第18話 あざなえるナポリタン
狼と羊飼い編 第二回
クララはアンナ達とカラオケに行くが…
保護者が1人来るとは聞いていたが、誰かの親だと思っていたので、その塾講師だと言うひげもじゃの男性が来たことに、クララは驚いた。けど、アンナ達はクララの困惑に気付く風もなく、その奈田という男性にごく気安く接していて、クララも緊張がすぐ解けた。
最初に飲み物と食べ物を注文する時、奈田先生は店員に「ナポリタン、ケチャップ大目で」と強い調子で言ったのだけど、アンナはメニューから目も上げずに「ケチャップは普通でお願いします」と言う。奈田先生がアンナの方を見て、何やらぶつぶつ言うが、アンナは「血圧が上がります」とだけ言って、取り合わない。クララはそれが何だかおかしかった。
(父親と娘ってこんな感じなのかな)
そう思って見ていると、奈田先生がちらっとクララの方を見て、すぐ目を伏せた。アンナ達には親しげなのに、クララにはよそよそしい。彼の方でも、クララが来ることは知らなかったようだ。けど、この年齢で、しかも教師なのに、まさか人見知り?
いきなりニイナが2曲続けて歌う。「1曲ずつ入れてよ」とダリヤが言うと、「入れるの遅いのが悪い」とニイナが返す。アンナはカラオケの機械のボタンやつまみをやたらといじくっている。他人が歌っている時に、音の調整法を研究しているらしかったが、ニイナは全く気にしていないようだ。
店員が、なぜか、ナポリタンだけを運んで来た。そしてなぜか、ケチャップがドバドバかかっている……けど、アンナは採点モードで童謡を歌っていて、気付かない。奈田先生は、ナポリタンにフォークを刺してグルグル回す。グルグルグルグル……巻き取られて行くナポリタンの塊が、どんどん大きくなる。目を細めて、うれしそう。
(けど、さすがに巻きすぎじゃない?)
やっと、飲み物と他の食べ物が来た。乾杯!
アンナが歌い終わって、もう一度乾杯した。アンナは「みんなが静かにしてくれないから点が下がった」とぐちるけど、ニイナに「ドンマイ」とだけ言われる。ナポリタンのケチャップの量には、まだ気付かない。奈田先生は気付かれるのを恐れるかのように、ものすごい勢いで食べる。もうなくなりそう。
「トイレに行かない?」
ダリヤが言う。クララは「うん」と言って、一緒に部屋を出た。
その店は、女子用と男子用、バリアフリーのトイレが、それぞれ別々の階にあるとのことで、クララ達は階段を下りた。
「先生はああいう見た目だけど、とってもいい人だから、安心して」
「ありがとう。みんなが仲良さそうだから、怖くないわ」
「そう。よかった。それに、ひげもじゃでわかりにくいけれど、すごく男前なのよ」
「それはわたしも思ったわ」
「そうでしょ? そうよね?……アンナやニイナは、なぜか気付かないみたいなのよ」
まだ男性に興味がないのかな?……クララは思ったが、口にはしなかった。
「あれ? 糖子先生?」
ダリヤはある部屋の前に立って、ドアにはめられたガラス窓の向こうを覗いている。クララが近付くと、ダリアは身を引いた。窓の向こうの室内では、ショートカットの丸顔の女性が、男性と話をしている。
「2人きりで……恋人かな……」
そう言うダリヤの顔は、なぜか寂し気に見える。
「奈田先生とは……違ったのかな……」
謎多き想い人、金平糖子の秘密を本人から聞くのは、念願であった……と、言えたかもしれないが、いざ実現してみると、嬉しいよりもつらいと感じる。でも、糖子が話してくれるのは信頼のゆえであり、その信頼に応えるために、つらくても真剣に聞かねばならない……峰生はそう思った。
「ピュアバースとピュアメイトは、PIを制御する唯一のシステムとして、泥瀬教授が責任者となって開発が進められたの。最初にピュアメイトになったのは、大学院生だった胡桃沢先輩だった。特に危険が予想されたわけではないはずだけど、教授が最初の被験者に身内を選んだのは、慎重だったと言えるのかもしれない。
先輩が脳出血を起こしたのは、個人的な体調が主要因だったのか、ピュアメイトになったことで必然的に発症リスクが高まったのかは、わからなかった。症状は軽くて、後遺症もなかったけど、実験の続行は危険視された。けど、勇敢なマリさんが後に続いて、とりあえず成功したことで、危機は乗り越えられた。先輩がピュアバースにおけるPIとの会話で、ピュアメイトは若い女性が好ましい、と聞いていたことが、マリさんの挑戦を後押しした。男性と違って、若い女性なら危険はない、という意味だと解釈もできたから。けど、当時はPIの開発も道半ばだったし、ピュアバースという夢の世界でPIが発した言葉を、どれだけ信用していいかわからなかった。だから教授も消極的だったのを、マリさんが志願して押し通したの。マリさんは既に先輩とは公然の仲だったから、先輩の代わりに自分が実験を成功させたかったのかもしれない、と、みんな言っていた。当時は誰も知らなかったけど、マリさんはピュアメイトになる前に、先輩と入籍していた。何があっても一緒、というつもりだったのね……多分。
マリさんもすぐピュアメイトに変身できなくなったけど、体には何の不調もなかったから、他の女子学生達は安心して後に続くことができた。
けど結局、やがては全員が適合しなくなった。ピュアメイトになれる人がいなくなって、PIを制御する方法がなくなり、プロジェクトは中止されることになった。けど教授は、PIに制御は不要だと言うようになって、プロジェクトの続行を主張し、他国の研究者達や、先輩と対立した。泥瀬教授が単独でも開発を続けると見て、先輩は教授の元を離れて外国の研究者の所に行き、ピュアバースの研究を続けようとした。
教授が計画してPIにやらせたのか、それとも当時、既にPIが自立していて、自ら計画したのかわからないけど、他国の研究者達は、やがてPIの観念を消されて、自分達の書いたPIに関する論文も、読解できなくなってしまった。世界で唯一、泥瀬研究所だけでPIの研究が続けられた。教授は先輩を説得して一緒に開発を続けるべく、先輩を呼び戻そうとした。マリさんが行くはずだったけど、妊娠がわかったので、代わりにわたしが行くことになった……というか、わたしが志願して行ったの。
そもそもマリさんが教授側についたことに、わたしは内心憤っていた。先輩がかわいそうじゃないの!……けど、チャンスだとも思った。マリさんの代わりに、わたしが先輩の味方になる。当時もう、わたしには二重スパイの意図があった。
先輩にわたしは歓迎された。その国にPIについて理解できる人間はいなくなっていたから、先輩には研究仲間がいなかったの。先輩みたいなピュアメイト経験者は、PIも観念を消せない。わたしみたいな半端者でもそうだった。わたしは、その国に残って一緒に研究するよう先輩に頼まれた。うれしかった。
一応、教授の命令通り、帰国してみんなで一緒に研究を続けましょう、とは先輩に言ったわよ。けど、マリさんが離婚届けも出していないし、それどころか子供もできた、とは言わなかった。マリさんに口止めされていたから。マリさんは、先輩に私情を離れて、純粋に科学者として判断してもらいたかったの……自身もそうしたようにね。わたしは同意できないけど、その姿勢は一貫している、とは思う。
子供の話を聞いたら違ったかもしれないけど、先輩は帰国を承知せず、逆にわたしを引き留めた。わたしには願い通りの展開。先輩がどうしても帰国しないので、私はスパイとしてそばに残ります、と教授には報告した。教授もそうしてくれ、と答えて、資金の送金も約束してくれた。本当にうまく行った、と思った……けど、そうじゃなかった。
問題は、ピュアメイトになれる人がいないこと。現地にはもうPIを理解できる人がいないから、志願者も募れない。わたしは、PIに門前払いを食らった身。先輩はもう一度、自分がトライするつもりだった。システムさえ改良できたら、男性でも安全にピュアメイトになれることを、先輩は証明したかったの。リスクが大きすぎるから、もちろんわたしは止めた。けど、止め切れなかった。わたしは結局、好きな人の願いを通してしまった。機材を持ち去るとか、強引な止めようはあったかもしれない。恨まれても、裏切者とののしられても、そうすべきだった。けどわたしは、できなかった。その結果、先輩は脳出血を再発して、今度は半身麻痺を起こした。
数年間、わたしはそばにいて、先輩を支えた。罪滅ぼしのつもりだった。けど先輩は、僕にかまわず帰国して、自分の道を進んでくれ、と、いつも言っていた。自分のせいでわたしを拘束しているのが申し訳ない、と。けど、わたしには、子供のことを黙っていた、という負い目もあった。言っていたら、先輩は帰国を承知していたかもしれないし、そうでなくても無茶はしなかったかもしれない。確かにマリさんに口止めされていたけど、わたしも言いたくなかったの。再発の後に、先輩に子供のことを告げて、謝った。君は悪くない、と先輩は言ってくれたけど、気が楽にはならなかった。
わたしにはもう一つ、進行形の負い目があったの。先輩の病気の再発とその状態を、マリさんに伝えなかったこと。教授には、治療費は送金するからマリさんには絶対言うな、と命じられた。先輩自身からも、内緒にしておいてくれと頼まれた。やっぱり心配をかけたくなかったんだと思う。それでも伝えるべきではないか、と葛藤はあった。伝えれば、出産後にでもマリさんが来てくれて、先輩の回復に良い影響を与えたかもしれないし、教授が多分恐れていたように、2人のよりも戻ったかもしれない。けどその場合、わたしの居場所はなくなってしまう。わたしよりマリさんの方が、先輩の回復の役に立つとも認めたくなかった。結局、教授と先輩の言うことを聞くことで、わたしはわたしの望むものを得たの。
先輩とずっと一緒にいて、そのお世話をして、少しずつだけど、体が良くなって行く喜びを共有もできて、ある意味、夢のような日々だったけど、それでもわたしは、つらかったの。何度も何度も、ありがとうともすまないとも言ってくれたけど、愛しているとは言ってくれなかったもの。先輩は、マリさんを愛し、まだ見ぬ我が子を愛していた。
先輩は体力が回復して、研究も再開し、ピュアメイトと違ってPIに対抗し得る能力はないけど、常時ピュアバースを監視できるアバターを開発した。ピュアバースで先輩は、幼い3人の少女達と会った……彼女達の方では、もう覚えていないみたいだけどね。先輩は考えた。彼女達が成長した暁には、ピュアメイトになって、世界を救ってくれるのではないか。けどその前に、彼女達を教授に取り込まれたら困る。教授の動きを身近で監視するために帰国するよう言われて、わたしは泣く泣く先輩の元を離れ、連絡を取りつつ、2重スパイを続けた。そして今は先輩も帰国して、また一緒に暮らしている。この状態がいつまで続くかわからないけど、その間は精一杯、できることをする。
世界中の人達には申し訳ないけど、PIによって世界がどうなるのかは、関心がないとは言わないけど、わたしは専ら先輩への愛に生きているから、優先度は低いの。けど、世界平和と先輩への愛という2つの目的は今はつながっているから、葛藤はない。
脳出血の再発直後は、ご飯もあーんして食べさせて上げていた。先輩はナポリタンが好きで、よく作って上げていたの。ケチャップは、トマトから自分で作ったのよ。香辛料を入れて、塩分を減らすの。わたしはそれ以来、ケチャップだけにはこだわりがあるの」
愛する人のそばにいられる幸せと、それでも愛されないつらさ……少しはわかる。けれど、それが毎日、何年も続くのは、どんなものなのだろう。禍福はあざなえる縄の如し、と言うけれど、幸せとつらさも、より合わされて表に出たり裏に隠れたりが、グルグルと果てしなく続くとしたら……。
糖子の愛する先輩は、糖子がグルグル大きく巻いたナポリタンの塊を、一口でパクッと食べたのだな……峰生は、とりあえずそれだけはイメージできた。
トイレを出て、階段を上がって部屋に戻ろうとしたクララは、振動音を聞いてバッグから携帯電話を取り出した。
「クララ? 今どこ?」
お母様の声。焦っているみたい。
「友達とカラオケ。ごめんなさい、黙って来ちゃって。後で電話するつもりだったの。保護者同伴だから安心して」
「すぐ帰ってらっしゃい」
「まだ来たばっかりよ」
少し離れて待ってくれているダリヤが振り向いた。帰りたくない。楽しい時間をもっと過ごしたい……クララは思う。
「教授が来ているの。あなたを待っている」
大おじ様が?……クララはただならぬ状況を察して、楽しい気分が吹き飛んでしまった。
(続く)




