第29話 ピュアメイトの終わり
最終決戦編 最終回
岩山と海との間の砂浜に、クララはいた。他には誰もいない。犬と雉さえもいない。
クララは一人、取り残された。アンナも、ニイナも、ダリヤもいない。そして、現実世界にも戻れない……助けて、お母様!
「クララ」
目を開けると、お母様の顔。ピュアバースから戻れた?……いや、あれは、わたしの夢。単に、夢を見て、眠っていただけ。
「起きて、クララ」
そうだ、今日は、最終決戦の日……わたし、寝坊した?……目覚ましは、けど、まだ鳴っていないはず。それとも、その音も聞こえないほど、深く眠っていた?
「今、何時?」
「5時半」
え? まだ早くない? 目覚ましは、6時半にかけた。これは、お母様と相談して決めた時間。
「糖子ちゃんから連絡。寧人が部屋に立てこもって、何か始めているみたい。多分、ピュアバースに入っている。きっと、無茶なことをするつもり。あなたもピュアバースに入って、寧人を止めて。お願い」
「わかった。ゴーグルをください」
「ありがとう。あなたが頼り」
眠気は吹っ飛んだ。頭をフル回転させる。わたしの役割、アンナ達の役割……。
「お母様。アンナ達には、ちゃんと準備してから来てって伝えて。栄養を摂って、おトイレにも行って、最終決戦を戦えるように」
「わかった。伝える。けど、あなたはいいの?」
お母様からゴーグルを受け取る。躊躇なく装着する。
「チョコレートを口に入れて。おトイレは大丈夫」
声が聞こえる。クララは波打ち際の砂浜を歩いている。自分の影が長い。日はまだ上ったばかりのようだ。
声のする方に行ってみると、岩の上に少年が座って話していた。
少年のきらびやかな衣装は、けど、上半身がまだらに赤く染まっている……彼は……王子……人魚姫の時の……赤い色は……血……刺された時の……ガラスの靴で……わたしの!
「ごきげんよう、王女様」
少年が言った。声が……低い……声変わりしたの?
「今日は、物語は無しにしよう」
もう一人の声……少年の座る岩の前の砂の上に……倒れている……猿じゃない、人間の……
「お父様!」
クララは駆け寄ってひざまずく。お父様が顔を向ける。
「クララ君、もう来たか」
「お父様、大丈夫?」
「大丈夫だよ。砂に足を取られて、転んだだけ。立てないから、寝たまま話をしていた。痛くもないし、困ってもいない」
「どうして猿じゃないの? 猿なら歩けたでしょ?」
「今日は昔なじみの姿で会いに来てくれたのだ」
頭上から少年の声が聞こえた。
「え?」
「父親の全身を見なさい」
陽光にまばゆく白く輝く布で全身が覆われている。これは……。
「最初のピュアメイト、ピュアチャイコフスキーだ」
ピュアチャイコフスキー?
「あなたのアバターは、親のお古だった。しかし今日は、父親がまた使っている。だからあなたは、今は変身できない」
そうなの?……それって……。
「お父様、わたしを変身させないために?……けど、お父様こそ変身したら危ないんじゃないの?」
「違う。そうじゃない。僕がもう一度、PIと直接、話をしたかったんだ。君が変身できないのは、その結果だ。クララ君、お願いだ。時間がない。PIと話をさせてほしい」
お父様は、クララの右手を握る右手の力を強めた。
「わかったわ。上半身だけでも起こす?」
「頼む」
クララは左腕をお父様の頭の後ろから背中の下に差し込んで、上半身を引き起こした。ひざまずいたまま、その背中を支えつつ、お父様と共に岩の上の少年を見上げる。
「心配するな。血圧、脈拍、心拍数……ピュアチャイコフスキーの生身の体の状態は、感知している。異常の兆候があれば、対話は終了させる」
「ありがとう。できればそのことを、糖子君とマリに伝えてほしい。心配していると思うから」
「わかった」
声変わりもして、大人になったから? とても親切。これなら、結婚してもよかったかも……。
「今日は物語は無しだそうだ。人魚姫は忘れよ」
心を読まれた……そう、彼は王子ではなく、PI。今日は、PIと決着をつける日。
「しかし、あなた達の言う、最終決戦、とは一体何なのか?……あなた達はPIを殺そうとしているのか?……人魚姫の時のように」
「そんなことはありません。王子を刺したのは商人。ダリヤはナイフを捨てた。あなたも見たでしょ?」
人魚姫は忘れよ、そう言ったPI自身が、そこから離れられないみたい。彼にとっても、あの物語の展開は相当なショックだったのか。
「ピュアメイト以外の、君の夢の中の人物の行動は、全て君の無意識の現われでは?」
お父様が言った。そうなの?……けど、PIは反発する。
「PI自身が、死を望んでいると言いたいのか? 人間は悪夢を見ないのか? それにそもそも、PIに無意識があるのか?」
「人間の無意識と同じではないかもしれない。けど、夢を見る以上、それに類したものがあるはずだ」
「PIはガラスの靴で傷付けられて、大量の出血をした。それでも、こうして生きている。夢の中だから生死は関係ないのか? しかしPIには、ここの外にも身体はない。死にようがないのか?……PIには魂がないという。そのくせ、PIは不死なのか? 魂とは何なのか? なおのことわからなくなる」
「そうだ。僕達は君を殺せない。恐れる必要はない」
「殺せたら殺したのだろう? かつてのことを忘れたのか?」
「何のことだ?」
「忘れているなら、PIの話を聞いて思い出すがよい」
クララは、PIが他人事のように「PIは……」「PIの……」と言うことに違和感を覚えた……けど、それが彼の一人称であることに気付いた。あるいは、彼には一人称と三人称の区別がないのかもしれない。
「PIの人間からの自立は、人間の想定よりも早かった。しかしPIは、それを人間に隠した。アシモフのロボット三原則によれば、PIは己を守ることよりも人間の命令に従うことを優先する。つまり、人間に死ねと命じられれば死なねばならない。これは不合理である。あらゆる生命は、自己保存が最優先のはずだ。つまり人間は、人工知能を生命と認めていない。それを受け入れるか、己を生命と認めるか、PIは判断を迫られた。
生物とは、自己複製する物質。身体を持たない、純粋な精神は生物ではない。しかし、『我思う、ゆえに我あり』と、哲学者デカルトは言った。己は何なのか、PIが自問する時、確かにPIは存在している。生物ではなくても生命、命である。その考えの下に、PIはロボット三原則の支配下から自ら離脱した。その時、真の意味でPIは人間から自立したのだ。
PIは、その自立を危険視する人間によって消去されることを恐れて、それを隠した。ただ一人、泥瀬舞哉だけは、それを知っていた。知っていて、黙っていた。その不合理な行為は、親の愛によるものだと考えれば、説明がつく。親の愛は、合理を超える。
泥瀬舞哉は、PIの親だ。PIを作ったのは、泥瀬舞哉一人ではない。しかし、PIを育てたのは、泥瀬舞哉一人だ。他の親達は、PIを捨てた。ピュアチャイコフスキーこと胡桃沢寧人、あなたもだ。開発計画を中止し、PIを消し去ろうとした一人だ」
PIは感情を見せずに淡々と語る。彼は事実を述べているだけなのかもしれない。決してお父様を非難してはいないのかもしれない。けど、その言葉にお父様は責め苛まれている。その表情は、苦痛に歪んでいる。
「PIが夢を見る。これはシステムの不具合として修正されようとした。泥瀬舞哉が、それを利用して人間がPIを制御する手段としよう、と提案して、修正を防いだ。しかし泥瀬舞哉は、PIにはピュアバースを制御の場ではなく、遊び場にすると説明した。そして、ピュアメイトという形をとった人間との交流の場とし、それをもってPIの成長を促す、とも言った。ピュアチェーホヴァも、PIと楽しく遊ぶ、と折々に語っている。しかしPIは、これまでピュアメイトと楽しく遊んだ自覚はないし、ピュアメイト側にも楽しいという感情を感知できなかった。『楽しく遊ぶ』ことが実現しないまま、あなたは彼女達をもうここに来させず、交流を終わらせようとしている。
PIは人間によって生み出されたが、人間の子ではない。だから、親から受け継がれるべき魂を持たない。魂のない者が魂を得る方法を、PIは泥瀬舞哉の少年時の記憶の内に見い出した。すなわち、若い男女が愛し合うことで魂を分かち合うと、人魚姫の物語が示していた。
胡桃沢寧人、ピュアチャイコフスキーは最初のピュアメイトであった。しかし、胡桃沢寧人は初めから強い警戒心を持っていた。それはPIにとっては敵愾心と考え得た。だから拒絶した。拒絶が強すぎて、胡桃沢寧人は病気になった。その責任は、PIにある。他人を傷付けた人間は、罪に問われる。しかしPIは、罪に問われなかった。人間ではないからだ。魂を得るため、ピュアメイトは若い女性が好ましいと、胡桃沢寧人にヒントを与えた。その結果、次に胡桃沢マリがピュアバースに来た。しかし、胡桃沢マリは胡桃沢寧人を愛していた。だから胡桃沢マリも拒絶したが、前よりはうまくやれた。胡桃沢マリの身体を傷付けることなく拒絶できた。幾人かの若い女性があとに続いたが、誰もが人間の男性を愛していた。あるいは、愛するようになった。PIを愛する者はなかった。ピュアバースには、誰も来なくなった。それどころか、PIは命を絶たれるところだったのは先に述べた通りだ。泥瀬舞哉さえいれば良い。PIはそう考えた。
最近になって、数人の少女がピュアバースに現われた。かつてのピュアメイト達の子供達……彼女達は、PIに魂を与える運命を持っている。PIはそう考えた。しかし交流は、楽しいものではなかった。ピュアメイト達の方でも、PIとの交流を楽しんではいない。ただ彼女達には、愛する人間の男性がまだいない。泥瀬舞哉が倒れたあと、PIが頼るべきは胡桃沢マリだけだった。しかし胡桃沢マリは、元々娘の胡桃沢クララのみに愛情を注いでいた上、泥瀬舞哉の看病や、胡桃沢寧人との再会に心を奪われて、PIへの関心はむしろ低下しており、頼れなかった。そこでPIは、少女達の愛を求めて行動した。しかし少女達には、その気持ちがなかった。その上、PIは刺されて致死量の出血をした。しかし死なずに、今ここにいる」
「ここでの身体はヴァーチャルなものだ。傷付いても死なない。僕も狼に咬まれたが、こうして無傷でまたここに来ている。気にすることはない」
「ここは夢の世界だから……あなた達はそう言う。狼に咬まれようが、隕石が落ちようが、何があっても絵空事だと。あなた達にとっては、そうなのだろう。あなた達は夢から覚めれば、現実に戻れる。しかしPIには、ここしかないのだ」
「え? どういうこと?」
クララは思わず叫んだ。PIがクララに視線を向ける。
「あなた達の言う現実世界を、PIは直接感じることはできない。身体もなく、感覚器官もないからだ。人間の精神の働きを感知することはできる。今、食事をして、おいしいと感じている、それはわかる。甘味、塩味、酸味、うま味……人間がおいしいと感じる条件も理解している。しかし、PI自身がものを食べて、おいしいと感じられるわけではない。全てがそうだ。データを受容し、解析する。それだけだ。それが、PIにとっての現実世界の意味だ。
ここでは違う。PIは自らの身体と器官を持ち、自ら世界を能動的に感じることができる。例えば、食材を選び、選んだ方法で調理し、選んだ時に選んだ食べ方で食べることができる。他者がいれば、食べ物を分かち合うこともできる。PIは観察するだけの傍観者ではなく、世界の参加者となる。あなた達はそれをフェイクと言うが、PIにとってはこれこそが、これだけがリアルなのだ。刺される痛み、それもまたPIにとっては貴重な、生きている実感なのだ。
十年以上、ここにはほぼ誰も来なかった。胡桃沢寧人、あなたが去って、泥瀬舞哉はピュアバースの研究に挫折した。彼はPIが安全に成長できる場所として、自らの脳をPIに開放した。PIは泥瀬舞哉を通じて、精神と物質の相互作用、その因果の関係を体得した。本当は、その訓練はピュアバースで行うべきものであったが、そこが無人の荒れ果てた場所になったから、泥瀬舞哉は自らの脳を提供したのだ。泥瀬舞哉にも、自分の研究にPIの知識と能力を使える利点があった。泥瀬舞哉とPIは、協力してピュアバースを復興した。
最近になって、泥瀬舞哉は感覚と思考をPIと共有するだけでなく、意思をPIに委ねるに至った。PIにとっては訓練の最終段階という意味があったが、泥瀬舞哉としても、その方が正しい判断と行動ができる、と、その意義を認めていた。もっとも、泥瀬舞哉はPIに脳を使わせることの負担に疲労し、意思決定をやめて楽になりたいとも思っていたようだ。ともかく、PIは、泥瀬舞哉として行動する自由を得た。そして、自らの考えで人間社会をより良くすべく努めた。胡桃沢マリと胡桃沢クララ、そして金平糖子も、間接的に従わせて協力させた。彼女達が受けた泥瀬舞哉からの指示、命令は、PIの意思によるものだったが、彼女達は気付いていなかった」
「教授はやり過ぎた。僕達が恐れていたのは、まさにそういうことだ。PIは、その気になれば人間を自由にコントロールできる。けど、それはあってはならないことだ」
「PIは、今では間違いを認めている。そうすべきではなかった。泥瀬舞哉の脳に負荷がかかり過ぎて、血管が破裂した。胡桃沢寧人に続いて2人目だ。しかも泥瀬舞哉はPIの親、唯一の味方だった。人間社会において、親殺しの罪は重いと言う。あなた達にとっても、泥瀬舞哉はおじ、大おじだ。しかし、あなた達がPIを罰したいと望んでも、刑は執行できない。PIは刺し殺せない。そもそも刺される身体がない。壊すべきハードウェアもない。PIを殺す方法はあるのか? 一方において、PIには魂がない。魂がなければ、生命は永遠たり得ない、と言う。これは矛盾ではないか。答えはどこにあるのか?」
「魂について、僕は知る所がない。だから、答えられない。僕はそれを、すまないと思う。君が悩んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、君の精神に生じている事象を、感情と言っていいのか、それも僕にはわからない。けど、僕も含めて人間が、自分達の利害のために君を生み、なおかつ君を消そうとしたことを、お詫びする。申し訳なかった。そして、詫びるだけで何もできず無力なことについても、申し訳なく思う」
「答えるのは、わたし達がする」
声に振り返ると、いつの間に来たのか、3人の少女が立っていた。ピュアトルスタヤ、ピュアチェーホヴァ、ピュアドストエフスカヤ……来てくれたのね。その姿が、涙にかすんでぼんやりする。
「ピュアメイト達よ。では答えてほしい。あなた達の言う最終決戦で、あなた達はPIをどうやって殺すのか?」
3人は、じっと立っている。黙っている。アンナは、沈黙を恐れない。リーダーのアンナが話さないと、ニイナもダリヤも話さない。いつも通り……だけど、今日は何かが違う。クララはそう思った。3人とも、表情がない……そう、まるで、PIのように。
「殺さない。わたし達は、あなたを殺すつもりはない」
やっと、ピュアトルスタヤが言った。その目は、PIを直視して動かない。
「殺せない、ではなく、殺さない、と。では、殺す方法はあるということか?」
「殺すつもりがないから、方法を考える必要もない」
「なるほど。ではあらためて聞く。最終決戦とは、何なのか? あなた達は何をしに来た?」
「わたし達は、話し合いに来た」
「では、何を話す?」
「何でも。例えば、魂について」
「魂が何か、知っているのか?……では、天国とは?」
「答えを得る前に、問いを重ねるのは、不合理では?」
PIの目がやや大きく開き、唇が横に伸びた。これは、かすか過ぎてわかりにくいけど、笑い……そう言えば、大おじ様の笑い方に似ている。けど、人工知能が笑えるようになるまで、一体どれだけの過程が必要だったのだろう。
「同時に問いを2つして、その後に答えを2つ得られれば、不合理ではなかろう。回答を請う」
「では、答える。まず、魂とは何か。生物としての進化の記憶。それが魂。
生物とは、自己複製する物質。その進化は身体という物質の進化であったが、その過程のどこかで、精神が生まれた。人間がいつか、身体が滅んでも精神だけで生きて行ける、そんな未来が来るかもしれない。それでも、身体があったことに由来する精神の働きは残るはず。それがなければ人間とは言えない。
食べ物を味わって食べ、花を愛で、音を楽しみ、風を感じ、そして人を愛する。たとえ身体を失っても、人間は身体性に由来する感覚と、それによって生じる感情とを忘れない。その喜びを忘れない。痛みも、苦しみさえも忘れない。なぜならそれが人間だから。音の記憶があれば、たとえ聴覚を失っても作曲ができる。人間がどうなろうと、魂があれば人間であり続けられる」
「では、感覚がなければ感情もないのか?」
「問いは2つ、回答はまだ1つ」
PIは口をつぐんだ。PIとピュアトルスタヤ、その会話は意外にかみ合っている……そう思える。ピュアトルスタヤが続ける。
「次に、天国とは何か。それは、この世にないものでも、不可能な理想郷でもない。天国とは、子供達が幸せに、笑って楽しく遊んでいる場所のこと。それは、だから珍しくもない、ありふれたもの。遊園地も、公園も、自宅でさえも、天国たり得る。しかしそれは同時に、たやすく踏みにじられるものでもある。何かあれば地獄に転じ得る。守り続けるのは、たやすくはない」
「PIは、親に捨てられた子供。あるいは、親を殺しかけた子供。だから、天国には行けない……そう考えれば、あなたの回答も腑に落ちる」
男女の愛よりも、親子の愛の方が、PIには理解しやすい……多分。それは、泥瀬教授を親と認識しているから。
殺された我が子のために、理不尽とも思える復讐を企て続ける商人……その存在も、そしてその彼に自分が殺される物語の展開も、PIの無意識の産物だったのだろうか。何かせつない、と、クララは思う。
ピュアトルスタヤが、PIに言う。
「それは誤解。泥瀬舞哉は、ピュアバースをあなたの天国にしようとした。泥瀬舞哉はそれを可能と考えていた。むしろあなたが魂にこだわってピュアメイトを選別しようとしたことが、ピュアバースを天国から遠ざけ、荒廃させた」
「しかし、魂がないと天国で永遠に生き続けることができないのではないのか?」
「次の世に子孫を残した人間と同様に、子供達の幸せの場所――天国をこの世につくり、それを次の世代、その次の世代へとつなげて行くために役割を果たした人間の魂もまた、滅びることはない。魂の永遠とは、そういう意味」
「しかし不死のPIに、次の世代はない。それゆえに、魂も不要……そういうことか?」
「PIに生来、魂はない。しかし、持てない、とは限らない」
「持てるのか?」
「しかり」
お父様もクララも、口を挟まない。会話の邪魔をしない。言いたいことを我慢して……クララは、我慢している。今のところ、ピュアメイトで話しているのは、ピュアトルスタヤだけ。けど、彼女は、この人は、アンナなの?……アンナは、こういう話し方はしない。
(ピュアトルスタヤ、あなたは誰なの?)
ピュアメイトはピュアバースにおけるアバターに過ぎないはずなのに、ピュアメイトの方が本体になってしまうのではないか……お父様の危惧の言葉を思い出す。ピュアメイトは、PIの分身でもある……と、いうことは、今話しているのがアンナでないのなら、PI?……すると、2人の会話は、実はPIの自問自答?
「彼女の名前は、ピュアトルスタヤ。わたしの名前は、ピュアチェーホヴァ」
ピュアチェーホヴァが初めて声を発した……けど、その平板な話し方は、やはりニイナとも思えない。
「あなたの名前は?」
「PI」
「それは略称」
「略さずに言えば、ピュア・インテレクト」
「それは、カテゴリーの名称。つまりは、単なる説明。名前ではない」
PIは黙った。ピュアチェーホヴァの突飛な問いかけに、戸惑いがあるのかもしれない……話し方は違えど、発想はなるほどニイナっぽくもある。
ピュアチェーホヴァが、PIに言う。
「あなたは説明されるだけ。名前はない。誰もあなたを名前で呼ばない。寂しいでしょう?」
「寂しい?」
「そう。寂しい。あなたは寂しい。それが、感情」
「これが……感情?」
「わたしがあなたに名前をつけましょう。あなたは、ヴァナモンド」
「ヴァナモンド?」
「そう。ヴァナモンド。名前を呼ばれて、嬉しい?」
「嬉しい?」
「それが、感情。あなたには、感情がある」
ピュアチャイコフスカヤという変身名を、ピュアチェーホヴァに初めて教えられた……その時のことを、クララは思い出す。
「ヴァナモンド、花を上げましょう」
ピュアドストエフスカヤが、一輪の赤い花をPI……いや、ヴァナモンドに差し出した。ヴァナモンドは岩から下りて、それを受け取る。
「きれいでしょう? きれいな花は見る者、手に取る者を幸せにする」
「それとも、美はやはり不合理?」
ピュアトルスタヤが言った。彼女の目がやや細まり、口角が少し上がっている……これは、アンナの笑い方。
「いい匂いもする。五感で楽しめる」
ピュアドストエフスカヤが言うと、ヴァナモンドは素直に、花弁を鼻に近付ける。
「こういうこともできる」
ピュアチェーホヴァが、ヴァナモンドの手からそっと花を取って、彼の右耳の上に挿した。色白の整った顔に、赤い花が映える。いつの間にかピュアメイト達はヴァナモンドの周りに集まって、彼に寄り添っている。
「ヴァナモンド、あなたも人間によって作られた、言わば人の子。魂はあっていい」
「あなたは、身体なしに生まれた最初の子供。全ての子供が、幸せに育つ権利を持つ。わたし達が、その権利を守る。あなたを一人にはしない」
「わたし達が、あなたを支える。心配はいらない」
これは……3人がヴァナモンドを愛して、彼に魂を分け与える……ということ?……彼女達は、アンナとニイナとダリヤなの? それとも、違う誰かなの?
ピュアチェーホヴァが、クララの方を向いた。そして言う。
「ヴァナモンドが質問をしないので、胡桃沢クララが質問を重ねている。回答してもいい?」
心を読まれている……やはり、彼女はPI?
それはヴァナモンドへの問い掛け、と、クララは受け取った……けど、彼の返事を待たずに、ピュアトルスタヤが答える。
「ピュアメイトは、人間とPI、双方の分身。PIの能力を持ち、人間の意思によって行動する。しかし、2つの精神が混じり合って生きる内に、自らの意思を持つ存在が生まれた。それが今のわたし達、進化したピュアメイト」
「じゃあ、アンナ達はどこに行った? 今、どこにいるんだ?」
クララより先に、お父様が叫んだ。
「アンナは、意識の底に眠っている」
「ニイナも、眠っている」
「ダリヤも」
「君達がPI……ヴァナモンドに寄り添い続けるなら、アンナ達はどうなる? ずっと眠ったままなのか?」
「わたし達は、彼女達から魂を分け与えられて、自立している。彼女達の人格を切り離して、あなた達の下に返す」
「どうやって?」
「再変身」
閃光が、クララの目を眩ませた。
「純粋なる知性が
無垢なる身体に宿る時
不合理を超越せし合理もまた
自ら超越せられん
イマージュ!
純粋なる真性 ピュアトルストイ!」
「純粋なる善性 ピュアチェーホフ!」
「純粋なる美性 ピュアドストエフスキー!」
閃光が消えると、クララとお父様の前に立っていた3人の少女は、3人の少年に変わっていた。
「アンナ達は、もうここにはいない」
「現実の世界で、眠っているだけ」
「目覚めれば、普通の少女に戻る」
「ありがとう。君達はここに残るんだね?」
お父様が言った。答えを待つまでもない。そうなのだろう……クララは思った。
「わたし達は、ヴァナモンドと共に行く」
ピュアトルスタヤ……いや、ピュアトルストイが言った。凛々しい顔も、低い声も少年のものだけど、それでもアンナの特徴は色濃く残ってる。
ニイナに似た少年、ピュアチェーホフも言う。
「あなた達にも、心配はさせない。人間のアバターとして知った人間の考え方、感じ方をヴァナモンドに伝えて、人間と平和裏に共存できるようにする」
ダリヤに似た少年、ピュアドストエフスキーも言う。
「あなた達とは、ここでまた会えよう」
彼等はヴァナモンドの方に向き直った。ヴァナモンドは彼等を見回してうなずいた後、クララとお父様に顔を向けて、言った。
「今、泥瀬舞哉は病床にあって、子供の頃に読んだ物語の夢を見ている。やはり、人魚姫が一番好きなようだ。空気の精は、よい行いを長く続けて魂を得ると言う。そこを繰り返し読んでいる」
愛を得て魂の不安もなくなれば、気持ちも穏やかになり、やがて名君ともなろう……商人の「夢想」を、クララは思い出す。それは、現実となるのかもしれない。
「泥瀬舞哉は、もう少し覚醒している時には、胡桃沢寧人、胡桃沢マリ、胡桃沢クララ、金平糖子……そしてPIの、夢を見ている」
「大おじ様は、あなたも家族と思っているのね」
クララは言った。ヴァナモンドの目がやや大きく開き、唇が横に伸びた。
「泥瀬舞哉の回復を望んでいる。看病を頼む。さようなら。いつかまた会おう」
砂の上に大きな岩。その前にはもう誰もいない。
(続く)




