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ピュアバースへようこそ!  作者: てんた
狼と羊飼い編 
19/26

第19話 牧場の少女

狼と羊飼い編 第三回 

クララはアンナ達とカラオケに行っていたことを泥瀬教授に咎められ、そして…

 大おじ様……泥瀬教授の顔は、かつてとはまるで違っていた。温和な表情は消え……いや、いかなる表情も、その顔には浮かんでいない。怒っているのかとも思ったが、怒りも見ては取れない。虚無的なまでの無表情。クララはそれを、前にもどこかで見たような気がした。

「どこに行っていたのか?」

 声も妙に高く、抑揚もない。機械音声のよう。

「友達とカラオケに行っていました」

「栗木さんと柿本さん?」

 お母様が尋ねる。

「いいえ」

 それだけを答える。お母様だけだったら、誰と行ったかも言う。けど、大おじ様に言うのは、怖い。

「友達になるのはいい。深く知ることができる」

 大おじ様は、知っている……誰と行ったのかを。クララは緊張する。

「しかし、今日の行動はだめだ。わかるね?」

 正直に言えば、わからない……カラオケがだめなの?

「接触は学校だけにしなさい。これは、君のためだ」

 わたしのため? どうして?……クララは混乱する。

「今はチャンスだ。彼女達は、当分ピュアバースには来られない。君が入りなさい」

 アンナ達はカラオケを続けているはずだから、確かにピュアバースには来ないだろう。けど……。

「入って……何をすればいいのですか?」

「己のなすべきをなせ」

 大おじ様はじっとクララの目を見つめる。逆らえない……クララは、ゴーグルを手にした。


 目の前には草原がうねって広がり、その先には木々が茂って、三角の山へと高まって行く。天空には高々と太陽が昇り、風がぴゅーと吹いて、草と土と、動物の……排泄物の匂いを運んで来た。草を食む多くの動物……羊の群れ。

 背後でバタン、と音がした。振り返ると、木でできた小屋から、黒い帽子とベストを着けた男が出て来たところであった。

「俺は、ふもとに下りる。後は、お前に任せる」

 男は言って、小屋の後ろの柵の木戸を開けて出て行こうとする。その外は、坂道が下って木々の間に消える。

「任せるって、何をですか?」

 考えたことがそのまま口をついて言葉に出てしまって、クララは驚いた。が、男も驚いたようだった。足を止めて、クララを見ている。

「いやはや、今になっていう言葉かね? お前は一体、何のためにその杖を持っているんだ?」

 クララは自分が右手に握っているものに初めて気付いた。それは地面から立てられた長く太い木の棒……だが、その最上部は湾曲して先端が下を向いている。

「羊飼いの杖……」

「そうだ。これからはお前が、その杖で羊を守れ」

 これからは……と言うが、羊を飼うことについては何も知らない。どうすればいいの?

「不安がらなくていい。お前は筋がいい。教わったことをやればいいだけだ」

 教わったの?……何の記憶もない。ただ……思いの外、この男は優しそう。

「まだ無理です。もう一度、教えて下さい」

「やれやれ」

 男は苦笑しつつも、クララに歩み寄った。

「要点だけおさらいしよう。本当にこれが最後だ。よく聞けよ少年」

 少年?……何か違和感を覚えたが、男が話を続けたので深く考える間はなかった。

「まず、日が昇ったら起きて、ちゃんと朝めしを食う。そして、昼めしの用意もして置く。羊を牧舎から出して、好きにさせる。日中は、羊の様子を観察。けがや病気の奴がいたら牧舎に戻す。柵に破れがないかを確認。水飲み場の水量も確認。昼めしは羊を見ながら外で食え。日が傾いたら、羊を牧舎に戻す。鍵をかけて、夕めしを食ったらさっさと寝ろ。そして一番重要なのは」

 男は口を閉じ、小屋の脇に立つ柱の上を指差した。

「狼が来たら、羊をすぐ牧舎に戻して、あの鐘を鳴らせ。ふもとから助けが来る」

 狼……が、来る……羊を食べに? それとも、人間を?

「どれぐらいで、助けが来ますか?……どれぐらい、待てばいいですか?」

「早ければ半時間で着く」

 クララの落胆に気付いてか、男は口早に言葉を継ぐ。

「狼は慎重な狩人だ。しかも群れでしか襲って来ない。まず一匹が現われて、偵察をする。群れで襲うに足る獲物がいて、かつ危険がないことを確認してから、仲間を呼びに行く。最初の一匹を早期に見つけられれば、半時間で間に合う」

 早期に見つけられなければ、間に合わない……のか?

「ただし、半時間で助けが必ず来る、とは限らない。特に今は、お前の前任者が、むやみやたらに鐘を鳴らして、せっかく村人が来ても無駄足に終わることが繰り返されたから、前ほどすぐには来てくれないかもしれない」

 なんと……ではどうすればいいのか……。

「とにかく、建物に入ることだ……羊も、人間も。羊を動かすのは、犬にやらせればいい」

「犬?」

「あれだよ」

 男の目線を追って、振り返ると、羊の群れのそばに、大きな犬がうずくまっていた。更にその脇には、体が緑色で顔だけが赤い大きな鳥が、じっと立っている。

「あの犬は鍛え抜かれている。どんな人間の命令も理解して、すばやく行動する。どんな時も役に立つ」

「では、鳥は?」

 男は答えなかった。おさらいは終わった……らしかった。

「では、俺は行く。日曜に食料を持って来る。給料もな」

 男は言って、かすかにほほ笑んでうなずいた。後は振り返ることもなく、柵の木戸から出て行き、やがて坂道を下って木々の中に消えた。

 クララは、取り残された……羊達と、犬と、鳥と共に。


 日が高いので、昼ご飯を食べてもいい時間ではないかと思い、小屋の中を探すと、パンとチーズがあった。他には何もないとすれば、毎食これなのかもしれない。日が当たって温かい草の上に座って食べ始めたが、パンはカチカチに固いフランスパンで、噛むのにあごが疲れる。犬に少し上げると食べたので、大きな塊をほうったところ、ガツガツと食べている。白い所を小さくむしって鳥にも投げてみたが、こちらは見向きもしない。チーズは分厚い円盤から、置いてあったナイフで切り取ったもので、ちょっと苦みもある濃厚な味わいが大人向けだな、とクララは思った。食べさせていいものかわからなかったので、犬には上げなかった。

 羊達も、それぞれの場所に散らばって、静かに草を食んでいる。羊は食事時というものがないようで、見たところずっと食べっぱなしである。

 柵は、かなり遠くにそれらしい構造物が見えるが、そこまで行っている羊はいない。仮に破れたところがあっても、今のところは羊が逃げる心配はない。してみると、むしろ侵入者を防ぐために機能しているのだろうか……狼のような。

 草原にぽつんと置かれた大きな石のような、灰色のものが、動いたような気がした。遠すぎてほぼ点にしか見えないが、位置だけでなく、形にも変化があるような気がする。

「犬さん、あれは何?」

 クララは犬の背中をぽんと叩いてから、立ち上がった。目を凝らす。灰色のものは……確かに動いている。こちらに、近づいて来ている。それに連れて、少しずつ大きく、形もはっきりして来る。

「あれは、犬……いや、狼?!」

 他に似た存在は見えない。一匹だけ……いや、群れから派遣された、斥候。

 すべきことは?――羊を牧舎に入れる。そして、鐘を鳴らして、助けを呼ぶ。

(落ち着け……わたしは羊飼い。それも、筋がいい羊飼い。落ち着いて、己のなすべきをなせ)

 犬も立ち上がっていた。異変を感じているのか。クララはしゃがんで、犬の頭をなで、正面からその目を見て、言った。

「羊を牧舎に入れて。大至急」

 犬はフン、とうなって、躊躇なく駆け出した。左側の、羊が一匹もいない方に向かって真っすぐ駈けて行く。方向違いじゃない?――と、クララが思うと、犬はその動線で羊の群れを大きく囲むかのように大回りに回り込んで、羊の群れの裏手に達すると、羊を追い立て始めた。羊は皆、驚いて浮足立ち、犬に近い所の羊から走り出し、同調者が増えて群れとなってこちらに向かって来る。犬は今度は右手に回り込み、離れたところにいた羊達も追い立て始めた。ただし、中には動転したのか、こちらに向かう群れとは逆に、数匹が柵の方に離れて行く――その先には狼がいる。

 すると、バサバサッと音がした。何かが飛んで行く。離れて行く羊の顔の前を横切って飛び、羊は驚いて立ち止まった。そこに犬が追い付き、こちらに向かって追い立てる。

(鳥さんも! ありがとう!)

 早い羊はもはや牧舎に達し、開いたままだった入り口から中に入って行く。

(後は閉めるタイミングね)

 狼に目を戻すと、姿はまた小さくなっている。

(戻って行く……いや、仲間を呼びに行くの?)

 安心してはならない。けど、全頭を収容する余裕はできそうだ。牧舎に目を戻す。すると……。

「え?」

 羊が一匹、また一匹と入って行く牧舎の入り口の脇に、猿が一匹、立っている。猿は無表情で、周囲に目を配るかのように、時々首を動かす。

(この牧場って、犬と鳥の他に、猿もいるの?)

 その動物達の組み合わせには、何かの意味があるような気がしたけど、クララは思い出せなかった。鳥の働きを見れば、猿にも何らかの役割があるのだろう。

(次は助けを呼ぶ。これが最優先)

 牧舎から、小屋に戻る。脇に二本の柱が立っており、その最上部に架けられた梁から、大きな鐘が吊るされている。その中から、綱が地面近くまで釣り下がっている。クララはその綱の先を両手でつかんで、大きく振った。

 鐘は、鳴らない。

 前後に、左右に、強く、早く、どんなに綱を振っても、鳴らない。鐘の真下から見上げる。綱の先には、何もないようだった……鐘の内面にぶつかって、音を立てるべき金属製の分銅が見当たらなかった。ただの綱がぶら下がっているだけ。

(これは村人の、嫌がらせ?)

 このようなことが、前にもあった……ように思うのだが、やはり思い出せない。けど……。

(助けは当てにしない。なすべきをなす)

 柵の先、遠くを見る。灰色の点。一つではない。二つ、三つ、四つ……いや、もう数え切れない。半時間の余裕は、結局なかったのだ。けど、まだ何分かはあろう。

 全頭、建物にこもる。羊も、犬も、鳥も、猿も……そして、人間も。

(わたしは胡桃沢クララ。何にも負けない)


(続く)

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