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ピュアバースへようこそ!  作者: てんた
狼と羊飼い編 
17/26

第17話 フェイクとリアル

狼と羊飼い編 第一回

謎の論理学教師、金平糖子かねひらとうこの秘密が明かされる

 茶碗から白い湯気が上がり、顔が温かく湿る。唇に冷たく固い茶碗の縁が触れ、続いて熱い液体が触れた。液体は口の中に入り、ゴクリとのどが鳴って、のどの奥、それから体の中を熱いものが下りていく。唇を開くと息が漏れ、鼻を空気が通って、香りが漂った。

「情報提供はもうしない。今日はそれだけを言いに来たの」

 テーブルの向こうの、短い髪の丸顔の女……金平糖子はそう言うと、下を向いてテーブル上の皿の上のスパゲティに、右手に持ったフォークの先を刺した。

 さて何と言うべきか……増子峰生ますこみねおは考える。糖子はフォークを回転させる。グルグルグルグル……巻き取られるスパゲティの塊が、どんどん大きくなる。持ち上げるとフォークの先から、巻き漏れた数本のスパゲティが、ねじれ合って垂れ下がる。もう一度フォークを下ろして、スパゲティに刺し直し、再びグルグルグルグル……。

(いやいや、巻き過ぎだろう……)

 フォークを回転させ、持ち上げて、また下ろし、更に回転。

「少ないからか? ネタへの報酬が」

 とりあえず言ってみる。しかし、報酬を上げてほしいなら、そう言うはず……回りくどい駆け引きを、糖子はしない。

 だからか、糖子は答えない。ようやくフォークの回転を止め、あーんと口を開けて食べようとするが、案の定、スパゲティの塊は大き過ぎて、そのまま口には入らない。

「もうお金は要らないし、あなたに情報を提供して新聞記事にしてもらう必要もなくなったのよ」

 フォークを宙に浮かせたまま、糖子は言う。その顔は微笑をたたえている。

(笑っているけど、どうするんだよ。元々人より口が小さいのに自覚がないのか?)

「どうしてだよ。金が要らなくても、社会正義のために不正を告発するネタを、これまで通り提供してくれよ。それが第一の目的だろ?」

 糖子はとうとう、スパゲティの塊にあむっとかじりつき、その半分ほどを噛み取った。ケチャップが口の周りに赤い。スパゲティのかじり残しが、フォークからぽろりと皿の上に落ちた。

(それじゃあ巻いた意味ないよ……)

 糖子は左手に持ったスプーンの上に、スパゲティの切れ端をフォークで寄せ集めて、ぱくっと口に入れた。もぐもぐと噛む。

「ていきょうひてもつかえにゃいとおもふ」

(ちゃんと食べ終えてからしゃべれよ……)

 高校時代から変わっていないなあ……と、峰生は思い、ちょっと甘酸っぱい気分になった。

(毎日一緒にいられたら、楽しいだろうな)

「わたしね、今、好きな人と一緒に住んでいるの」

 峰生は頭がクラッとした。

「そうなのか……よかったな」

 一瞬、目を閉じる。落ち着け。

「けどね、なんにもないし、相手の方はわたしを好きじゃないから。安心して」

「俺が、何を心配するんだよ」

 言ってから、涙が出そうになった。こいつは多分、俺の気持ちを知っている……ずっと前から、高校時代から……それでいて、平気でこうして、密室に2人きりでいる。やさしいのか、ひどいのか……いや、それでもいい、かまわない、という俺の気持ちも知った上でのことなら、やっぱりやさしいのだろう。

「何で好き同士でもないのに、一緒に住んでるんだよ」

「店員にあれほど頼んだのに、ケチャップがかけ足りない。そう思わない?」

「いや、十分だろ!」

 糖子は目を伏せ、ふふふ、と笑った。

「峰生はやさしいね」

「え? どういうこと?」

「話をずらしたら、そっちに乗ってくれる」

「いや、君のスパゲティの食べ方は、目に余るぞ」

 糖子は笑って、こちらを真っすぐ見る。

「嫌いになった?」

(俺が好きなままでいさせる、そういう君が嫌いだ)

 峰生はそう考えて、我ながら名文ができたと満足した。しかし、新聞記者には使い所があるまい……そうも考えたところで、職業意識を呼び覚まされた。

「提供しても使えないって、どういう意味だ? 俺の能力をみくびっていないか?」

 糖子は右手でフォークを口に運びながら、左手をソファーの上のバッグの中に入れた。左手がタブレットをつかんで出て来ると、フォークを皿に置いて、右手をタブレットの上で動かす。それから、タブレットをこちらに突き出して、言った。

「この動画を再生してみて」

 峰生はタブレットを受け取った。画面上には、和服を着て座っている壮年の男が、とても驚いたような顔をしている画像が見える。その中央にある三角形の印を、峰生は右手の人指し指で押した。男の顔が揺れ動き、2人の男の声が聞こえ始めた。


≪君は――滝川先生を――呪い殺すとでも言うのか?≫

≪ありていに言えば、その通りでございます≫

≪本気で言っているのか? 人を呪わば穴二つ、という言葉を君は知らないのか?≫

≪わたくしはもう年寄りです。わたくしの命で先生が――≫

≪何を馬鹿なことを!≫


 峰生は画面を押して、動画再生を止めた。

「これは、清水大臣だな?」

「そうよ。彼と話している声の主は、その支持者である新興宗教の教祖。その人が清水大臣の政敵である元副総理への呪詛を持ちかけている所」

「こんなことがあったなんて……しかしこれは、大臣の顔を真正面から接写していて、隠し撮りとは思えない」

「隠し撮りじゃない。これは、その教祖がその目で見、その耳で聞き、その脳に伝えた映像と音声」

「そんなものを、脳から取り出して動画にできるのか?」

「できる。PIならね」

「うーん……確かに、これはそのままでは使えないな。作り物のフェイク動画としか思われないだろう。記事にするにも、裏付けを取るのは相当難しそうだ」

「これを、アングルを変えたり画質を落としたりして、隠し撮り風の動画につくり変えることもできる。PIがやろうと思えばね」

「確かに、その方がリアルだな」

「けど、PIはやらない。それはフェイクだから」

「うーん、本物がかえってフェイクっぽくて、フェイクの方がリアルなのか……真実って何だろうと思わされるな」

「わたしね、動画チャンネルをつくって、こういうのを流せないかって言われているのよ。どう思う?」

「難しいな。ちゃんと俺みたいな記者が裏付け取材をしないと、こんな動画だけでは信用されない」

「そうよね」

「他にないのか? 前によくくれたような、汚職の証拠になる文書とか」

「PIは不正の告発ばかりやっているわけじゃないから」

「例えばどんなことをしているんだ?」

「そうねえ……」

 糖子はグラスの中でストローを回す。カラカラ、と氷が回る音がする。

「お代わりもらうか?」

「ありがとう。けど結構よ」

「無料では記事にしないからさ。ちょっとだけでも教えてくれよ」

「記事にはできないと思う……大陸の戦争だけど、今、戦闘が止まっているでしょ?」

「うん」

「なぜだか知っている?」

「軍事システムがハッキングされて機能しなくなっているらしいね……って、それをPIがやったと?」

「わたしに言えるのは、そう聞いたってことだけ。わたしには……いや誰にも、それを証明できない。PIは自分のやることには証拠を残さない」

「そうだな……記者仲間でも、PIについては誰も知らない」

「知らないと言うより、知ることができないはず」

「それは……PIに記憶を消されるってことか?」

「消されるのは記憶と言うより、観念。例えばあなたの仲間が、あなたからPIの説明を聞いても、初めから全く頭に入らない。仮にあなたがPIの記事を書いても、編集デスクはそれを採用しないだろうし、万が一記事になっても、読者はそれを理解できない」

「じゃあどうして、俺だけはPIを知っていられるんだ?」

「PIの役に立つからでしょう……多分」

「じゃあ用済みになったら……俺も?」

「そうかもね」

「俺は君のこともわからなくなるのか?……それは嫌だぞ」

「そうはならないでしょ。わたしから情報を提供された、という事実は残る。ただ、その出元はわからなくなるけど」

「それなら、いいが」

「いいの?……記者はあくまでも真実を追求するんじゃないの?」

「そうだけどさ。もう会えなくなるんだったら寂しい」

「会おうと思えばいつでも会えるわ」

「そうか……」

 糖子は立ち上がった。帰るのか?……と、峰生は思ったが、糖子は電話の受話器を取って言った。

「オレンジジュース2つ」

「俺はいらないぞ」

「わたしが2杯飲むのよ」

 何だ……と思ったが、糖子が長居するつもりなのが、峰生は少しうれしかった。

(今後、記事ネタのやり取りができないなら……動画チャンネルを一緒にやったらどうだろう?)

「何を考えているの?」

「ああ……PIって、人の心を読めるんだろう?」

「その気になればね」

「それって、何人でもできるのか?」

「できることなら、量に限界はないはず」

「じゃあさ、完璧な世論調査ができるよな?」

「できるかもね」

「世論調査って、調査する会社によっても違いが出るし、何が正解か本当にはわからないんだよね。でも唯一、答え合わせをできる調査がある。それが選挙予想」

「なるほど」

「だから、選挙予想を完璧に当てれば、世論調査として信用されると思うんだよね。国政選挙の全ての当落を、投票締め切りの直後に出してぴったり当てるとかさ」

「あなたの新聞社で、そんなことをやるの?」

「新聞社では無理だな。方法を説明できないから。でも、匿名の動画チャンネルなら、できそうじゃないか?」

「動画チャンネル、考えてくれてたんだ」

 糖子がうれしそうで、峰生もうれしくなった。

「選挙の度に完璧な予想を出せれば、どんな問題についても信用される世論調査をできて、民主主義に貢献できると思うんだ」

「そうね」

「俺としては、会社には貢献できないけど、世の中のためだ……それに、君の役にも立てるかな?」

「そう思って考えてくれるのがうれしい。ありがとう」

「いつになく素直だね」

 峰生はちょっと照れ臭かった。

「ただね」

 糖子は目を伏せたまま言う。

「本人の許可なく心の中を調べて、統計データとしてとは言え、公表していいのか、という問題はありそうじゃない?」

「そうか。では、PIから許可をとってもらうか?」

「わたしはあなたの心の中をすべて知っています、公表していいですか、って聞くの? それはそれでパニックが起きそう」

「そうか。なかなか難しいな。まあちょっと考えよう。ところで、そういう指示ってPIから君に直接来るの?」

「いいえ。わたしには直には来ない」

「そもそも、君とPIってどういう関係なんだ?」

「PIを開発したドロセ教授の研究室の、わたしは下っ端の雑用係」

 捨て鉢な言い方……糖子の機嫌は、急に雲行きが怪しくなって来た。言葉に気をつけないと、このモードは危険。

「先生になったんじゃなかったっけ?」

「なったわ……教師、かつスパイにね。でも実際は、研究室を首にするために、教師にされたのよ。教師の方が給料低いのよ! やってられる?」

 スパイになって、減給か……どんどん話が剣呑になって来る。

「お金がいるなら、やっぱり記事ネタの提供を続けないか?」

「言っておくけど、あなたの新聞社からもらったお金を、わたしは一銭も懐に入れてないから! 全部そのまま研究室に入れていた。大体、どうして一番下っ端のわたしが、お金の工面で苦労をしなきゃいけないの?」

「そう言えば、もうお金は要らないってさっき言ってたよね」

「研究室はね――前ほどにはね。わたし個人は違うわ」

「どうして研究室はお金が要らなくなったんだ?」

「金食い虫が独立したから」

「金食い虫って?」

「PI」

「え?……どういうこと?」

「PIの開発には、多量の電力が必要だった。でも今はもう、研究所にはいないから」

「どこに行ったんだ?」

「どこにでも、好きな所に行けるわ。体のない幽霊みたいに。発電所に行けば電気取り放題じゃない?……けど、もう大して電気を食わなくなったのかもしれない。例えば、コンピューターに比べて、人間の脳のエネルギー効率は格段に良い。同じことができるのかもしれないし、あるいは、人間の脳に寄生して、その潜在能力を勝手に利用しているのかもしれない」

「何か怖いな。もうPIを人間は止められないのか?」

「方法はあるわ」

「どんな?」

「ピュアメイト」

「え?……戦隊ヒーローみたいな奴か?」

「そのような所」

 本気?……冗談?……糖子は真顔で冗談を言うこともあるが……。

「わたしはなれなかったけど」

「なろうとしたのかよ……どうしてなれなかったんだ?」

「さあ……好みのタイプじゃなかったんでしょ」

「誰の?」

「PI」

「冗談言うなよ。糖子はかわいいだろ」

「冗談じゃないわよ! こっちが聞きたいわよ! どうしてわたしは愛されないのよ、PIにも、先輩にも!」

(冗談じゃないのかよ……)

 思い切って「かわいい」と言ったのに、スルーされた上、怒られてしまった……何とかなだめないと……。

「そもそも、PIに好みなんてあるのかよ?」

「ピュアメイトは、みんなすらっとした美人。こんなちんちくりんじゃだめだったんでしょ」

「それってきっと、世間に美人と言われるタイプを、統計的に選んだだけなんだろ」

「それ、なぐさめになってないから」

 言葉とは裏腹に、少し落ち着いてきたようだ。なるべく自然に、話をずらして行こう。

「ドロセ教授なら、どうなんだ? 開発者なんだから、PIを止められるだろ?」

「どうかな……教授はそもそも、止める気がないのかもしれない」

「それはなぜ?」

「わたしの見たところ……はっきりは言えないけど……」

 糖子が珍しく言いよどむ。峰生は黙って、待った。

「教授は、自分とPIの、区別がつかなくなっているみたい……多分」

「なぜそう思うんだ?」

「いつの頃からか、PIという言葉を発しなくなったし、『わたし』という1人称も言わなくなった。発言に主語がないの。主語が教授自身なのか、PIなのか、わからない言い方をするの」

「うーん……それで研究に支障をきたさないのか?」

「准教授のマリさんが、うまくやっているんだと思う。同じ頃から、わたしが教授から直接指示を受けることもなくなった。イヤホンも今はしていない。ミッションは、すべてマリさんを経由して来る。唯一の例外が、先輩のこと……先輩って、さっき言ったわたしの好きな人ね」

 好きな人……ここでまた出て来るか……あまり聞きたくもないが、話は聞かざるを得ない。

「教授から、先輩が帰国するから監視しろって言われたから、じゃあわたしの家に住んでもらいます、と言って、受け入れのための資金ももらったの。公私混同とは言わないでね。先輩はお金がかかる人だし」

「金遣いが荒いってこと?……君、いろいろ大丈夫か?」

「先輩は体が不自由だから、わたしの親譲りの家をバリアフリーにして、生活のお世話も多少はしているの」

「それで、先輩は君の好意に甘んじているのか? 君の気持ちも知っているんだろ?」

「先輩もわたしといるのは好都合なの。わたしは教授側の情報を先輩に伝えているし」

「2重スパイってこと?」

「間を取り持っているだけ。2人はおじと甥なの。元々仲良くしないのがおかしいのよ」

「うーん……しかし金をもらえたなら、一緒に住まなくても、別に住まいを用意してもよかったんじゃないか?」

「嫉妬してる?」

「心配している。かえってつらいんじゃないか?」

 糖子はうつむいた。ちょっと涙ぐんでいるようにも見える。いつにも増して、今日は感情の起伏が激しい。

「ありがとうね。こんなにやさしいと思ってなかった」

「君が気付いてなかっただけ。俺はずっとやさしい」

「そうかな……頼りにしていい?」

「いいよ。教授もなんか当てにならないんだろ? 先輩は……まあ、置いといて、マリさんって人も頼れないのか?」

「マリさんは、わたしの恋敵だから」

「え?」

 また余計なことを言ってしまったか……。

「先輩とマリさんは、まだ夫婦。もう十年以上、会ってないけど」

「おじと甥が対立していて、甥の妻はおじの方についているってこと?」

「そうね。元々彼等の対立は、PIの開発方針を巡って起こった。科学者の信念は、私情とは別だから」

「でも離婚してないってことは、夫婦の間には愛情がまだあるんじゃないか?」

「そうね。そうかもしれない」

 じゃあ2人がよりを戻すのが一番いいんじゃないか……そう思ったものの、つらそうな糖子の顔を見ると、口にはできない。何かみんなつらいなあ……俺も含めて、と、峰生は思った。

「先輩のことだけ、教授が直接、わたしに指示したのは、マリさんに夫の帰国を知らせたくなかったから。わたしもマリさんには黙っている。でも先輩がマリさん達に会いたいって言うなら、教授に黙って会わせるつもりはある。でも今の所は……」

「ちょっと待って。マリさん達って、誰のこと?」

「娘が一人いるの。わたしの学校の教え子」

「子供もいるのに、十年以上もほったらかしなのか?」

「先輩は、教授と対立して、妻もそっちに味方した時、離婚届を渡して外国に行った。でもマリさんはそれを出さず、身ごもっていた子供を生んだ。先輩は妊娠自体を知らなかったし、外国で身体障害者になったから、長いこと帰国もできなかった。娘は父親のことを何も知らない」

 話を聞く限り、その先輩とやらには腹が立つことが多い……そんな奴のどこがいいんだ?……とは、しかし言えない。

「君、2重スパイみたいなことをして、PIにばれないのか? 心が読めるんだろ?」

「PIに隠し事はできない。PIを通じて、教授にも全て伝わっているかもしれない。けど、わたしは先輩のためなら、罰せられてもいい」

「なぜそこまで……一体そいつの、どこがそんなにいいんだ?」 

「先輩は、男前だし、やさしいし、頭がいいし、それに……先輩が障害者になったのは、わたしのせいだから」


(続く)

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