閉じた。


(駒が増えた……なら、盤面も広がる)


闇の中で、詐欺師の目だけがゆっくりと開く。

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