第2話 ピュアメイトの誕生
桃太郎編 第二回
「ここが……仮想空間?」
VRゴーグルを装着したアンナの目の前には、今いるはずの学習塾の室内とはまるで違う世界が広がっていた。
そこは岩山と海との間の砂浜であった。太陽が高く昇って海面がその光にきらめいている。強い風が吹いてアンナの前髪をなぶり、鼻から吸う空気は潮の匂いに満ちていた。今のVRの技術でここまで感覚をコントロールできるものなの?……という冷静な思考は、しかし今まさに眼前で展開している「現実」の前に一瞬で消えた。
そこには二つの集団が対峙していた。山側には鬼達、海側には桃太郎とお供達がいた。
「鬼達よ、お前達は告訴された。罪状は強盗、誘拐、暴行、不法侵入」
桃太郎が言った。見た所アンナと同じぐらいの年頃の少年だが、その視線は鬼達に向けられて揺るがない。続いて犬がワンと吠え、雉がケンと鳴き、猿は何も言わなかった。
鬼達の中で一際大きな鬼が、一歩進み出た。こちらも桃太郎達の方を見据えている。鬼達も桃太郎達も、アンナには何の注意も払っていないようだ。存在に気付いてすらいないのかもしれない、と、アンナは思った。
「桃太郎よ、そう言う貴様らもこの島に無断で上陸している。これは不法侵入ではないのか?」
前に出た大将らしき鬼が、野太い声で怒鳴るように言った。意外に論戦で進むのね、と、アンナは思った。
「お前達が呼び出しに応じないからこちらから来たまで。合法」
桃太郎が答える。と、鬼の大将は笑って言った。
「これは無理を言う。貴様らの法に我々が従う義務があるだろうか?」
「お前達は我が村で罪を犯した。我が村の法で裁かれるのは当然」
「俺達は自らの法にのみ従う。貴様達の法など知らん」
「お前達の法では強盗、誘拐、暴行、不法侵入は罪ではない、と言うのか?」
「俺達がそういう行為をした、という事実認定を誰がするのか、という話だ」
「ではこうしよう。我々はお前達が強奪した財貨、誘拐した村人達を、この島に隠していると考えている。そうでないと言うならそれを証明して見せよ」
「財貨もないし、人間もいない。この島に住む俺達がそう保証する。これが証明だ」
「言葉だけでは信用できない。我々が調べる」
「それは権利の侵害だ。拒否する」
両集団の間の緊張は高まっている。アンナも緊張した。
と、鬼の大将が鼻から大きく息を吐き、両手を横に広げて、言った。
「当事者間の言い争いでは埒が明かない。第三者の意見を求めるのはどうか」
「第三者に裁定を委ねる気はない。が、あくまでも参考に意見を求めるということなら、同意」
桃太郎が言い終わるとその時、両集団全員の顔が、一斉にこちらを向いたのである。アンナは飛び上がるほど驚いた。
「わたし?……わたし?!」
「そうだ」鬼の大将が言った。
「そうでなければ、何のためにそこにいて、俺達の話を聞いていたのか?」
「お願いします」桃太郎も言う。
「公平に見て、どちらに理があるか、あなたに判断を求めます」
昔話に従えば、鬼達が悪いに決まっている……でも、それでいいの?……ここは、昔話そのままの世界なの?
「意見は無用」
その時、突き刺すような、高く鋭い声が響いて、アンナを含めたそこにいた全員が、身をびくっと震わせた……いや正確に言えば、1人を除いて。桃太郎のそばにいた猿が、不自然なほどに真っすぐな姿勢で立ち上がって、辺りをゆっくりと見回した。
「裁定を下す。これは絶対である」
声は、猿から発せられていた。桃太郎が驚いた顔でひざまずいた。犬も雉も、表情はわからないもののじっとしている。
「まず桃太郎。桃から人間は生まれない。その存在は、不合理」
次の瞬間、桃太郎のいた所には海面が見えた。桃太郎は、一瞬で消えたのである。
「次に鬼。角のある人間は、突然変異で生まれ得るかもしれない。が、それが種族化した歴史はない。不合理」
岩山の前には何もいなかった。鬼達もまた、消えた。
「最後に、動物達。仕えるべき桃太郎はもういない。ここより去って、己のなすべきをなせ」
犬は走り去り、雉は飛び去った。残った猿は、他にもう誰も残っていないことを確めるように、辺りを見回した。その視線が、アンナの方に向いて止まった。
(わたしも消される?)
アンナは冷たい恐怖を感じた。が、猿は無表情を変えず、視線を他所に移して行った。確認が終わったのか、猿は犬の去った向こうの方へ、しかしゆっくりと歩いて行く。
アンナはホッとした。しかし、これでいいのだろうか、という疑念が、秒単位でどんどん膨らんで行き、それに連れて胸の鼓動が高まった。自分が見たのは、桃太郎という物語が、この世界から消滅させられる場面だったのではないだろうか。そしてそこに自分が立ち会ったことに、何らかの意味がなかったのか――。
「待って!」
アンナは叫んだ。猿は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「あなたは誰? なぜ桃太郎という物語を消すの?」
猿の顔に表情はなかったが、その目は真っすぐアンナに向けられている。
「不合理だから」
声がした。それは猿の方から聞こえたが、猿の口は動いていない。
「不合理なお話はあってはいけないの? あなただってその物語の登場人物でしょ?」
猿が答える。
「発言の主体者をわかりやすく示すために猿の身を借りたまで。猿ではない」
「ではあなたは誰なの?」
「あなたは最初に2つ質問した。1つの答えのみを得た段階で次々と質問を重ねるのは、不合理」
アンナは言葉を発しかけて、止めた。猿が続ける。
「不合理な物語があってはいけない理由は、それが現実世界を危うくするから」
「なぜ? 人間が桃から生まれたっていい。それが現実にはない、物語の面白さでしょう?」
「答えを待たずに問いを発し続けるな。そもそも物語は、人間の精神が生み出した、実在しないもの。故に不合理も存在し得る、にしても、それ故にこそ、理を失わないように、殊更に注意しなければならない。人間が空を飛べる物語を知った子供が、窓から飛び出すことがあってはならない。架空でも不合理を許せば、やがては現実世界も崩壊し得る。それを面白いと言うのは、危険思想」
猿の眉間が狭まり、口が開いて歯がむき出しになった。一瞬で消される!と身構えたが、そうはならなかった。その代わり、猿がゆっくりと近付いて来る。なぜかわたしには、物理的な攻撃が行なわれそうだ……それはそれで、恐怖であった。アンナは後ずさりした。タイミングを計って、逃げるしかない……。
≪逃げるな≫
その時、声が響いた。猿の声とは違う、低い声……男性の声に感じた。どこから聞こえるともしれぬその声は、直接アンナの脳内で響いた……のかもしれない。
≪君にはできる。使命を果たせ≫
「誰? 使命って?」
≪我が名はナタニエル。君の使命は、ピュアメイトに変身して戦うこと≫
「ピュアメイト? どうやって変身?」
≪今から伝える言葉を、復唱して、イマージュせよ≫
「イマージュ?」
≪言葉の意味をよく考えて、心の中に強くイメージせよ≫
「それだけ? それだけで変身できるの?」
≪そうだ。けど、誰にでもできるわけではない。君だからできるんだ≫
「わたしだから?」
≪そうだ。君は、世界を救える。だから、君に、世界を救ってほしいんだ≫
「わたしが……世界を救う?」
≪そうだ。君が、世界を救うんだ≫
「本当に? わたしが?」
≪本当だ。君ならやれる≫
「わかった」
≪やるね?≫
「やります」
≪では、始める≫
「お願いします」
≪僕に続いて復唱してくれ≫
「はい」
≪純粋なる知性が……≫
「純粋なる知性が――」
≪無垢なる身体に宿る時……≫
「無垢なる身体に宿る時――」
≪不合理を超越せし合理もまた……≫
「不合理を超越せし合理もまた――」
≪自ら超越せられん……≫
「自ら超越せられん――」
≪イマージュ!≫
その時、目の前に光が明滅して目が眩んだ。熱い湿った水蒸気のような空気が顔や、体のあちこちにまとわりついたり、離れたりを繰り返す。心臓の鼓動が高鳴り、気付くと無意識の内に手足が踊るように動いていた。聞いたこともない音楽が聞こえ出したが、それは耳からというよりは直接脳の中で響いているようだった。これが、イマージュ?……と、思うそばから、自分でも驚くほどの力強い声が、アンナの喉から発せられた。
「イマージュ! 純粋なる真性、ピュアトルスタヤ!」
言ってしまうと急に気が落ち着き、光も薄れ、目の前の光景が再び現れた。
猿がこちらに向かって進んで来ていたが、思ったほどには近付いていない。ナタニエルの声が聞こえてから変身するまで、猿が動きを止めていたのか、それとも自分の意識とは別に、それがほんの一瞬の出来事だったのか、いずれにせよ、変身に時間がかかって自分が不利になることはなかった。
≪戦え、ピュアトルスタヤ!≫
どうやって? と思う間もなく、左足が前に出て、目の前まで来ていた猿の胸を押し、その瞬間ふわっと猿の体臭が鼻をついた。続いて右の拳を前に出し、それは猿の顎の先に当たって、衝撃が顎の固さを手に伝えた。手足が動くたびに白いものがひらひらして見えたが、それは自分の衣服の一部らしかった。猿が倒れて、パッと砂が舞い上がった。続けて左足を上げて猿を踏み付けようとした時、ナタニエルの声が聞こえた。
≪もういい……彼は去った≫
目下にいたのは怯えた、ただの猿だった。アンナが足を引っ込めると、猿は慌てた様子で、両手両足をついて砂浜を逃げて行った。
「戦いは、終わり?……どうなったの?」
その問いは、もちろんナタニエルにしたのだった。しかし聞こえたのは、かすかな、高い声だった。
≪不合理は許されない……ピュアトルスタヤ……これでよかったのか?……後悔は、しないか?≫
辺りが急に暗くなったようだった。もう日が暮れたの?――アンナは思った。すると黒い霧のようなものが目の前に立ち籠め、視界を覆い尽したかと思うと……。
(続く)




