第14話 来たりて笛を
ハーメルンの笛吹き編 第二回
お母様はクララに、ピュアバースやピュアメイトのこと、そしてゴーグルの使い方を教えてくれた。しかし、それをいつ使って、ピュアバースでどうしろ、という指示はない。
大おじ様も、リモート会議の後はゴーグルを送って来ただけで、何も言って来ない。
(やると言った以上は、すべて自分で考えてやれ、ということ?)
けど、その方がいい、とクララは思った。
学校に行けば、アンナに会う。けど、もう様子を探るようなことはしない。
(ピュアバースで直接向き合う。こそこそするより、その方がいい)
そもそも、学校で話をつけたらどうか。そうも考えたが、やはり嫌だった。クララは学校が好きだった。学校では楽しく過ごしたい。ミッションを忘れて……。
(わたしは、ピュアバースでピュアメイトになる。わたしのプライドも、お母様の名誉も守る。あとは、やりたいようにやる。わたしは胡桃沢クララ。何にも負けない。大おじ様にも……服従はしない)
「クララ……目覚めよ」
声がして、目を開けると、見知らぬ少年の顔……誰?
クララは半身を起した。薄い毛布、硬い寝台。明るい青空が覗く開いた窓を背に、少年はカラフルな派手な衣装を身にまとって立っている。
「さあ、立って窓の外を見なさい」
高く細い声。声変わりもまだしていない。
クララは寝台脇の床に両足を下ろした。見たところ履くものがないので、素足のまま立って窓まで歩く。
隣に少年が立つ。細面の、きれいな横顔。身長が同じぐらいなので、顔が近い。ちょっとドキドキする。
「道の上を見てごらん」
クララは視線を窓の外に落とした。その部屋は2階にあるようで、地上までは落差があった。建物が並ぶ前の道を、何か小さな、黒いものが、無数に列をなして進んでいる。
「ネズミ達が、逃げ出している。この町に、危機が訪れようとしている。ネズミ達は、それを知っている。あなたも今、それを知った。では、あなたはどうする?」
クララはハッとして少年を見た。少年もまた、クララを見つめている。きれいな、しかし、感情のない顔。
「どうするって……」
何が何だかわからない。そもそも、あなたは誰?……いや、その前に、わたしは誰だっけ?
「今日はジャン・ポールの祭日。町の外からも、大勢の人が来る。芸人も出稼ぎに来る。そこに何かが起きれば、被害は大きい。ネズミ達を追って逃げるべきだ。そう思って、町の役人に掛け合って来た。でも、誰も信じない。余所者の芸人には信用がない。どうする? 自分だけ逃げるか?」
「助けないと!」
クララは急に胸が高鳴った。できることをして、なるべく多くの人達を助けなきゃ。
「そうだ。まだ間に合う。あなたはできるだけ多くの人を集めて、町を出よ。ネズミ達が進む方向に、道を進め。川を橋で渡れば、上り坂になる。その先の山の中の洞窟に、当座の食料を用意して、待っている」
「けど、どうやって人を連れ出したらいいの?」
「あなたには、芸の力がある」
少年は、かたわらのテーブルの上から、細長い皮の袋をつかみ上げて、クララの前に突き出した。両手を出して受け取る。
「お湯は冷めてしまったが、まだ冷たくはない。顔を洗ったら、階下で朝食を摂りなさい。昼前には、広場で出番がある。宿の払いは済ませて置く。先に出る」
少年は言うだけ言って、さっさと出て行ってしまった。結局、名前すらわからない。
皮袋から、中身を取り出す。木管……横笛。
これなら、リコーダーとフルートの経験で何とかいけるかな?……栗木さんありがとう……あれ……クリキさんって、誰だっけ?……。
クララは道を歩き始めた。下を向くと、カラフルな派手な衣装が目に入る……他に着るものがなかったから、しょうがないけど、ちょっと恥ずかしい……。
太陽は天頂近くまで上っている。もう昼間だ。少し行くと、円形の広場に達した。色とりどりの旗があちこちにひるがえり、露店が並んでいる。既に大勢の人がいる。
広場からは、道が八方に伸びている。え……どれが山に行く道?
群れに取り残されたらしいネズミが数匹、同じ道に走り去る。あそこね……人々は誰も、ネズミを気にしていない。話したり笑ったり、にぎやかで上機嫌。祭りを楽しむ、平和なムードに満ちている……本当に、危機が訪れようとしているのだろうか?
「お姉さんは、魔法つかい?」
幼女が、話しかけてきた。弾むような声。目はきらきら輝き、肌は上気している。皆、お祭りを楽しみにしているんだ……そこに一体、何が起きるのだろうか。
クララはほほ笑んで、幼女の頭をなでた。が、何も言わなかった。それでも子供は満足気だった。
わたしは芸人として期待されているんだ……そう感じて、クララは緊張感が高まった。
「遅いよ! すぐ出番ね」
山高帽を被った、恰幅のよい男性が声をかけて来た。クララの左ひじを手に取って引っ張って行く。え、待って……もう?
数段の石段を上って、大きな建物の前の広い石畳に立つと、石段の下に集まっていた群衆から、拍手が起きた。クララは頭が真っ白になった。
「こちらははるばる地の果ての国からやって来た、笛の名人。名前は……」
山高帽の男がちらっと見るので、クララは何とか小さな声を絞り出して「クララ」と言った。
「名はクララ。では、その名人芸を披露していただこう!」
もう一度、先ほどより大きな拍手が沸き起こった。
落ち着け。クララは自分に言い聞かせた。
革袋に右手を入れ、左手で袋を引いて、笛を取り出す。袋はどうする……もう面倒だ。パッと地面に捨てた。すると、群衆からどっと歓声が上がった。気持ちがいい……クララは少し落ち着いた。皆が自分の一挙手一投足に注目している。
笛の端を右手の指でつかみ、左手は掌を前に、下から差し入れ、その指で笛の中程を掴む。両手を思い切って右側に持って行くと、吹き口が顔の前に来る。唇を当て、すぼめて、息を送る……。
音は、出ない。
辺りはしんと静まり返っている。頭に血が上り、顔が熱くなる。しかし、何度息を送っても、音は出ない。なぜ?……笛の端から、中を覗いてみた。穴が…貫通していない。何かが詰まっているのか。しかし原因がわかっても、今ここではどうしようもない。まだ期待して待ってくれている目の前の人々……その顔にも、ようやく不審気な表情も見え始めた。どうする? 謝る? 逃げる?
(わたしは胡桃沢クララ。何にも負けない)
突如として、そのフレーズが頭に浮かんだ。なぜかはわからない……けど確かに、クララは勇気が湧くのを実感した。クララはほほ笑んだ。そして、声を張り上げて言った。
「この笛は音が出ません……なぜなら、穴が開いていないので」
笑い声。さっき声をかけて来た幼女の、楽し気な笑い声が響いた。いいよ、ありがとう! それに釣られて、笑いが広がった。アクシデントを、芸に見せる……うまくいけるかも。
「皆さん。楽器がなければ、音楽もない。そう思いますか? そもそも、音楽って何でしょう?」
クララは話しながら、次の言葉を考える。焦らなくて良い。観衆は、急いでいない。
「風の音、雨の音、鳥の声、川のせせらぎ。耳に心地よい音、心に響く音。それらはみんな音楽では?」
「そうだ!」
声が上がった。クララは声の上がった辺りを見て、正確に誰が言ったかはわからなかったけど、ほほ笑んでうなずいて見せた。
「そして音楽の楽しみは、聞くだけでなく、自分で音を奏でるところにもあります。それは、高価な楽器がなくてもできます。皆さん、ご存じですよね?」
そうだ、の声は無数に上がった。クララは楽しくなって来た。自然に笑顔になる。
クララは咳払いをした。それが合図となり、皆が静かになる。クララは歌い始めた。
童はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ
紅におう 野なかの薔薇
手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇
童は折りぬ 野なかの薔薇
手折りてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ
紅におう 野なかの薔薇
(※「野ばら」原詩:ゲーテ 訳:近藤朔風)
一曲を歌い終わると、拍手と喝采が鳴りやまない。観衆の熱狂に、クララは感動した。うまく行きすぎて怖いくらいだった。
けど、これで終わってはいけない。わたしには、ミッションがある。
「さあ皆さん、わたしと歌いながら、行進しましょう!」
歓声が上がった。我ながら、理屈も何もない。けど今なら、今だけは、熱狂の内にこの人達を町から連れ出せる。
山高帽の男性に止められるかな、と危惧したが、彼自身が熱狂しているようで、率先して付いて来る。クララは先頭に立ち、ネズミが去った道に進んだ。何かを歌わなきゃ、と思ったが、誰かが勝手に何かの歌を歌い始め、それは皆が知っている歌のようで、自然に大合唱となった。
これをお祭りの正規の行事と思ったか、道を行く内に後から加わる人もいて、行進は見たところ、百人をゆうに超えた。両親らしき男女に連れられた先ほどの幼女もいて、クララは手を振った。
川を橋で渡ると、上り坂になった。しかし、皆の士気は衰えない。クララの知らない歌を次々と歌っては、元気に上って行く。聞く内に覚えたフレーズをクララが歌うと、どっと歓声が上がるのが心地良い。
山道は大分険しくなって来た。そろそろ少年が待っているかな……そう期待するクララを、待っていたのは別の人達だった。
道化師のような、派手な格好……でもその顔は、見間違えようもない。アンナと、ニイナ、ダリヤ。けど、なぜ彼女達がここに?
「ここから先は進ませない」
アンナが、クララを真っすぐ見つめて言った。
(続く)