第20話 魂のない少年
狼と羊飼い編 最終回
牧場を襲う狼の群れに、クララは…
クララは狼達が近づく前に、羊達を牧舎に収め、固く戸締りすることができた。自分は人間用の小屋に入ったが、問題は視界の開けた窓がないため、外の様子がわかりづらいことであった。南側の壁の上の方に、明かり取りの窓はあった。が、板戸を突き上げてつっかえ棒で開けておく仕組みで、椅子に上ってもそこから覗けるのは真下だけであった。
羊以外の動物達をどうするかの思案もあったのだが、犬を小屋に入れたら鳥も猿もついて来た。チーズを切ったナイフを、布でくるんで上着の腰ポケットに入れ、後は羊飼いの杖を引き寄せて椅子に座り、じっと聞き耳を立てた。
「ワオーン」「ワオーン」「ワオーン」
一匹が遠吠えをすると、続けて何匹かが唱和した。声は近い。とりあえず、柵は突破されたようだ。
すると、犬がうなりながら、ドアの前を行ったり来たりし始めた。興奮している。外に出て、狼と戦いたがっているの? クララは立って行き、その背をなでて言った。
「我慢して。ここにいればみんな安心だから」
その時、戸をノックする音がした。
「え?」
クララは驚いた。まったく予想外の出来事。まさか……狼がノックを?
「誰?」
「出なくていい。狼がいる。開けちゃだめ。そのまま聞いて」
少女の声。クララは驚きが過ぎて声が出ない。また、少女が言う。
「そこに猿がいる?」
いる、けど……猿は、部屋の奥で床にじっと座っている。
「います」
声を振り絞って、クララは何とか答えた。
「左手を見て。親指がどっちについている?」
え? どういうこと?
少女の言葉がわかったかのように、猿は両手と両足を交互に床に突いて、クララのそばまでやって来ると、両の手のひらを前に差し出した。
すると驚いたことに、両手とも、手のひらの右側に親指がある。
「左手の親指が逆についています!」
クララは叫んだ。少女が言う。
「わたし達に、任せて下さい。全頭倒すまで、外に出ないで」
これは、わたしに言っているの? それとも、猿に?
「あなたは誰?」
「わからないのね、ごめん。わたしはいつも、質問に答えないって言われる。わたしは、ピュアトルスタヤ」
うなり声、走る音――狼!――少女は?
ドサリ、と重い袋が地面に落ちるような音。続いて鈍い物音、キャンという叫び声、後はハアハアと荒い息づかい。
緊張で心臓が飛び出そう。どうなったの?
「大丈夫。一匹倒した」
少女の声――倒したの? どうやって?
「狼はほとんど牧舎に行っているようだから、そちらに行く。じゃあね」
少女の声はだんだん小さくなって行った。話しながら遠ざかっていたようだ。
狼のうなり声が、散発的に小さく聞こえた。少女が戦っている。
やがて、静かになった。小屋の外で倒された狼の息づかいも、いつの間にか聞こえなくなっていた。死んでしまったの?
それでも、我慢して待った。時間の経過を知るすべがなく、無限の時が過ぎたように感じる。
少女は、狼を退治し終えて、帰ったのかもしれない。鼻が利くはずの犬も、今は落ち着いている。
クララは、立ち上がり、戸をそっと開けた。異常は感じられない。静かに外に出る。犬、鳥、猿も続いて来る。牧舎に向かう。
小屋の壁が尽きて、視界が広がると、灰色の大きな犬のような動物が一匹、こちらを真っすぐ向いて立っていた。狼――しまった! 逃げなきゃ! けど、体が硬直して、動けない。
狼は真っすぐ走って来る。ハアハアという息づかい。風と共に、獣の匂いがする。
次の瞬間、クララは固い地面に横たわっていた。うなり声がした。何かが転がる。
犬が吠えて、転がったものに飛びかかった。狼の開いた口が見える。叫びながら、泡を吹いている。狼ののどを、犬が噛んでいた。がんばれ! 犬と狼が争う下に、何かもう一つ見える――猿。クララは思い出した。狼がクララに襲いかかる前に、猿が狼に飛びかかった。クララは体から力が抜けて倒れたが、狼はクララに触れていない。猿が守ってくれた。
今、猿は頭から血を流して倒れている。全く動かない。少女が3人、走って来て犬と狼の回りに集まった。犬が離される。狼は痙攣しているが、もう息をしていないようだ。クララは猿に走り寄った。目は開いている。胸が大きく上下している。
(生きている! よかった!)
クララが傍らにひざまずき、猿の両頬に手を添えると、猿がクララを見た。
人の声が聞こえた。
「クララ、怪我はないか?」
しゃべったのは猿。目がかすんで、よく見えないけど。
「大丈夫。助けてくれてありがとう。死なないで」
「気にするな。これは罪滅ぼし」
「あなたは誰?」
「僕は、クルミザワネイト」
胡桃沢?……?!
「つまり、マリの夫……君の、父親だ」
「えっ」という叫びが響いた。クララの声……ではなくて、少女達が口々に叫んだのだ。
父親……けど、猿?!……何が何だか、わからない。クララは混乱した。
「猿は、ここだけの仮の姿。実物は、男前よ」
少女の一人が言った。彼女も、鼻が詰まった声になっている。
「先生がクララちゃんの父親だったなんて、びっくり」
もう一人の少女が言った。
「さっきカラオケに来た、奈田先生が、実物」
この声は、ピュアトルスタヤと名乗った少女。
「先生は左半身を動かせないけれど、ここでのアバターは、両腕のどちらも右腕、両脚のどちらも右脚にしているから、動かせるの。ここでの体を狼に噛まれても、実物は傷付かないから、安心して。でも、痛みは生じるし、痛みやストレスで血圧が上がれば、脳出血が再発する恐れもある……先生、もう無茶はしないで」
奈田先生……カラオケ……。
情景が徐々に思い出されて来た。アンナ、ニイナ、ダリヤ、そして奈田先生……頭の中で、彼女達とは、別の声が聞こえて来た。ここにはいない人の声が。
「返事をして下さい! 聞こえますか?」
お母様の声。クララがゴーグルを外す……と、そこは自宅のリビング。大おじ様が倒れている。傍らにお母様と、もう1人……金平糖子。
「脳出血かもしれません。救急車を呼びます。来るまでこのまま、ここで寝かせましょう。頭を平らに……気道を確保……呼吸はしている。ベルトを緩めて下さい。毛布をお願いします」
金平糖子はテキパキと指示を出し、携帯電話を取り出して番号を打った。
「救急です。60代男性が意識不明。脳出血かもしれません。場所は――」
桃太郎、シンデレラ、三匹の子ぶた、ハーメルンの笛吹き、狼と羊飼い……どれも、舞哉が大好きで、何度も繰り返し読んだ絵本。でも最近は、絵のない、字ばかりの本も、がんばって読んでいる。絵がなくても、情景は想像できる。時には、意味のわからない難しい言葉につまずくこともある。でも、そうやって新しい言葉を覚えて行く。それもまた、読書の楽しみの一つ。
「アンデルセン童話集」
今日はこれ。いくつもお話があるけど、一番好きなのは、人魚姫。悲しいお話で、泣きたくなるけど、また読みたくなるのは、なぜなんだろう。
(君はわかるかい? わかったら教えてよ、ヴァナモンド)
舞哉はいつものように、心の中だけにいる友達に、問いかける。
「…
ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」
「どうして、あたしたちには、いつまでたっても死なないという魂がさずかりませんの?」と、人魚のお姫さまは、悲しそうにたずねるのでした。
…
「でも、たった一つ、こういうことがあるよ。人間の中のだれかが、おまえを好きになって、それこそ、おとうさんよりもおかあさんよりも、おまえのほうが好きになるんだね。心の底からおまえを愛するようになって、牧師さまにお願いをする。すると、牧師さまが、その人の右手をおまえの右手に置きながら、この世でもあの世でも、いついつまでも、ま心はかわりませんと、かたいちかいをたてさせてくださる。そうなってはじめて、その人の魂が、おまえのからだの中につたわって、おまえも人間の幸福を分けてもらえるようになるということだよ。その人は、おまえに魂を分けてくれても、自分の魂は、ちゃんと、もとのように持っているんだって。…」
(※矢崎源九郎訳「人魚の姫 アンデルセン童話集Ⅰ」より)
魂とは、一体何なのか? 体が死んでも、体がなくても、生き残るもの。それは純粋知性ではないのか? 天国とは何か? ピュアバースとは違うのか?
愛する者から、魂は分けてもらえると言う。誰が、愛してくれるのか? 誰から、魂をもらえばいいのか?
なぜ、教えてくれなかった? もう、教えてはくれないのか? 泥瀬舞哉よ。
(続く)




