第25話 人魚姫のクララの場合(後編)
アンナ、ニイナ、ダリヤ、クララ、王子、商人……全員が一堂に揃っての大団円。人魚姫編、最終回
商人が、お願いしますと言って、クララに毛布を渡した。少女は、裸にポシェットだけをかけている。けど、恥ずかしくもないのか、クララが近付いて行っても堂々と立っていて、じっとクララを見つめている。それでもクララが毛布を広げて背中から包むようにかけると、素直にされるままになっている。
「ダリヤさんと言って、この方も人魚です。お友達を助けるために、勇敢にも薬を飲んで人間になったのです」
商人がクララに説明した。感動しているのか、声が震えている。
「脚のある人魚です。人間にはなっていません」
その少女、ダリヤが言った。気が強いみたいだけど、それ以上に、深刻な表情をしている。尾を脚にするには、相当の覚悟が要ったに違いない。
ただ一人、離れた所に立っている王子が、声を上げる。
「取引はしないと言ったが、あなたの要求はかなえよう。アンナとニイナは、あなたに返す。必要なら、謝罪もする。償いは……金銀財宝を持てるだけ持たせよう」
ちょうどその時、扉が開いた。けど、すぐには誰も入って来ない。扉も大きくは開かず、ぱたぱたした揚句に、ようやく車椅子に乗った少女が一人、片手で扉を抑えながら現われた。彼女は自分が出ると、外から扉を抑え、もう一人の少女が、これも車椅子に乗って現われた。
ダリヤがよろよろとそちらに近付いて行く。
「まだ歩くのに慣れていないのです」
商人が言うので、クララは駆け寄って腕を取り、ダリヤを支えた。商人は少女達に細やかに気を遣い、クララに手助けを促す。
ダリヤが車椅子の前にしゃがみ、人魚の3人は手を伸ばし合った。どの顔も、涙に濡れている。
「脚どうしたの? びっくり!」
「魔女に薬をもらったの」
「わたし達のために?」
「薬、苦くなかった?」
「甘かった」
「甘いんだ」
「心配したわ! 何ともない?」
「大丈夫」
「トイレに行けた?」
「心配ってそこ?」
「大丈夫。車椅子で行けた」
「ご飯食べた?」
「うん。結構おいしかったよ」
「ひどいことされてない?」
「うん。特には」
「ダリヤを心配させたのが、彼の最大の罪」
その言葉を聞くと、ダリヤは立ち上がり、王子の方を向いて、歩み寄った。毛布が床に落ちて、再び肌が見える。けど、気にする風もない。
「わたしは、人魚の尾を人間の脚に変えるために、代償を払った。それは、自分の命を縮めること」
車椅子の人魚達が、えっと叫んだ。けど、ダリヤは歩みを止めずに続ける。
「でも、それを防ぐ方法が2つある。1つは、人間と愛し合って、人間として生きること。でもわたしには、相手がいない」
王子がわたしと結婚するから?……クララは動揺した。けどこの子が、王子を愛するとも思えない。
「もう1つは、脚を尾に戻して、人魚として生きること。でもそれには、人間の血が必要」
ダリヤはポシェットから右手でナイフを取り出し、左手で鞘を払った。直立したナイフとその柄を握った右手が、ぶるぶる震える。王子が、後ずさる。
「あなたはそんなことをしてはいけない」
叫び声は、商人。
彼は両腕を伸ばして両手を広げ、ゆっくりダリヤに歩み寄る。
「あなたはその手を血で汚していいような方ではない……さあ、ナイフをわたしに預けて」
ダリヤが涙に濡れた両目を商人に向ける。一歩一歩、少しずつ商人は近付いて行く。
「ナイフは握ったままでいい。そのまま右手を前に出しなさい。指は動かさないで……左手も動かさないで。その右手から、わたしがナイフを取り上げます」
ダリヤは右手を前に出した。商人が、両手を近付けた瞬間、突然、ダリヤはしゃがんだ。そして後ろを向くと、右手を大きく後ろに引いてから、勢いよく前に振った。手から離れたナイフが床を滑って、その縁を越えて見えなくなった。ぽちゃんと水音がした。
「わたしは誰も傷付けない」
振り向いてダリヤは言った。床に腰を下ろし、両脚を前に伸ばした。もう立てないのかもしれない。
「わたしは事実を皆に伝えただけ。わたしが程なく死ぬとすればその意味を、知ってもらうために」
商人も、ひざまずいた。泣いていた。
「殿下……真の愛は、男女の愛だけではありません。友を思う愛、親を思う愛、子を思う愛……真の愛は、これほどに尊い」
商人はひざまずいたまま、王子に顔を向けた。王子は……無表情のまま、じっと立っている。言葉はない。
「王女様」
商人はクララに向き直った。泣き過ぎてか鼻が赤い。涙に濡れた両目は、けど、ギラギラと光っている。
「この可哀そうな人魚の娘に、お慈悲を賜り下さい……失礼ながら王女様のお靴を、下賜いただけませんか?」
この子はもう、靴を履いて立つ元気もなさそうだし、そもそも意味がわからない……けど、少しでも何かの役に立つのなら。クララはドレスのすそを両手でつまんで持ち上げた。
「恐れ入ります。まず、右足からお上げ下さい」
にじり寄った商人の冷たい手が、クララの右のくるぶしをつかみ、かかとから靴が外れた。足の裏を直に着けた床が冷たい。次いで左足を上げると、同様に靴が外された。
「失礼いたしました」
商人が立ち上がる。両手に、片方ずつの靴を掲げる。靴は透き通って、キラキラと輝いている。
(ガラスの靴!)
商人は、王子に向き直り、両手に持った靴を突き出した。
「殿下、この靴をご存知ありませんか?」
王子は動かない……体も、顔も、表情も。
「わたしが舞踏会で、娘に履かせようとした靴です。なぜガラスの靴なのか……知りたいですか? その合理的な理由を?」
商人は靴を持った両手を広げ、それから急に閉じた。靴が打ち合わされ、パリンと音がして、細かな破片がきらめきながら飛び散った。商人は左手からガラスの破片を全て振り落とすと、王子に歩み寄り、左腕を伸ばして、王子を抱き寄せた。その小さな体は、商人の背中の向こうに隠れてもう見えない。商人の右ひじが引かれると、右手に大きなガラスの破片が残っているのが一瞬見えた……右ひじが前に振られ、右手は背中の向こうに見えなくなった。
あちこちから悲鳴が上がった。
「この復讐には意味がある。一つの命を犠牲に、もう一つの命を助けるのだ」
商人がかすれた声で言った。クララの目の前が暗くなり、音も消えた。
クララが気付くと、目の前にアンナの顔。眉間にしわが寄っている。
「わたし……どうしたの?」
「あなたは気絶した……ダリヤも。商人が、少年を刺した時に」
「王子は、どうなったの?」
「即死」
ああ……。
「商人は去った。彼の伝言。大臣の迎えがもうじき来るから、あなたもすぐ発ちなさいって」
「あなた達は、どうするの?」
「わたし達も、海に帰る……ダリヤの尾が再生したら」
「ダリヤは、大丈夫なの?」
「見ない方がいい」
アンナが両手をクララの顔の両脇に当てて、クララの目を直視する。これでは視線を動かせない。アンナの手からか、血の匂いがする。
「ニイナが少年の血を、ダリヤの両脚にかけている……恐らくもうすぐ、全てが終わる」
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろん。いくつでも」
「わたし達は、仲間よね?」
「もちろん。あなたは仲間。わたしとニイナとダリヤの、大切な仲間」
「じゃあなぜ、あなた達が人魚なのに、わたしだけ人間なの?」
「あなたも……目覚めかけているのね?」
目覚めかけている?……今、何がどうなっているの?
「ここはピュアバース、PIの見る夢の世界。でも、刺されれば痛いし、誰かが死ぬのは悲しい。そして、全てに意味がある。わたし達が人魚で、あなたが人間であることにも、きっと、意味がある」
「その意味は、何?」
「今はわからない。でも……人によって、役割は違う。そう、先生が言っていた」
「先生って?」
「奈田先生……ううん、胡桃沢先生。あなたのパパ」
そう言って、アンナはほほ笑んだ。やっぱり、王子よりもアンナの方がすてき……クララは思った。
ここは、夢の世界。死んでも、次の夢では生き返る。本来、身体を持たぬ者が仮初めの身体を損なっても、死ぬことはない……そうなのだろう。
物質の制約から解放された純粋なる知性を、殺せる者はない。その生命は永遠である。たとえ、魂がなくても……そうではないのか?
それとも、やはり魂なしに生命は永遠たり得ないのか?……誰か、教えてほしい。そして、そうであるのなら……誰か、魂を分けてくれる者はないのか?
(続く)




