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第21話 人魚姫のアンナの場合

アンナは溺れていた王子を助けるが……

人魚姫編、リアリスティックなアンナ回

 目の前は真っ暗であった。顔を右に、左に動かしても、何も変わらない。真の闇。

 だから、距離感がない。闇はどこまでも無限に続いているようにも思われる一方、狭い箱の中に閉じ込められているようにも感じる。両手を前に突き出してみた。が、当たるものはない。自分の両手も見えない。しかし腕を動かす時、抵抗を感じた。止まっていれば感じないが、動くと重さを感じる。見えない空間には、何かが詰まっている。

 上の方から、かすかな音がした。見上げると、体が回転してしまう。さっきの「上」が、今は「前」になっている。

(方向がわからなくなる。これは危険)

 しかし、今は「前」……さっきまで「上」だった方には、かすかに明るみを感じる。闇が、先に行くほど薄まっているように見える。

(方向感と距離感を、これならつかめる)

 こちらに進むべきだ……尾を一旦引き、明るみを感じる方に垂直に身を立てつつ、頭を引き顎を上げて顔を「上」に向け、尾を前後に揺らして、「上」に向かって泳ぎ始める。

(尾……って、何?)

 自分が当たり前のように使いこなしている「尾」という身体の部分が、人間のものではないことに、アンナはここで初めて思い至った。

 辺りは既に完全な闇ではなく、自分の体を背景と識別できるぐらいの明るさはあった。下を向くと、尾を前後に動かす度に、尾びれらしい黒いものがひらひら動いて見える。同時に、後頭部に圧力を感じる……これは、水圧。

(息はどうなっているの?)

 手を口元にやると、上昇に伴う水流とは別の、水の動きを感じる。どうやら、開きっぱなしの口から水が入って、鼻から出ているようだ。

(これはどういう仕組み?)

 わからないが、苦しくはない。呼吸はできているようだ。

(ここは海……わたしは人魚)

 アンナは、状況をそう理解した。


 どのくらい上昇したのかはわからない。水の明るさはほんの少しずつしか増さない。むしろ音の拡大の方がはっきりしていて、それは今やゴウゴウと大きく耳に響いていた……と、突然、水が顔を流れ、鼻から吹き出し、口がパクパク開いてあえいだ。目の前はかえって暗くなったが、所々に光も見える。ゴウゴウという音が明瞭に聞こえる。手が水面を叩いて、しぶきが上がった。肌に寒さを感じる。その全てが、一瞬の内に起った。

 体が水上に出たのである。

 鼻から水が流れ続ける間、呼吸が苦しかった。ハッ、ハッ、と口から息を吸うものの、肺から水が出切らない限り、空気から酸素を取り込めないらしい。ようやく鼻からの水流が止まって、空気が出始めると、やっと呼吸が楽になった。深呼吸をする。潮の香りがする。

 周囲に注意を向ける。空は暗いが、無数の星が瞬いている。灰色の雲の小さな塊が幾つか、驚くべき速さで流れている。風がビュービュー吹いて、濡れて重たいアンナの髪さえもなぶり上げる。海面は大きく揺れている。それに連れて、アンナの視界も揺れている。大小、幾つもの黒いものが海面に浮かんでいる。

(嵐のあと……でもまだ、油断はならない)

 後方で、ザブンという水音。振り返ると、何かがバシャバシャとしぶきを上げて暴れている……が、すぐ静かになった。

(生き物……人間?)

 アンナは尾を大きく後ろに引き、同時に頭を水に突っ込んだ。両腕を体につけ、尾を上下に動かして進む。目はすぐ水に慣れ、前方に沈む人間の姿をとらえた。

(泳げないみたい。助けなきゃ)

 頭を下げ、尾を上げて、斜め下に進む。両手を出して、人間の体の下に差し入れる。重みがしっかり両腕に掛かると、尾を下げて、上を目指す。ザバッと音がして、2人はすぐ水上に出た。人間の顔を見る。暗くてよく見えないが、少年のようだった。目を閉じている。

(沈んで間もないから、溺れてはいないはず……だけれど、沈む前の状況がわからないから、大丈夫とは言い切れない)

 顔の前に手をかざす。かすかな温かい空気の流れを口元に感じる。のどぼとけの両脇に指の先を当てると、脈が打つのを感じる。

 アンナはできるだけ体を立てて、辺りを見回した。空の一方向が明るくなり始めている。夜明けが近いらしい。その同じ方向に陸影が見える。

 右手を少年の胴に回して抱き抱え、左手で少年の頭を支えて、顔が水をかぶらないように注意しつつ、尾を動かして陸の方に向かって泳ぎ始めた。アンナも頭を水上に出している。

「わたしが、陸まで連れて行く。だから、もう少しがんばって」

 アンナは少年に声をかけた。自分が普通にしゃべれることに気付いて驚いたのは、後からであった。


 アンナが少年を抱えて陸のそばまで泳ぎ着いた頃には、すっかり夜が明けていた。陸地では、高い山を背に森が広がる中に大きな石造の城が立ち、その手前に入り江が開けていた。波打ち際は遠浅の砂浜で、アンナは近づくことができない。水に浸かりっ放しの少年の体は冷え切っていて、唇が紫色になっている。

(どうしよう)

 入り江を見渡すと、一本の水路が城の方に伸びている。その両岸は砂浜ではなく土手になっていて、水路は水深がありそうに見えたので、そちらに進んだ。

 土手のせいで見晴らしが悪いが、尾びれが水底に着く気配もなく、アンナはその水路をどんどん進んだ。やがて両岸に石の柱が並び始め、その上に屋根も見え始めた。どうやらこのまま城の中に入って行くらしい。

 柱が壁に変わり、もはや建物の中と言える場所に至ると、そこは大きな船着き場らしく、小さな船が一艘停まっていた。船着き場の手前にある、水面から高低差のほとんどない、水路脇の草むらの、壁の隙間から洩れる陽光の射す所に、アンナは少年の体を乗せた。そして水路から手の届く限り、髪の水を払い、額や頬を手でこすり、濡れた肩や胸をさすった。時々、濡れた両手に息を吹きかけてはこすって乾かしては、また少年の顔や体をこすったりさすったりした。

 ようやく、少年の顔に血色が戻り始めた。まぶたがぴくぴくと震え、長いまつ毛がぷるぷると揺れた。そして、目が開いた。アンナは、ハッと息を呑んだ。

「あなたは……誰?……わたしは……どうしたの?」

 少年はアンナの方に顔を向けて、か細い声で言った。アンナは少年の美しさに、その時初めて気付いた。そして、自分が裸の上半身を水上に出していることにも気付いて、何となく恥ずかしくなって首まで水に潜った。

「わたしは、人魚のアンナ。あなたは、海で溺れていたの」

「人魚?!」

 少年は目を見開いた。唇も横に伸びた……もしかすると、笑ったのかもしれない。

「だから、水の中にいるんだね。あなたが、溺れているわたしを、助けてくれたの?」

「ええ」

「ありがとう。あなたは命の恩人なんだね。本当にありがとう」

 見返りが欲しくて助けたわけではないけれど、少年に素直に感謝されて、アンナは報われた気がした。うれしい。そして、少年との会話が、楽しい。

「ここまで連れて来てくれたのはなぜ?」

「砂浜だと、わたしが近付けないから。ここは水深があるから」

「そうなんだ。でも都合がいい。ここはわたしの城だから」

「あなたの?」

「正確に言えば、父王の城。わたしはまだ王子だから」

 王子……人間の、王子様。

 少年は上半身を起こした。立ち上がりそうな気配さえある。

「まだ無理しないで。さっきまで気絶していたのだから」

 少年の目がやや大きく開き、唇が横に伸びた。確信する。これはほほ笑み。

「ありがとう。あなたは本当にやさしい。あなたに助けられて、わたしは幸せだ」

 少年は、胸のポケットに右手を入れて、何かを取り出した。右手をそれを持ち、左手でその先をいじくると、刀身が陽光に輝いた。折り畳み式のナイフ。なぜこのようなものを?

「王子は、何でも持っている。遠い砂漠の国からやって来た名馬も持っているし、最新式の快速船も……昨日沈めてしまったけれど、また作ってもらえよう。毎日食べきれないほどのごちそうを食べ、気に入った服に日に何度も着替える。国中から選りすぐった美少女達を呼んで、舞踏会。金貨も銀貨も宝石も、蔵にうなっている。幸せでない、はずがない……はずがないなら、幸せ、なのか? どうだ、あなたには、わたしが幸せに見える?」

 死ぬような目に遭って、錯乱状態が続いている……あるいは、命が助かった嬉しさに、テンションが上がっている……あるいは、元々軽躁な人柄?……いずれにせよ、この人は、なぜかはわからないが、確かに不幸なのかもしれない。

「幸せではないように見えます」

 アンナは言った。少年は、かすかにほほ笑みながら、しかし首を振って、言い返す。

「違う! わたしは幸福なのだ!……昨日までは、確かに不幸だった。でも、今は違う。なぜか? それは、あなたに出会えたから」

 これが口説きというものなのだろうか? でも、少しも嬉しくない。

 少年がナイフを手にしてから、アンナは少しずつ後ろに下がっている。仮に投げ付けられても、水に潜れば刺さりはしないだろう。だからまだ安全だとは思う。しかし、折を見て海に帰るべきだろう。

「誰もわたしを、王子としか見ない。その地位を敬い、畏れるが、わたし自体を見てはくれない。誰もわたしに本心を明かさない。今、父王は病に倒れ、母親代わりの女官長は、その看病に付きっ切り。わたしのことは放ったらかし。他に信用できる者は一人もいない。友達もいない……これで、幸せになれようか? わたしは諦めていた。でも、なれた。幸せになれたんだ。わたしが誰かも知らずに、我が身の危険も顧みず、嵐の海を何時間も泳いで、わたしをここまで連れて来てくれた。わたしは、愛を知った。愛される喜びを知った。愛してくれる人を得た。わたしはもう、この人を離さない……いや、人じゃない、人魚を」

 ナイフを握ったまま少年は立ち上がり、しかし言葉とは裏腹に、船着き場に駆け上がって、アンナの視界から消えた。

(今が帰るチャンス)

 そうは思ったものの、このままでは釈然としない。誤解は、少なくとも、解くべく最善を尽くすべきだろう。

 船着き場とは高低差があり、その上を見るためにアンナは後ろに下がった。少年の頭が見えた。

「わたしは、あなたを助けました」

 アンナは叫んだ。

「でもそれは、あなたを愛しているからではありません。知らない人を、愛しようもない。でもわたしは、あなたを助けたことに満足しています。わたしは海に帰ります。さようなら」

 今では、少年の上半身が見えている。その右手がさっと動き、その背後に張り巡らされていた綱の一本が、パツンと切れた。

 尾、背中、頭と両腕の順に、下から強い力が加わり、痛みが生じた。仰向けになったまま水の中から出、更に体が空気中に引き上げられた。網越しに、石造の円天井が上に見える。体に食い込む網の痛さとは別の痛みが尾に生じ、何かが尾から離れて行った。その後、ポチャンと水音がした。

「あなたはわたしと暮らすのです。いつまでも、愛し合いながら」

 下では少年が、アンナの方を見上げながら、両手を広げて立っていた。


(続く)

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