貴妃跋扈(1)
「宮嬪様、お声がもれていましたよ。後宮には壁にも天井にも耳があります。お気をつけください」
朴尚膳に言われて梨花は「しまった!」っと思わず表情に出してしまった。それを見ても朴尚膳は張り付いたような笑みを浮かべている。
「尚膳、わたくしか迂闊でした。もう余計なことは……」
「分かってくださると思ったのでお話したのです。物分りの良い宮嬪様で助かりました」
尚膳は演技ががったような口ぶりで言った。梨花は他の后妃にも同じことを何回も言っていたのだろうと勘ぐった。あまりにも不自然すぎるくらいに言葉が出てきて、なおかつ滑らかなのである。事前に頭の中に言葉がなければ口にするのは難しい。
これは梨花が勘ぐった通り、尚膳が何度も何度も后妃たちに言っていた言葉であった。内侍は口が上手く、気が利かないと務まらないと朴尚膳は師匠から教え込まれていた。だから、国王や后妃を気持ちよくさせる言葉や会話をよく知っていた。内侍の最高位である尚膳という地位にいるだけあって、朴尚膳の言葉はみな心地よいものばかりである。認めつつ、否定せず、賛美は忘れず。尚膳は後宮での立ち振る舞いを弁えていた。
「ところで……」
梨花が口を開くと朴尚膳は同伴してきた内侍から宝石箱を受け取った。そして、それを梨花の目の前で開いた。中には鮮やかな色をした珊瑚を使った簪が丁重に納まっていた。珊瑚は楕円に加工されており、その周りには枝葉を象った銀が細工されている。
「宮嬪様にお似合いですよ。陛下から入内をお祝いしたお品物でございます」
「陛下から!」
思わず声がうわずる。
「素心、すぐに宝庫にしまってちょうだい」
素心が宝石箱に手を伸ばすと、朴尚膳はやんわりとそれを拒んだ。
「まずは手に取ってくださいませ」
梨花は震える手で宝石箱から簪を取り出した。銀の重さが手に伝わる。それと同時に金属の冷たさも伝わってきた。この冷たさが梨花には皇帝の心ではないかと感じた。
華やかな装飾は感情を表すものではなく、形式的ものであり、自分に対して真心もなければ愛もないのだと梨花は思うのであった。
「これは夜伽の時にでもつけますわ……素心、しまって」
「かしこまりました」
梨花が簪を宝石箱にしまうのを見計らって素心はそれを受け取った。朴尚膳はそれが目的だったのか、満足した顔を見せる。それは張り付いたような笑みではなかった。その刹那、尚膳は素心と内侍に目配せをする。
素心と内侍は部屋から後ずさりして出て行った。梨花は傍にあった丸椅子を尚膳にすすめた。最初は断っていたが、3度目で尚膳は腰を下ろした。
「尚膳、何かお話でも?」
「清蓉夫人からの伝言を預かってきました」
梨花の感情の波が大きくうねりだす。彼女は平然を装って尚膳からの言葉を待った。
「陛下に必ず気に入られるように……っと」
「それだけですか?」
「さようです」
朴尚膳はどういう立場で清蓉夫人の伝言を預かってきたのかは分からなかった。しかし、自分が彼女の操り人形であることを思い出させるには強烈な伝言だった。梨花はどこか浮かれていたことに気付かされた思いでもあった。
「宮嬪様、ご自愛ください。それと、福綏堂には近寄らないように……」
そう言うと朴尚膳は丸椅子から立ち上がり、梨花に会釈をして部屋を後にする。梨花の心の波はまだうねっている。冷めた茶が目に入ってきた。彼女はそれを思いっきり口に含み、飲み込んだ。そこに素心が慌てて入ってきた。
「宮嬪様?尚膳様から何を?」
「何も……大丈夫。尚膳からいい話を聞けたの」
「いい話?」
「しばらくは福綏堂の話は忘れるわ」
それを聞いた素心は安堵したのか、小さく息を吐いた。しかし、梨花は尚膳の忠告でそれを忘れるような性格ではなかった。いつかは福綏堂の主人に会いたい、会いに行くと目論んでいた。
「ところで、南の棟には誰が住んでいるの?」
「孝琳宮嬪と笑香宮嬪でございます。孝琳宮嬪は昨日、入内されています。挨拶にうかがいますか?」
「挨拶ならたくさんされたはずよ。落ち着いた時にでもうかがうわ。それに金品をたくさん贈られただろうし。かわりにお菓子を届けて。お礼は不要よ」
「かしこまりました。宮嬪様、お疲れ様ですか?」
梨花は卓にもたれた。何も考えない時間が欲しいと思ったのは今日が初めてであった。
「大丈夫よ。今日はもう何もないわよね?」
「そうですが……」
「湯浴みの支度を」
「夜伽の知らせは届いていませんが……」
「体が冷えたの」
「……承知いたしました」
素心は慌てて部屋から出て行った。まだ、日が高いから湯浴みの支度を今していれば夕方には体が清められる。
体を清めるだけではく、加髢を外して洗髪もしたい気分だった。信州から開京に赴く際に温泉を賜っていたが、それからはゆっくり湯浴みは出来ていなかった。梨花は何もかもを洗い流したい気持ちに駆られていた。
彼女はゆっくりと立ち上がると寝所へと向かった。おもむろに鏡台の前に腰を下ろす。そして鏡をのぞきこんだ。鏡に映った顔は疲労の色など見えなかった。まだ美しい顔がある。しかし、不安が生まれた。
私は陛下に気に入られるかしら……?
でも……気に入られても、所詮は清蓉夫人の駒でしかない……
そして誰の手も借りずに装飾品を一つ一つ外していった。それは衝動性に近いものがあった。菱形の簪、真珠が付いたの簪、小ぶりの翡翠が揺れる耳飾りを手早く外していく。そして首の負担になっていた黒々とした艶のある加髢を慣れない手つきで取る。すると頭は急に軽くなり、首も楽になった。首を左右に曲げながら、自由に動く首や頭に梨花は解放感を覚えた。これだけで加髢がどれだけ重かったのかがわかる。
髪は雲のように、それが美女の条件の1つである。
梨花は結い上げていた髪も解き、柘植で作られた櫛で髪を梳いた。彼女は湯浴みが終わったら眠るつもりでいたのだ。今日は誰にも会わないつもりでいた。それに挨拶を受けるのは明日だから、一介の宮嬪をわざわざ訪ねる后妃はいないはずだと考えていたのである。
そこに素心が現れた。梨花を見るなり、彼女に小走りで近寄り髪を束ねて括った。下ろした髪が素心には無造作に見えたらしい。
「やはり、お疲れなのですよ」
「そう?私は全く疲れてはいないのだけれど。正直、とても落ち着かないの」
「湯浴みの支度が終わるまで、しばらく寝台でお休みください。気分が落ち着く薬湯でも?」
素心の言葉に梨花は首を横に振った。
「大丈夫。休む気持ちになれないの。正直、自分でもよく分からない気持ちなの。素心、朴尚膳は……誰の味方なの?」
すると素心は小声で答える。
「貴妃様に媚びる宮人たちが多くいます。ただ、尚膳様は線を引いて接しているような気がします。わたくしめにはそれが不気味なのです」
「なぜ?」
「新羅から嫁いできた金妃様にはお優しいので……」
「気のせいよ。内侍はどこかで忠誠を誓っている主人がいるものよ」
素心と話していると、そこに柔和な笑みを浮かべた宮嬪が現れた。桃色の着物が春の日差しのようで、優しい雰囲気を醸し出している。その宮嬪に着物は良く似合っていた。しかし梨花は誰だか分からず訝しげな表情をする。すかさず素心が耳打ちする。
「孝琳宮嬪です」
孝琳はその様子を静かに見つけめていた。
「お邪魔だったかしら?お菓子のお礼をしにきたの」
梨花は立ち上がると彼女に向かって頭を下げた。
「お礼は不要とお伝えしましたが……」
頭を上げると同時に梨花がそう言うと、孝琳は落ち着いた声で話し出した。
「心無い挨拶と金品で気が滅入っていたから、お菓子が嬉しかったの」
「そうでしたか……気に入ったなら折を見てまた届けさせます」
孝琳が小さく笑うと梨花もつられて笑った。それを見た孝琳は袖で口元を隠して言った。
「ようやく笑ったんじゃない?」
言われてみればそうである。梨花は後宮に来てから一度も笑っていなかった。素心も安尚宮も朴尚膳もどこか心が許せなかった。優しい口調で話すが、主人と配下の関係は変わらない。
「孝琳宮嬪?」
「私もそうだったのよ。あら、あなたもう髪を解いたの?もう休むなら長居できないわね」
「そう仰らずに……」
梨花は孝琳を引き止めた。しかし、孝琳は首を小さく横に振る。
「お話なら後でしましょう」
そう言うと孝琳はゆっくりと踵を返した。梨花は一礼をして彼女を見送った。部屋の入口まで見送ると外が何やら騒がしいことに気づいた。宮人たちの悲鳴に近い声も風に乗って聞こえてきた。さすがに梨花は不安になってしまう。
「素心、外が騒がしいわ。孝琳宮嬪は大丈夫かしら……」
「内侍に様子を……」
そこに配下の内侍が飛び込んできた。尋常ではない様子である。
「何があったの?」
「貴妃様が、貴妃様が……」
梨花は思わず雪花院の外に出た。するとそこにはアザだらけで倒れている女がいた。身なりからして后妃である。側仕えの尚宮も倒れている。あまりにも惨い姿に梨花は言葉を失った。
2人に冷たい視線を送り、尚且つ見下すように見つめている女が側に立っていた。梨花は直感でこの女が「貴妃」だと分かった。
高麗嬪の記述があったので宮嬪という位号を使いました。宮嬪はベトナムの後宮で使われていましたが、高麗ではわかりません。あくまでも想像です。
孝琳は「宮廷の諍い女」の沈眉荘みたいなイメージにしたかったのですが……
金妃に称号を与えたいですが、淑妃、徳妃、賢妃の他に何かありますでしょうか。
恵妃、華妃、麗妃?これは玄宗皇帝の時代だね。
王建には中国人説もありますし、莊和王后も中国から帰化したとWikipediaに載っていたので……ありっちゃ、あり?だと思いました。