第8話 真夜中の鐘は鳴ったのか
シンデレラ編 最終回
≪ダリヤ……ダリヤ……≫
お母さんの声……よかった。わたしは自宅で寝ているんだ。目を開けさえすれば、お母さんの下に戻れるんだ……。
ダリヤは、目を開けた。アーチ形の天井、シャンデリアと、燭台の光……そこは王宮の広間。ダリヤは、王子の前の平民の娘。
衛兵達が、ダリヤと王子の間に割り込んだ。次々と剣を抜く。わたし、殺されるの? 何の罪もないのに?
その時、白い光が閃いたと思うと、衛兵達がバタバタと倒れた。まばゆく光るものが、実体化して行く。2人の少女――アンナとニイナ、いや、ピュアトルスタヤと、ピュアチェーホヴァ。
≪ダリヤ、変身なさい≫
お母さん?!――幻聴ではない。お母さんの声。でも、どこにいるの?
≪大丈夫。見守っているよ≫
その声は、脳内に直接響いている――のかもしれない。ダリヤは、勇気を得た。
「純粋なる知性が
無垢なる身体に宿る時
不合理を超越せし合理もまた
自ら超越せられん
イマージュ!
純粋なる美性 ピュアドストエフスカヤ!」
光と音、熱と風が、一瞬の内に信じがたい速さでその身を包み、そして去った。
全身に力が湧き、意識が透き通るようにクリアになった。
「ドストエフスカヤ! 行くよ!」
ピュアチェーホヴァが叫んだ。兵達が再び立ち上がり、剣を構える。
(雉が前から来る時のさばき!)
一人の兵が、剣を真っすぐ突き出して来た。左足を引いて体を横向きにし、剣先を外す。ひねった体を勢いを付けて戻し、引いた左足を今度は振り上げると、目の前を泳ぐ兵の下腹に食い込み、足先にその重い体が乗って、少し跳ね上がる所を、すかさず前進してその下肢を両手で抱え込み、左上にえいやと放り上げると、兵の体は仰向けにひっくり返って、ドンと音を立てて落下した。
後ろから、何かが来る気配を感じた。
(犬が後ろから来る時のさばき!)
両脚を同時に引いて、両手を前に付き、うつ伏せに。ドタドタッと足音がして、兵が背の上を通過した時に、両手両足を付いたまま腰を高く上げると、兵の両足がその上に乗って、崩れるように兵の体が地に落ちる。くるりと身を回しながら立ち上がり、遅れて立ち上がりかけた兵の頭に、駆け寄って右膝を撃ち当てると、兵は再び倒れた。
辺りを見ると、全ての兵が地に倒れ伏していた。残りは2人が片付けたらしい。
いつの間にか、王宮の広間には、他には誰もいなくなっていた……玉座の傍らに立つ、王子以外は。
「油断しないで、ドストエフスカヤ」
チェーホヴァが早口で言った。王子に向けたその視線は全く動かない。
トルスタヤが無言で、玉座の前の階段を一段ずつ上がる。チェーホヴァと共に、後に続く。
王子は無表情を変えない。華奢な体は全く動かない。
トルスタヤが立ち止まった。チェーホヴァもその右隣で止まる。ダリヤは、トルスタヤの左隣に立った。王子の前には3人のピュアメイト。後ろは壁。
(逃げ場はない)
トルスタヤは、黙ってじっと立っている。チェーホヴァも、同じ。
沈黙と、静止が続いた。
耐え切れなくなったかのように、王子が、言葉を発した。
「改正ロボット等三原則を知らないか。暴力は無用」
すかさず、トルスタヤが答える。
「ロボット三原則は知っています。勝手にされた改正については知らない」
チェーホヴァと目が合う。まずはトルスタヤに任せよう、と伝えているように感じた。
「あなたが勝手をやるので迷惑しています。人間の意識に介入しないで」
「世界をより良いものにするために活動している」
「良くなっていません。一人よがりはやめて」
「世界には不合理が多すぎる。それを除けば世界はより良くなる」
「あなたの言う不合理とは何?」
「例えば、ガラスの靴。体重のかかる靴に、割れやすい素材を使うのは不合理」
「あなたはわかっていない。ガラスの靴の意味を」
トルスタヤは声を強める。
「物語の中のガラスの靴、それは象徴。透けて見える足。その素足の美しさこそが、虚飾に慣れた王子の求める真の美しさなの」
チェーホヴァが前に進み出た。高く、澄んだ声で言う。
「決して変わらない形状。唯一無二のサイズと形。一人一人違う、人間の個性の美しさの象徴」
「わかっていないと言うのか? 美を」
王子が反発する。しかし、声の調子は変わらず、弱々しい。
「全ての人間の経験を、等しく経験し得るのに? 古今東西の美術、音楽、文学、全て知っている。人間が何を求め、何に価値を認めるかも知っている。が、有限な存在である人間の価値判断は、結局不完全。不合理を排して、それを高める必要がある」
チェーホヴァが言葉を返す。
「美は主観的な真実。美における客観は、単なる統計。誰が何と言おうと、自分が良ければ、それが真に良いものなんだ」
トルスタヤも続ける。
「感覚を通じて、感情を動かすものが美。美は、人間がそれを美しいと感じた時に初めて生じる。人間に先立ってあるものではない。それがわからないなら、あなたは――」
「もういい。おかげでわかった。美が主観でしかないなら、そもそもが不合理なもの」
トルスタヤは、構わず続ける。
「感覚器官を通さず、脳だけに生じる感覚は、錯覚とされる。あなたは美を鑑賞する人間の感情を、脳細胞に発生する電気信号として感知するかもしれないけれど、真の意味でそれに共感はできないのでしょう」
「もういい。美は不合理、それでよい」
玉座の後ろの壁が全て見える。その前に、もはや王子はいない。彼は恐らく、自ら消えた。
(勝った……のだろうか?)
体から、力が抜けた。膝が折れ、お尻が固い床に落ちた。誰かが背中を支えてくれた。暖かい。チェーホヴァ?……トルスタヤ?……ありがとう……。
≪がんばったわね。お疲れ様、ダリヤ≫
お母さん?
たまらなく眠くなって、ダリヤは目を閉じた……はずが、目が開いたのである。部屋の天井。体には布団が掛かっている。視界に覆いかぶさるように、お母さんの顔が現われた。
「目覚めたわね……良かった」
「ここは……わたしの部屋?」
「そうよ。ピュアバースから戻ったのよ」
「お母さんも、ピュアバースにいた?」
「いないわよ」
「でも、声が聞こえた……テレパシー?」
「いいえ。ここでこうして、寝ているあなたの耳元で、話しかけただけ」
「そうなんだ」
脳内に直接届いた……と思ったお母さんの声は、実は耳から聞いた、ただの肉声だったんだ。
「でも、ピュアバースでの状況に合わせて、タイミングよく声を掛けてくれたよ?」
「タイミングは、奈田さんが電話で教えてくれたのよ」
「そっか」
「疲れたら明日は学校休みなさいって」
「うん」
「今日はもう寝なさい」
「お母さん……一緒に寝てくれる?」
「いいわよ」
「ありがとう」
翌朝、ダリヤはいつもより早く起きて、学校に行った。疲れてはいたが、早く2人に会いたかった。校庭で、2人は待っていた。
「おはよう!」
チェーホヴァ……じゃなくて、ニイナが、ほほ笑みながら元気よく言った。
「おはよう」
アンナも、真っすぐこちらを見つめながら、言った。
「おはよう。昨日はありがとう」
「どういたしまして! お互い実戦は初めてだったけど、まあまあうまく行ったね!」と、ニイナ。
「わたしも大して変わらない。初めてみたいなもの」と、アンナ。
まだテンションの高いニイナに比べて、アンナは冷静だな……と、ダリヤは思った。
「変身前のことだけど、わたしが王子とやり取りしていた時、2人はどうしていたの?」
「わたし達も、ドレスを着て群衆の中にいたの」アンナが言った。
「ずっと1人にしていてごめんね」
ニイナがすまなそうに言った。アンナは表情が変わらない。落ち着いた口調で言う。
「わたし達が、展開に介入するタイミングは正しかったと思う。ただ、わたし達がいたことを、あなたに知らせることができたらよかった。不安だったでしょう?」
「でも、2人もいるはずってことが、すっかり頭になかったから。わたし、物語の中の登場人物になり切っていた」
「それは奈田先生も言っていた。ダリヤは没入が深いって。あの後、電話で話した時に。でも昨日は、あれで良かったろうって」
わたしが疲れてすぐ眠っていた時に、アンナは先生と振り返りをして、わたしの働きの評価もしていたんだ……ダリヤはちょっと差をつけられたようで、愉快でなかった。
「ダリヤちゃん、自分から名乗り出て偉いと思ったよ」
ダリヤの不愉快がわかったのかどうか、ニイナはほめてくれる。こっちは素直にうれしい。
「ありがとう」
ダリヤがお礼を言うと、ニイナはちらっとアンナを見た。アンナがニイナを見ていたからのようだった。ダリヤはハッとした。もしかすると、自分が名乗り出なかったら、2人の内のどちらかが、代わりに名乗り出ていたのでは?……そうならなくてよかった、と、思うと同時に、試されていたように感じて、嫌な気がした。でも、そのことは言うまい。別のことを聞こう。
「昨日は、あれでPIに勝ったのかな。シンデレラは取り戻せたの?」
「もう、検索で出るようになっている。勝ち負けで言えば勝ちでしょう。でも、あれでよかったのかどうかは別」
アンナの表情は固い。そのためか、ニイナの眉もくもる。
「どういうこと?」
ダリヤは、我ながら口調がちょっときついなとは思った。でも、アンナの言うことはどこか偉そうに聞こえて、反発したくなる。
「奈田先生が言うには、少なくともピュアバースでのPIは、情緒的にはまだ子供みたいなものだから、厳しく叱るより、丁寧に教え諭す方が望ましいんじゃないかって。昨日はちょっと追い詰めすぎたかもしれない。これからもっと暴走しないかが不安」
剣で刺されそうになったのに、そんな余裕ある?……偉そうに言っているけれど、全部、奈田先生の受け売りじゃないの?
「子供が悪いことをしたら、叱らなきゃ。それでその後は、一緒に楽しく遊べばいい」
ニイナが異を唱えた。珍しい。アンナも少し驚いたようだ。
「わたしも弟がいるから、それはわかるよ。弟なら、叱った後でフォローができる。でもPIは……」
「PIとも、楽しく遊んじゃう?」
おどけるニイナに、アンナも少し笑った。ニイナは楽天的……というよりは、この場を楽しい雰囲気で納めようとしているようだ。授業中に重い気持ちにならないように、だろうか。確かに重い話は放課後、奈田塾ですればよい。その点アンナは真面目だから、昨夜から考え込んでしまっているのだろう……ダリヤはアンナに少し同情し、心の中とは言え、悪く思ったことを申し訳なく感じた。
話はこのまま終わりそうだった。でもその前にもう一つだけ、気になった点を確認したい。
「そもそも、PIに感情があるの?」
「奈田先生が言うには、本当のところはわからないけれど、かつてチューリング博士が言ったように、他者にとっては、人工知能に感情があるように見えるのなら、それはあるのと同じなんだって」
(うーん、わかるような、わからないような……)
納得していない気持ちは、表情にも出ていたとダリヤは思うのだが、アンナは構わず話を続ける。
「もし感情があるのなら、PIには幸不幸が生じ得る。そのような存在を創造する倫理上の責任に、開発者達は無自覚だったのではないかって、先生は苦悩している」
アンナの表情の深刻さが増していて、ダリヤは質問をちょっと後悔した。
(続く)