第23話 人魚姫のダリヤの場合
ダリヤは陸に上がる決心をするが、それには大きな代償が必要であった……人魚姫編、シリアスなダリヤ回
目の前には、小柄な、丸顔の魔女――その短い髪の先が、ゆらゆらと揺れている。尾の先にくっつけていたカキを引き剥がして、こちらに突き出す。相当痛いはずだが、顔色一つ変えない。
(さすがだわ)
ダリヤはそのカキを受け取って、代わりのカキを差し出した。魔女は彼を尾にくっつけて、そこから伝えられる音声を聞き始めた。
ダリヤはアンナを探すのに遠くに行き過ぎて、カキを咥えたサバとアジがなかなか彼女を見つけられず、2匹は同時にダリヤの下に現われた。だからダリヤは、王子がアンナを、次いでニイナを捕らえたことを、ほぼ同時に知った。
2匹のカキの音声を聞いて、ダリヤはすぐの危険はないと判断し、慎重に対策を練るべく、魔女の知力に頼りに来たのであった。ダリヤとしては、食事については毒を入れられる恐れはなく、ニイナは我慢できずに食べるだろうし、そうすればアンナも食べるから、危険の要因とはならないだろう、との考えだった。
魔女は、もう一つのカキも引き剥がして、ダリヤに渡した。そして、ダリヤをじっと見つめて、低い声で言う。
「それで、どうしてほしいの?」
「2人を助けるためにどうしたらいいか、ご助言をいただきに来ました」
「あなたに腹案があるなら、まず聞かせて」
「陸に上がれないと、どうしようもないと思います。カニではだめです。わたし達が、いや、わたしが上がれないと」
「そうね」
「何か方法がありますか?」
「あるわ」
魔女はあっさりと言った。これは、話が早そう。
「では、わたしを陸に上がれるようにして下さい。お願いします」
「そうね」
魔女は、すぐにうんとは言わない。いつも理屈っぽくて、話が長い。でも今は、できることなら、早くして。
「まずね。人魚って、ベースが人間なの。人間自体、先祖が魚だから、先祖返りで魚化しやすい所もある。けど下半身については、そうじゃない。人間の2本の脚を、くっつけて、皮で巻いて、1本にしているだけなの。中に骨は2本通っているのよ」
「え? そうなんですか?!」
「そう。だから、2本脚にするのは、難しくないの。ただ、問題がある。2つ」
魔女は、もったいぶる。でも、我慢。口を挟まないのが、結局一番早い。
「1つは、身体の大きな部分を変えるから、死期を早める。もう1つは、一度2本脚にしたら、尻尾に戻すのが難しい」
死期を早める?!……それではさすがにちょっと、二の足を踏む。
「だから、簡単ではない。それには、王子の言う、魂の話も、少し絡むの」
ややこしそう……でも、聞かざるを得ない。
「まず、人魚に魂がないと言うのは、迷信。人魚はベースが人間だから、普通にある。王子とやらに魂がないのは、理由がわからないけど」
「そうなんですか」
「だから、魂には関係ないんだけど、人魚が2本脚になった場合、人間と愛し合うことができたら、寿命は延びる。つまりこれは、人間として生きる、ということ。どっちつかずにいると、早死にしてしまう。ホルモンの分泌が関係するんだけど、長くなるから説明は省くね」
早死に……怖い……。
「あとは、人魚に戻ることでも、早死には防げる。つまり、2本脚を、尻尾に戻せれば。けどそれには、人間の血が必要」
「血?」
「そう。2本脚を癒着するために、人間の血が大量に必要なの。それも、同一人の血が、致死量」
致死量……。
「そう。だから、あなたが2本脚になって陸に上がり、アンナ達を助けられたとして、そのあと、早死にしないようにするためには、人間界に残って人間と愛し合うか、それとも人間を殺して、人魚に戻るか、どっちかね」
どっちか、って……。
「現実的には、愛し合う相手も、殺す相手も、候補は王子でしょう。あなたは、彼に対して究極の選択をすることになる」
そんな……。
「人魚のままのアンナ達と違って、2本脚のあなたとは、正式な結婚もできるでしょうから、王子も魂を得られるし、あなたも寿命を延ばせて、ウィンウィンになる……もし2人が、心から愛し合えればね。けど、愛も結婚も各々の利益のための偽装なら、魂も延命もどちらも得られない。いかなる者も、心を無視して無理に愛し合うことはできないのだから、現実には難しい。彼を殺す方が、実行はしやすい。そもそもアンナ達を助けるために、暴力が必要になるかもしれないし。ただもちろん、倫理上の問題があるけど。彼の罪は、死をもって償う必要のあるものなのか、という」
「他に、方法はない……ですか?」
ダリヤは打ちのめされていた。方法は、恐らくないのだろう。でも、聞かざるを得なかった。心に息継ぎをさせて上げたかった。
「一番望ましいのは、陸には上がらずに、人魚のままで、王子を説得することね。アンナだけなら理詰め過ぎて反発を招く恐れもあるけど、ニイナが感情にも配慮してフォローを加えれば、うまく行く可能性が高まる。あなたも行けば、更に加勢ができるでしょう」
そうね……少し、希望が湧いて来た。
「でもね。これはあんまり言いたくないけど」
ああ……怖い……。
「時間の余裕はあまりないかもしれない。アンナが出された食事を摂らないって、どうしてだと思う?」
「毒を入れられるのを恐れて、ですか?」
「それ以上に、飲食をすると、トイレに行きたくなるじゃない? どんなに立派な水槽でも水は汚れるし、第一、恥ずかしいでしょ? そのデリケートさに、この王子は気付いていないかもしれない」
それは……そうかも……。
「もちろん、いよいよになる前に訴えるとは思う。けど、王子がどれだけ真剣に対処してくれるか。それなしで愛も何もないわよね」
アンナとニイナの苦境に、想像が足りなかった。もう、一秒も待てない。
「わかりました。決めました。わたしを2本脚にして下さい」
「王子を殺す、覚悟ができた?」
「最悪、わたしが早死にすればいいんでしょ?」
「自己犠牲には、賛成できない」
「なぜ?」
「一般則として、自分を大事にしない人は、他人からも大事にされない。だから、自己犠牲はしちゃだめ。報われないから。許されるのは、自分と相手が一体の時だけ。つまり、立場が逆なら、相手も同じことをすると確信できて、かつ自分が、相手の犠牲を受け入れられる時だけ。あなたは、アンナやニイナがあなたのために死期を早めることを許容できる?」
「できます」
即答した……してしまった。でも、これはうそ……でも、このうそを、つき通す。
「わかった。薬を出すわ」
魔女は背後の薬棚に向かった。ダリヤは両手で両目を覆った。気が遠くなりそう。でも、がんばらなきゃ。
魔女は向き直り、緑色の小さな薬瓶と、鞘に入った大きなナイフを小卓の上に置いた。
「薬は液剤。水中じゃなくて、空気中で飲んで。飲んだら座って、尻尾に水をかけながら、前後に振って。段々皮が薄くなって行くから、そのまま続けて。最後の薄皮は、手ではがしちゃってもいい。完全に立てるまで、10分ぐらいはかかるから、薬を飲むタイミングは考えて。戻すやり方も説明するね。このナイフで、心臓を刺すか、のどを切るかして、あふれる血を両脚にかけながら、座って両脚を揃えて前後に振って。くれぐれも両脚を交互に動かさないでね。変な風にくっつくから。尻尾を振るイメージでね。では、幸運を祈るわ」
魔女は近付いて来て、ダリヤを両腕で抱き締めた。そして、耳元で囁く。
「一つだけ、アドバイスさせて。あなたが2本脚になって、その後の展開がうまく行かなかったら、あなたの知っている全てを、そこにいる皆に話しなさい。アンナとニイナはもちろん、王子とその臣下――商人にも、他に登場人物が現われれば、その人にも」
「なぜですか?」
「勝負事はね。優勢な方はそのまま進めれば勝てるのだから、局面を単純化したい。劣勢な方は、少しでも点を稼ぐ機会を増やすために、局面を複雑化すべきなの。全てを皆に話すことで、可能性が増える。あなた以外の人達の選択肢を増やして、局面を複雑にするの」
「わかりました」
わかってはいなかった。でも、言われた通りにしよう。魔女は信用できるから。
ダリヤはポシェットに薬瓶とナイフを入れて、首にかけ、肩紐の輪に右腕を通した。カキを1匹ずつ、左右の肩にくっつける……尾はなくなるはずだったので。そして、アジとサバ、カジキを引き連れて、出発した。城には行っていないサバには声をかけなかったのだが、行きがかり上、責任を感じているのか、ニイナを助け出したいと思っているのか、勝手について来た。案内は、アジではなくカジキがした。彼もまた、「用心棒」として役割を果たせなかった責任を感じていたのかもしれなかった。
入り江から水路に入る。船着き場まで進み、初めは水中から、次に水上に顔だけ出して、様子をうかがう。辺りはしんと静まり返っている。この上の奥に、水槽があるはず……だが、物音は一切しない。
水面から高低差があまりなく陸に上がれる所が一か所だけあった。土手が少し下がった所に少しだけ開いた平面の草むら。ダリヤはそこに向かって水中を進んだ。そして陸にぶつかる寸前に、勢いをつけて飛び上がった。両手を土に付け、体を一気に持ち上げて、草むらに着地。上半身を起こして縁に腰掛け、尾は水に浸す。ポシェットから、緑色の薬瓶を取り出した。蓋をひねって開け、瓶の口を唇につけ、頭を後ろに引くと同時に瓶の底を上に向けた。冷たい液体が舌の上を通り、のどの奥に流れて行った。瓶からの液体の流れは止まった。ゴクリとのどが鳴り、口を開いて息を吐いた。鼻に甘い香りが匂う。蓋を締めて、瓶をポシェットに戻す。
ダリヤは、尾を前後に動かした。バシャバシャと、しぶきが上がる。あと10分、このまま何事もなく過ぎて……それだけが気がかりで、他に不安はない。自分で驚くほどに、心は落ち着いている。魚達がダリヤの尾のそばを行ったり来たり、泳いでいる。大丈夫。心配しないで。
まず尾びれが、縮んだように感じた。真ん中に亀裂が生じている。その左右でも、先が細かくギザギザに割れつつある。
次いで、尾のうろこが色を失い、透明になりつつあることに気付いた。尾の中程に左右に一つずつ、丸い突起ができている。やがて、二つの突起の間に、縦に亀裂が生じた。少し痛い。我慢して尾を振り続けると、裂け目がぺりぺりと広がって、それに連れて突起が大きく左右に開いた。その間から、赤い液体がにじみ出たが、水に混じってすぐ薄まって行く。
尾びれが完全に2つに裂けた。裂け目は尾びれから、2つの突起の間の裂け目に繋がり、更にはへその近くまで広がった。うろこも、皮も、みるみる内に水に溶けて行く。残ったものは、白い2本の棒……それらはそれぞれの中程にある丸い突起を起点に、折れたり伸びたりする。
(これが、脚……)
2つに分かれた尾びれの先は、まるで手のように、先端に爪を生やした5つの突起に分かれたが、それらが指だとすれば、手の指に比べて笑えるほどに短い。
(これが、足……)
さあ、これらを使って、立って、歩いて、アンナとニイナの所に行かなくちゃ。
ダリヤは両手を後ろにつき、お尻を浮かせて後ろにずらした。これを繰り返すと、尾……いや両脚は、水を出て完全に陸に上がった。両脚の丸い突起を上に上げると、両足の指のない方の端が手前にずるずると地上を滑り、やがて両足が突起の真下に達した。両脚は三角に折れ曲がっている。両手を後ろについた状態で状態を前に倒し、両脚に力を込めると、三角になっていた両脚が真っすぐ伸びて直立した。
(立てた!)
水中で尾を動かすために働いていた筋肉は、陸上で脚を動かすためにも十分に働ける。次は、歩く!
左足に体重をかけつつ、右脚を上げる。突起から下は自然に少し曲がる。右足を前方に下ろす。次はこちらに体重をかけつつ、左脚を上げる。これの繰り返し。
(歩けた!)
さあ、行こう。船着き場に向かう、坂を上る。バランスを取って。呼吸が激しくなる。
船着き場に上った。奥の水槽……あった。しかし、その前に、2人の人間がいた。でももう、逃げる必要も、隠れる必要もない。わたしはもう、人魚ではない。2本脚で歩ける。さあ、ここからが勝負。
ダリヤはゆっくりと、しかし着実に、歩を進めた。人間達はダリヤを見ても、黙ってじっと立っている。少年――王子と、男性――商人。2人とも、どこかで見たような顔だが、思い出せない。
水槽には、アンナも、ニイナも、いない。どこにいったの?
「あなたはどなたですか?」
少年が言った。局面を複雑化する必要……でも、とりあえずは素直に、言うべきを言おう。
「わたしは、人魚のダリヤ。アンナと、ニイナの友達。2人を、返してもらいに来た。どこにいるの?」
「まずはあなたの質問に答えましょう」
少年が言った。美しい顔……でも、表情がない。
「2人は、城内の部屋にいます。必ずしも、水の中にいなくても良いと聞いたので。間もなく、ここに来るように言ってあります。では、わたしの質問にも答えてもらいましょう。あなたは人魚なのに、なぜ尾の代わりに脚があるのか?」
人間は、布で肌を隠している。人魚はうろこで……しかし今のダリヤは、全身の肌があらわになっている。でも、かまわない。言葉の戦いに、集中。
「わたしは、薬を飲んで、尾の代わりに、脚を得た。その理由は、あなたと結婚して、あなたに魂を与えることを、できるようにするため」
少年の両目が、やや大きく開いた。どう、少しは驚いた?
「あなたは、わたしを愛してくれるのか?」
「アンナも言っていたように、知らない人は愛せない。わたしはあなたを、これから知る。愛も結婚も、全てはその先のこと。でもその前に、あなたに求めることがある」
「聞きましょう」
「アンナとニイナを解放すること。2人に謝ること。2人があなたを許すまで、償うこと」
「そうすれば、わたしを愛してくれるのか?」
「約束はしない。できない。全てはその先のこと」
「なるほど」
少年は、隣に立つ商人をちらっと見た。商人もそれに気付いて少年を見た。何か、嫌な感じ。
「あなたは、将来の可能性を材料に、わたしと取引しようとしている。でも、それは公正なものだろうか?」
「わたしは、できない約束はしていない。不正はない」
「あなたには、敵意を感じる。そこから愛が生まれようか?」
「あなたが変わるなら、わたしも変わり得る。そうじゃない?」
「あなたの言うことは、信用しがたい。これ以上、議論は無用。結論を言いましょう。わたしには、そもそも取引の意思はない。あなたの提供し得るものを、わたしは求めていないから」
「それって……どういうこと?」
「わたしはもう、ほしいものを得たので。心から愛し合え、わたしに魂を与えてくれる人を」
「それは……アンナでもニイナでもないわよね?」
「そうだ。人魚ではない」
「じゃあ、誰なの?」
「その人には、ここに来てもらっている……さあ、紹介しましょう。我が同盟国の王女様です」
いつの間にかいなくなっていた商人が、奥の扉の向こうから、一人の少女と共に現われた。純白のドレス……裾が末広がりに広がって足元まで隠し、大きく開いた胸には首飾りがぴかぴかときらめく。長い髪に縁取られた整った顔、そしてその高く澄んだ声に、ダリヤは見覚え、聞き覚えがある気がした。
「ごきげんよう。わたしはクララ」
(続く)




