第6話 カボチャの馬車に乗る娘
シンデレラ編 第二回
夜、ダリヤは布団に入った。上には消えたばかりの電灯がぼんやりと見える。目が暗闇に慣れて来ると、他にも室内にあるものがぼんやりと見え出した。ダリヤは昼間のことを考える。映画、お母さん、アンナ、ニイナ……思いは千々に乱れ、考えはまとまらない。もう眠い……ダリヤは目を閉じた。
その瞬間、目の前がパッと明るくなった。驚いて目を開くと、室内は暗い。目を配り、首を回して辺りを見ても、何も変わったことはなく、光を放つものはない。電灯もぼんやりとしたまま。
「夢だったの?」
何だろうとは思いつつも、危機感はない。まだ眠くてたまらない。ダリヤは再び目を閉じた。
目の前が、白い光に覆われた。
ダリヤは目を開け、上半身を起こした。電灯を点け、立って室内を見回した。何も異常はない。電灯を見つめる。この光ではない。
ダリヤは布団に戻り、灯りを消した。あの光はわたしの外にはない。わたしの内側で発生している。目を閉じよ……これは異常事態、気をつけよ、と、頭では考えるものの、心は落ち着いている。なぜか恐れも不安もない。目を閉じて、あの光の下に行け……そしてダリヤは、目を閉じた。
太陽は天頂から地に向かって沈みかけていたが、ダリヤはまともに日差しを浴びて眩しかった。太陽の下には大きな馬と大きな馬車とが、西の空を背景に黒々として見えていた。
「なぜ泣いている? お嬢さん」
低いが通りの良い声。それは御者台の男から聞こえた。
(わたし、泣いている?)
右手を上げて、頬に指先を走らせる。濡れている。
(なぜだろう?)
思い出せそうで、思い出せない。
「お嬢さんも、王宮の舞踏会に行きたいのかい?」
舞踏会……そうなのかもしれない。わたしは行かなくちゃいけないんだ……多分。
「お嬢さん、とてもきれいだね。でも、ドレスがないのかい?」
ドレス……目線を落し、腕を上げたり下げたり、スカートの皺を伸ばしたりする。地味な胴衣とブラウス。灰とほこりにまみれている。
「ドレス……あるよ」
ダリヤはハッ、として顔を上げた。御者台の男の顔は、逆光でよく見えない。しかし声には、どこか疲れたような、捨て鉢な、投げやりな調子を感じる。
「ほしいなら、上げるよ」
その言葉を聞いて、ダリヤは初めて危険を感じた。しかし周りを見ても、誰もいない。建物一つない。ここは森の中に切り開かれた道。どうやってここまで来たんだろう。
「わたしは、王宮に行く。君も行くなら、乗せて上げる」
この男は、わたしに反応がなければ、別の提案をする。注意せねば。
「もしかして、わたしを怖がっているのかい?」
「いいえ」
ダリヤは努めて声を振るった。弱気は見せない。
「そう? こんな誰もいない森の中で、知らない男に声をかけられたら、怖くない?」
「いいえ。あなたは父に似ていますので」
言ってダリヤは自分で驚いた。ダリヤは父親の顔をよく覚えていない。でも……こんな感じだった、そういう気もしたのだった。
そして、その言葉はその男にも、影響を及ぼした……魔法のように。
男は路上に下りて来て、帽子を取った。
「先ほどからの失礼な態度をお詫びする。正直に言うと、君があんまりわたしの娘に似ていたので、気安く声をかけてしまったんだ」
男とはかなり近付いていたが、ダリヤはもう怖くなかった。
「ここを一人で歩くのは危ない。馬車に乗りなさい。王宮でも君の家でも、どこでも送ろう」
「ありがとうございます」
男が扉を開いて、車内に誘う。でも、わたしは……どこに行けばいいのだろう。
「悩んでいるのは、ドレスがないから?」
そうではない……のだけど……。
「さっきも言ったが、ドレスはあるんだ。正直に言うと、君に着てもらえると嬉しい」
「なぜ?」
「ドレスは娘のものだ。でも、娘はもういないから……君に代わりに着てほしい」
「娘さんはどうしたんですか?」
男は目をそらした。そっぽを向いて、小さな声で言った。
「内乱の際に、王の軍隊に殺された。何の罪もないのに」
ダリヤはハッとした。胸が急に苦しくなった。
「わたしは商人だが、王宮の台所にネズミが多くて困っていると聞いて、ネズミ捕りを作って納入した。次に、海の向こうからからカボチャという新奇な野菜を仕入れて、これも納めた。でも、台所止まりで王宮の奥深くまでは入れなかった。考えてみると、納めるものが悪かった。でも、市場ではネズミ捕りもカボチャもよく売れて、思いがけずわたしは金持ちになった。そうしたら、王子の妃を選ぶための舞踏会の招待状を、金で買えた。娘は死んで、もういないのに……。おかげで計画を立てられた。金さえあれば、大抵のことはできるんだね」
男はぎろりとダリヤに目を向けた。ダリヤはまた怖くなっていた。
「復讐が正しいことなのか、わたしにはわからない。考えても、結論は出ない。やる準備だけは常にしていたところ、思いがけず、機会を得た。平民が王族に近付ける、唯一の機会。それが舞踏会。やれるようになると、是非善悪関係なく、やりたくなる。それが人間というものらしい」
ダリヤは極度に緊張した。もう聞きたくない。でも聞かないわけにはいかない。そう思った。
「そんな時に、娘に似た、君が現われた。これも運命だ。君が舞踏会に行き、今日の内に……つまり12時前に王宮を出るならば、わたしは君に免じて何もしない。どうだね?」
是非善悪……ことの次第がわからなければ、判断はつかない。でも、何事も起きないことは、悪いことではないはず。
「わかりました。王宮に行きます」
「ありがとう。君が娘のドレスを着たら、王子も見初めるかもしれないな」
男は笑った。しかしその笑顔は、寂し気であった。
「でも、仮に王子に引き止められても、12時までには帰るんだよ」
「わたし……どうやって時間を知ったらいいでしょう?」
「王宮の隣に、教会がある。教会の鐘は、15分おきに鳴る。
11時15分に一回、30分に二回、45分に三回、そして12時には四回、鐘が鳴る。三回鳴ったら、出て行きなさい」
「わかりました。でも……もしも、12時を過ぎてしまったなら……どうなるのですか?」
「偶然にも、今日が娘の命日なんだ……だからわたしは、今日の内は、何もしないことにする。でも君が、鐘が四回鳴っても王子の下にいるなら、その時は……愛する者を失う悲しみを、王は知るだろう」
男の顔に見えた感情は、悲しみ、怒り、そして狂気。ダリヤはもう堪え切れず、叫び声を上げた。
「大丈夫。大丈夫よ」
目の前は暗かった。まだ心臓が激しく鼓動している。しかしダリヤは、もう安心していた。お母さんが抱き締めてくれていた。
「わたし、夢を見ていたの」
「そう、全部、夢なのよ。心配しないでいいのよ」
お母さんは言った。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「どうして来てくれたの?」
「あなたが、夢を見て、うなされて、叫んだからよ」
それはおかしい。ダリヤは思った。
「でもわたしが叫んだ時には、もうお母さんは、いてくれたでしょ?」
「ダリヤ、眠りなさい」
「眠るのが怖い」
「お母さんがいるから大丈夫よ」
「ありがとう。でも、話をしてもいい?」
「うん」
「お母さん、シンデレラって知ってる?」
「知ってる」
「本当? 今日見た映画、シンデレラだったんだよ」
お母さんは何も言わない。お母さんはごまかしはしない。だから、黙っている。
「昼間に、男の人が来たでしょ? その人に、シンデレラの話を聞いたんじゃない?」
「あなた、眠くないの?」
「眠れない。夢も、シンデレラのお話っぽかったの」
「そう」
また黙った。でもこの沈黙は、わたしにどう話したらいいかを考えているんだ。ダリヤはそう思った。
「起きて電灯を点けて話す? それともこのままでもいい?」
「このままでいい」
「ネイト……ううん、奈田さん、昼間の男の人ね、彼から電話が来て、ダリヤが今、ピュアバースに入っているって言うの。だから来たの」
「ピュアバース?」
「そこは夢の世界ではあるけれど、あなたの夢じゃないの」
「誰の夢なの?」
「PI。全知全能の人工知能」
PI……ダリヤは話の飛躍について行けるか不安になった。
「シンデレラという物語を、PIは世の中から消してしまった。昼間の2人の少女が、それを取り戻そうとしている。そして、ダリヤにもそれを手伝ってほしい。それが、奈田さんのお願い。わたしは断ったけれど、あなたは自分でピュアバースに入ってしまった。あなたには能力がある。できることは、人間はしてしまうのかもしれない」
「シンデレラを取り戻す……わたしには能力がある……」
「ごめんね。わたしが十数年前、ピュアバースでピュアメイトになった。その影響が、おそらくあなたに及んでいる。わたしもゴーグルなしでピュアバースに入ったことがある。あなたもその素質を受け継いだのでしょう」
「ピュアメイトって?」
「人間がPIを制御するシステム」
「わたしも、なるの?」
「わたしはあなたを、そのために生んだんじゃない」
お母さんはダリヤの目を真っすぐ見つめた。暗がりの中でも、その真剣なまなざしを、ダリヤは見た。
お母さんは、なってほしくないんだ。でも、わたしは?
ダリヤは、昼に会ったアンナとニイナのことを思い返した。あの2人が、PIと戦っている。
「でもわたしが、自分の意思でなるなら、お母さんもいい?」
「ダリヤはなりたいの?」
「シンデレラのない世界は嫌。それに、他の物語だって、なくなったら嫌。わたしにできることがあるなら、やりたい」
「遊びじゃないの。危険もあるのよ?」
「1人じゃない。あの2人がやっているなら、わたしもやる」
「そう……じゃあ明日、奈田さんの塾に行こう」
「ありがとう」
お母さんはもう一度ダリヤを抱き締めた。お母さんに抱き締められるのは久し振り……ダリヤはそのことだけは嬉しかった。
(続く)