第十話 囁く手
夜。
雨音が鉄格子を叩く音が続いていた。
レインは壁にもたれ、膝を立てながら目を閉じていた。
頭の中で、今日一日の情報を並べ替えていく。
——新入りのグレンはヴォルグの監視下に置かれている。
——看守はヴォルグを黙認している。
——囚人同士の噂は、一晩で牢全体に広がる。
(つまり、言葉がこの牢の“血流”だ)
外では、誰かの咳が響いた。
どの牢も似たような音がする。
だが、耳を澄ませば“反応の違い”がわかる。
声をかける者、黙って寝返る者、祈る者。
レインは目を開けた。
(声を出す奴ほど、心が揺れてる)
翌朝。
点呼が終わると同時に、ヴォルグの取り巻きが二人、
レインの方へ近づいてきた。
「よぉ、器用屋。昨日の修理、評判になってるぜ」
レインは淡々と答える。
「評判なんてどうでもいい。役に立つかどうかが問題だ」
「冷てぇな」
取り巻きは笑って離れたが、
その背中にグレンの目が向けられていた。
昼の労役。
昼の労役が終盤に差しかかっていた。
雨の合間、看守が持ち場を離れた隙に、
グレンが隣の作業台に石を積みながら低く囁いた。
「……お前、まさか最初から狙ってたのか」
レインは手を止めずに答える。
「狙ってたというより、読んでた。
——この牢の奴らは“誰かを疑ってないと安心できない”。
なら、疑いの矛先を選んでやるだけだ」
「……お前が一番怖ぇよ」
「違うさ。
俺はただ、“嘘がどこまで通用するか”試してるだけだ」
そこまで言ったところで、
遠くから看守の鞭の音が響いた。
「おい! 口動かす前に手を動かせ!」
二人は反射的に黙り、再び石を運ぶふりをする。
しばらくして看守が通り過ぎ、
重たい靴音が遠ざかったあと——
グレンが小さく息を吐いた。
「……やっぱお前、普通じゃねぇな」
レインはわずかに笑った。
「普通で生き残れる場所なら、こんなとこ来てない」
雨でぬかるんだ足場の上、グレンが石を運びながら小声で言う。
「……動き出すなら、今がいい」
「動く?」
「ヴォルグの連中、昨夜からイラついてる。
誰かが“上に報告してる”って噂が出てる」
レインは作業の手を止めなかった。
「誰が流した?」
「さぁな。でも、今なら一言で全員の目を別に向けられる」
レインは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「お前、勘がいいな」
「盗人は、気配の変化で食ってるからな」
「なら、ひとつ頼む。
——“俺が密告してる”って噂、もう少しだけ広げてこい」
グレンが一瞬、目を見開いた。
「……は?」
「勘違いのままにしておけ。焦らせた方がいい」
「わざわざ自分から燃やすのか?」
「燃やさなきゃ煙は出ない。
煙が出れば、風の向きがわかる」
グレンは笑った。
「お前、頭おかしいな」
「よく言われる」
午後。
作業場の端で、ヴォルグの取り巻きが何やら騒ぎ始めた。
誰かが“密告者”の名前を囁いたらしい。
やがて視線が一点に集まる。
その先には、全く別の男——老囚人のラズがいた。
(いい風だ)
レインは表情を変えず、静かに石を積み上げる。
風向きは変わった。
今、監獄全体が“真犯人探し”の空気に包まれた。
静寂が落ちた。
闇の中で、囚人たちの寝息が重なり合う。
時折、鉄の鎖が小さく鳴り、どこかの牢から呻き声が漏れた。
レインは壁に背を預け、目を閉じていた。
遠くの通路で、看守の靴音が響く。
乾いた金属音が、ゆっくりと近づいて、また遠ざかっていく。
(……これでヴォルグは疑心を抱いた。
看守は混乱を避けて一時的に情報を絞る。
“閉ざす”って行為ほど、外に抜け道を作るもんだ)
雨の音が弱まっていた。
風が鉄格子を通り抜け、湿った空気が頬を撫でる。
(次に必要なのは、混乱の中で生まれる“信頼”の形だ)
——“信用”は作れない。
——だが、“必要とされる存在”にはなれる。
口元がわずかに緩む。
(嘘の次は、約束だ)
そのとき、低く掠れた声が暗闇の奥から響いた。
「……何を考えてる」
レインはゆっくり目を開ける。
隣の牢、鉄格子の向こう。
エルドがこちらを見ていた。
顔の半分は影に沈み、もう半分だけが微かな光に照らされている。
「お前……起きてたのか」
「眠れねぇよ。あんた、ずっと独り言みたいに顔動かしてた」
レインは少しだけ笑った。
「考え事だよ」
「何を」
「人間の動かし方」
エルドは眉をひそめた。
「動かす? まるで道具みたいに言うな」
「道具だよ」
レインは静かに言った。
「ここじゃ、力も名前も意味がない。
価値があるのは“動く意志”だけだ。
だったら、それをどう使うかが生き方になる」
しばしの沈黙。
やがてエルドは、かすかに鼻で笑った。
「……怖いな。お前、本当に人間か?」
「少なくとも、ここにいる中じゃいちばん人間らしいだろ」
「どういう意味だ」
「人間は、嘘をつく生き物だ」
エルドは返す言葉を失ったように黙り込んだ。
レインは再び壁にもたれ、薄く目を閉じる。
その横顔に、冷たくも確かな静けさが宿っていた。
外では雨がやみ、代わりに低い雷鳴が遠くで鳴った。
鉄格子の隙間を一筋の光がかすめる。
エルドはそれを見つめながら、
小さく呟いた。
「……あんた、きっとここを出るな」
レインは答えなかった。
だが、その唇の端には、確かに笑みが浮かんでいた。




