貴妃跋扈(3)
平氏は一命を取り留めたものの、隠し持っていた猛毒の鶴項紅を自らに使った。それに気づいた御医や医女が吐き出させたが、毒が早く周ってしまい彼女は助からなかった。
「無能なわたくしめを罰してください」
御医が嗚咽混じりに言った。そして何度も額を石畳に擦った。
「御医、あなたに罪はないわ。それより、閔尚宮は?まさか、主人の後を追う様なことは……」
「医女に監視させています。幸い手足には問題はありませんが、長期間の療養は必要でしょう」
「分かったわ。御医、あなたを罰しないようにこなたから陛下に伝えます。下がりなさい」
「寛大なお心に感謝いたします!」
御医は額を血だらけにしながら立ち上がると元妃に深々と礼をした。そして御医は医女らを連れてよろけながら内医院の方へと消えていった。元妃は御医の背中を目で追いながら、徐尚宮に言う。
「貴妃がいるだけで毎年のように死人が出るわ。なぜ、このような残忍な貴妃を陛下はのさばらせておくのかしら……」
「元妃様、陛下は第1皇子様を重視しておられます。いずれ太子に……そう考ておられました。ですが、貴妃様のご実家には力はありませんから、寵愛にすがるしかありません。対抗馬が現れたら良いのですが」
すると元妃はため息をついた。
「貴妃は対抗馬をつぎつぎと潰してきたのよ?それを見てきたから劉妃も皇甫妃も怯えている……枯れない花などないのに、貴妃だけはずっと咲き誇っているなんて。天は無慈悲だわ」
徐尚宮は元妃の言葉を聞いて胸が苦しくなった。ただの尚宮が介入して解決できる問題ではない。尚宮たちは皇族からしたら無力な存在でしかないのである。
「金妃様は?金妃様は新羅の姫君です」
「新羅は斜陽の国よ。それに金妃は気が強いだけで浅はか。平氏の二の舞になるのは目に見えている……徐尚宮、気持ちを落ち着かせたいから中宮で休んでから、少し遠回りをして陛下の元に行きましょう」
「かしこまりました」
元妃はまたため息をした。気持ちが落ち着かないのは梨花も同じだった。目をつぶれば平氏の無惨な姿が目に浮かんできて、恐怖が脳裏に焼き付けられそうであった。
素心が心配そうに顔を覗き込んでは話しかけてきたが、全く耳に入らなかった。そして清蓉夫人の伝言の重みを感じるのだった。
寝所に素心とは別の宮女が現れた。彼女は湯浴みの支度が出来たと告げると静かに踵を返した。梨花はゆっくりと立ち上がると放心状態のまま湯殿へと向かった。各住居にある湯殿は大きな桶に湯を張っただけの簡素なものである。そこに邪気祓いの桃の枝やバラの花びらなどを浮かばせていた。
髪を濡れないように結い上げて、浴衣姿になった梨花はゆっくりと湯に浸かる。本当は洗髪をしたかったが、どこか億劫になっていた。
湯に浸かれば体は温まるのに恐怖に支配された心までは温まらなかった。梨花は微動だにせず湯に浸かっている。傍で控えていた素心は心配になり、衝立の隙間から彼女を見つめた。梨花はずっと瞼を閉じている。
「大丈夫かしら……ご気分が悪いのかしら」
素心は意を決して彼女の元に向かった。
「宮嬪様」
彼女が声をかけると、梨花はようやく瞼を動かした。
「素心、私……怖いの」
「福綏堂の方のことですか?」
「ええ。皇子の生母でも惨たらしい姿になってしまうのが……いえ、后妃同士の醜い争いが怖いのかも」
梨花は湯を両手ですくって顔を洗った。化粧が落ちているのに梨花は美しいままであった。きめ細やかな肌は白玉のようであった。素心は三国時代の魏国の美女・甄宓だと感じた。甄宓は「顏は花の如く、肌は玉の如し」と伝えらる美女であった。しかし、彼女は非業のしを迎えていたから素心は口に出さなかった。
梨花は湯から出ると浴衣から着替えて寝巻き姿になった。そして結い上げた髪を解いた。
「夕餉はどうなさいますか?お粥を用意させますか?」
「何も食べたくないの」
「劉妃様からいただいたワカメがございます。ワカメ粥はいかがですか?」
劉妃は皇帝の第3妃である。忠州の豪族・劉競達の娘であり、子沢山の后妃でもあった。淑やかであり、言葉数も少ない彼女は尚宮や内侍といった宮人からも好かれていた。
ただ、あまりにも寡黙なために貴妃からは無愛想と言いがかりをつけられてしまうために引きこもりがちではあった。
「劉妃様のお気持ちは蔑ろにはできないわね。お粥にしましょう」
「すぐに支度をいたします」
素心はそう言って頭を下げると部屋を後にした。入れ違いに見慣れない宮女が現れた。彼女は無表情でまるでお面のようだった。
「どちらの宮女かしら?」
「明福宮の宮女、松伊でございます」
「もしかして、皇甫妃様の?」
「さようでございます。宮嬪様に皇甫妃様から百合の花茶をお届けするように仰せつかっています」
そういうと松伊は控えていた宮女に目配せをした。すると宮女は茶壺を梨花に差し出した。
「お気持ちが安らぐと良いですね。では、失礼いたします」
淡々とそう述べると松伊は出て行った。梨花は差し出された茶壺を厨房に届けるように宮女へ命じた。宮女は小さく返事をすると部屋を後にした。
「皇甫妃……確か黄州の方よね……劉妃様と同等の返礼品の方が良いのかしら?」
皇甫妃は皇帝の第4妃である。出身は黄州だ。彼女も豪族の娘であり、また皇帝が即位する前からの妻であった。
彼女も皇子の母であるが、貴妃のように残忍なことはしない。彼女は優しい性格だったし、貴妃がいるため出過ぎた真似はできなかった。
「素心、素心はいる?」
梨花が部屋の外に呼びかけると慌てた様子の素心が現れた。
「いかがなさいましたか?」
「劉妃様と皇甫妃様から贈り物をいただいたの。返礼をしたいのだけれど、何がよいのか分からないの」
「さようでございましたか。そうですね……確か、宮嬪様のお荷物に紅参が入っていたのでそれを返礼になされば良いかと存じます」
紅参とは高麗人参のことである。滋養強壮によい食材であり、古来より重宝されてきた。
「ワカメも百合の花茶も……劉妃様と皇甫妃様は少し変わっているのね」
「劉妃様も皇甫妃様も金品や宝石には興味がございません。先程、厨房に来た宮女によれば、百合の花茶は入内したばかりの宮嬪全員に届けているそうです」
「福綏堂の件で?」
「多分……」
確かにあの光景を見聞きしたら誰しもが心落ち着かない。特に入内したばかりの宮嬪からしたら強い衝撃を受けたに違いない。百合の花茶は精神を落ち着かせる効果と寝付きを良くする効果があった。梨花はそこに皇甫妃の気遣いを感じる。こういう日にぐっすり眠るのは至難の業であるし、眠ったら悪夢を見そうであった。だが、梨花は平氏の最期は知らなかった。平氏の最期は一部の人間だけに共有された後に元妃が命じて箝口令が敷かれた。何故なら彼女の最期は哀れと簡単には片付けられないものであった。
皇帝・王建の宮に元妃の来訪を知らせる内侍の声が響いた。 宮人たちは彼女が来た理由を知っていたから、どう国王が対応するのか気になっていた。元妃が国王の私室の前までやって来ると、扉の前で控えていた朴尚膳が皇帝に取次ぎをした。
「陛下、元妃様がお越しです」
「通せ」
朴尚膳は扉を開いた。元妃は彼に小さく頭を下げると国王の傍に歩み寄った。皇帝は背もたれのついた椅子に腰をかけながら書物に視線を落としている。それが元妃には素っ気なく感じたが、これはいつもの事である。
「陛下、もう耳に入っていると思いますが……御医に罪はございません」
「分かっている。だが、平氏のことは残念であった。死者は蘇らせないが、位を与えることはできる」
「それだけでございますか?」
「貴妃を追い出したいのか?」
そこでようやく皇帝は元妃に顔を向けた。泣き続けていたのか瞼は腫れている。元妃は皇帝の平氏に注いだ愛が深いものだったと感じた。元妃はこういう姿を自分だけに見せてくれる度に信頼と優越感を覚えていた。しかし、それを口走ってしまったら、自分は下品な女に成り下がると感じていた。貴妃という反面教師がいる以上、自分は慎みのある「妃」として振るわなければならないと心に決めていた。
「追い出すなど、自重してもらいだけです」
「皇子の生母を追い出せば何と言われるか分からない。多憐君をはじめとする羅州の豪族らも反発するだろう。ようやく国の形が出来たのだ。ここで何かあれば一水の泡になってしまう。聡明な元妃なら分かるだろ?」
元妃は数回、頷いた。
「では、処分は?」
「……」
「壽命皇子はどうなさいますか?」
「このまま、奉善堂で育てる。管理は元妃がせよ」
「え……」
「これが貴妃への処分である」
元妃は皇帝が奉善堂の管理を貴妃から自分に変えたことに驚いた。この処分は貴妃にとっては微々たるものだが、元妃は嫡妻として子を育てる義務をようやく果たすことが出来ることになった。つまり、第1皇子の養育に元妃も携わることができるのである。
紅参ってあまり調べずに出してしまいましたが、虚弱体質なので飲んでみたいものです。
百合の花茶はT〇MUにありまして……なんとなく効能や効果を調べたら、まあ!これは使えるわ!となりました。
国王に貴妃の位はアンバランスかと思ったので皇帝に変えました。