第13話 音楽の授業は廃止します
ハーメルンの笛吹き編 第一回
「金平糖子」
女は黒板に字を書き終えると、生徒達の方に向き直った。小柄で丸顔、ショートカット。
(かねひらとうこ……いけ好かない女)
その隣に立っていた、担任の先生が話し出す。
「金平先生は、音無先生の代わりに来てもらったわけですが、受け持つ教科は音楽ではありません。音無先生の退職を機に、音楽の授業は廃止することになりました」
「えっ」という小さな声が、前方から聞こえた。2つ前の席の、狩屋アンナの頭が少し動いていたから、彼女の声だろう。他の生徒達は全く無反応なのが少し怖い。
「金平先生には、論理学を受け持ってもらいます。では、先生にご挨拶をいただきます」
その丸顔の女は、思いのほか、声が低い。
「金平です。よろしく」
その時、イヤホンから声が聞こえた。
≪論理学について質問せよ≫
手を上げ、許可が出る前に、立ち上がる。わたしなら、許される。
「金平先生、質問です」
「どうぞ」
驚きもしない。やっぱりいけ好かない。
「論理学とは、どのような学問でしょうか?」
「あらゆる学問の、基礎となる学問です。わかりやすく言えば、語学と数学の総合です」
これ、わかりやすいの?……けど、まあいいわ。
「ありがとうございます。とても楽しみです。よろしくお願いします」
振り向いてこちらを見ていた前の席の栗木さんが、拍手を始めた。拍手は他の生徒達にも広がって、新しい先生を歓迎するムードができた。栗木さんは、気が利く。
「では、他の組にも挨拶に行って来ますので、授業が始まるまで少し待っていて下さい」
担任が言い、金平糖子をうながして、引き戸を引き開けて二人で教室を出て行った。
「ねえ栗木さん、あなた吹奏楽部よね? 音楽の授業がなくなるの、嫌じゃなくて?」
「とんでもございませんわ」
栗木さんは、待ってました、とばかりにしゃべり出す。
「わたし、確かに音楽は好きですけれど、吹奏楽部は練習がつらくてこりごり。授業も楽しくない。音楽は、聞いているだけでいいですわ」
「そうなの?……けど、聞くためには誰かが演奏しないといけないのだから、音楽教育はやっぱり必要じゃなくて?」
栗木さんの前の席の狩屋アンナは、下を向いて授業の準備をしている風だけど、わたし達の会話に聞き耳を立てているわ……多分。
「それは、プロになりたい子だけ学べばいいと思いますわ」
「そうかしら……どう思います? 狩屋さん」
狩屋アンナは、名前を呼ばれてさすがに振り向いた。栗木さんはさっと椅子をずらして、アンナの顔がよく見えるようにしてくれる。右手を伸ばして栗木さんの左肩にそっと置くと、栗木さんは左手をその上に重ねた。ありがとう、どういたしまして。栗木さんは本当に気が利く。
「音楽の授業がなくなるのには驚いたし、腑に落ちません」
アンナが真剣な顔で言う。この子は、いつも真面目。だから嫌いじゃない。
「音楽はお好き?」
「わたしは本が好きで、音楽は特に好きなわけではないけれど、授業は楽しいし、必要だと思う」
「どういうところが楽しい?」
「例えば、楽譜の読み方。音を記号で表現できるって、すごいと思った。ベートーベンが聴力を失っても、作曲ができたのは、楽譜のお陰でしょう?」
こう言ってアンナは、真っすぐこちらを見つめる。澄んだ、きれいな目。
ベートーベンは、わたしの暗喩?……耳が悪くて補聴器をつけている――ことになっている――わたしが、それでも音楽の成績がいいことを、ほめている?……相手によっては、障害を揶揄する悪口とも取られかねないけど、この子は気にしない。真意は必ず伝わると思っている……多分。
「狩屋さんって、物知りですわね!」
アンナの更に前の席から、柿本さんが大きな声を出した。会話に入りたくて、機会をうかがっていたのね……かわいいこと。この席の並びは、悪くない。アンナを自然に仲間に入れられる。
「柿本さんはどう思いまして? 音楽の授業について」
柿本さんは立ち上がって、そばに近付いて来た。遠くて話しづらいのはわかるけど、これはだめ。アンナが会話の輪から離れてしまう。
「わたくしも、なくなっていいと思いましたわ。眠くなってしまうのですもの」
柿本さんに声を掛けて、しくじった。アンナは前を向いてしまった。愛想のない子。一見大人しそうだけど、物怖じしないし、人には流されない。それなのに、みんなに人気がある……いや、それゆえに、かもしれない。何しろこの子以上にモテモテなのが、高飛車お嬢様のこのわたし、胡桃沢クララなのだから……。
「クララ、準備はいいわね」
お母様が言った。クララ同様、イヤホンは外している。イヤホンに「ミッション」を伝えて来る相手と、これから直接話すのだから。
大おじ様を、お母様は「教授」としか呼ばない。親族というより、上司と部下……いや、師匠と弟子。
お母様はパソコンを開き、パスワードを入力した。
「intellectus_purus」
インテレクトゥス・プールス……これはラテン語。英語で言えば、ピュア・インテレクト。クララとお母様は、大おじ様に仕えている。そして大おじ様は……PIに仕えているの? 大おじ様はPIの開発者の1人。けど今は、彼がPIを支配しているのか、PIに支配されているのか、クララにはわからない。
パソコンの画面に、初老の男性の顔……大おじ様。リモート会議が始まる。以前は家にもよく来てくれたけれど、最近は専らリモート。お年玉や誕生日プレゼントも、さっぱりくれなくなった。言葉づかいは相変わらず丁寧で、表情も温和だけど、話す内容は結局は指示、命令。お母様は大おじ様を神のように尊敬しているから、それでもいいみたいだけど、クララは以前のような親族らしい私的な会話がしたい。
クララには父親がいない。けど、それを言うとお母様は、いると言う。どこにいるの、と聞くと、外国にいると言う。確かに、戸籍上は離婚も死別もしていないらしい。けど、帰って来ることはないし、手紙も電話も寄越さない。せめてどんな人なのか知りたくて聞いても、お母様は答えない。つらそうなので、クララはもう聞かない。まだ見ぬ父親に今はもう、恨みも期待も持っていない。
だからクララは、大おじ様を父親の代わりのように思っていた時期もあった。けど、今はもう、その考えもない。
「こんにちは、マリ君、クララ。今日はありがとう。直接会えなくて済まないね」
大おじ様が話し始めた。口調は柔らかなのである。
「お元気そうで何よりです、教授。わたしもクララも元気です。どんなミッションも果たす用意がありますので、ご遠慮なきようお願いします」
お母様。こちらは言うことが固い。
「ありがとう。君達の協力には本当に感謝しています。今は事態が急変していて、とても大事な時です。何分一つよろしくお願いします」
下手なことを言うとお母様に怒られるので、クララは黙っている。それでも話は支障なく進む。
「最近の発見として、美というものが不合理であるとわかりました。その場合、人工の美であるところの芸術もまた、不合理ということになります。そこで、とりあえずは音楽から、制限を始めます。他の芸術は実用から観賞用に発展した歴史がありますが、音楽は観賞用として始まり、その後一部が実用にも転じただけで、最も純粋な芸術と言えるでしょう」
来たわ。どうしてこんなに恐ろしい内容を、こんなに柔らかく言えるの?……我慢できず、クララは声を上げた。
「今日、学校で音楽の授業が廃止されました。いきなり過ぎます」
「そうだったね。でも、クラスのみんなの反応も、悪くなかったのだろう?」
「それが不自然です。PIがみんなの心を操作していたのではないですか?」
お母様が、クララを睨んで、口を挟む。
「PIはその気になれば、あらゆる人間の意識をコントロールできる。けど、PIは人間の幸福のためにこそ行動するのだから、そんなことはしない。口を慎みなさい」
「マリ君、まあまあ。クララ、音楽が好きというのと、音楽の授業が好きというのは違う、ということではないかな?」
「音楽が好きで、吹奏楽部に入っている栗木さんが、授業を嫌なはずはありません」
「それでも、吹奏楽部の練習が厳しいのは嫌だったんじゃないかな? その本音が素直に言えるようになったのなら、彼女にとって、状況が好転したとは言えないかな?」
「きつい練習が嫌なのは本当でしょう。でもそれは音楽に限らず、どんな部活動にもあることだと思います。そのことで音楽そのものがなくなれなんて、思うはずがありません」
「クララ。教授にそういう態度はやめなさい」
「構わないよ、マリ君。何が何でも音楽をなくそうとしているわけではない。人間の幸福のために何をすべきか、選択するためにはまず人間の志向を知らねばならない。今回はそのためのトライアル。うまく行かないなら改善して行こう。しかし、いくら良いことをしようとしても、ピュアメイト達が現われて、邪魔をする。その1人である狩屋アンナはどんな様子だったか、教えてほしい」
報告以前に、大おじ様はPIを通じて全て知っているんでしょ? 栗木さんの反応を知っていたように……クララは思ったが、口にはしなかった。これ以上大おじ様に逆らったら、お母様が怖い。
「彼女は……少なくとも彼女だけは、音楽の授業がなくなることに、納得していませんでした」
そしてそれは、彼女だけが、PIに心をコントロールされていないから……大おじ様、そうなの?
「彼女は厄介だ。納谷ニイナと、戸和ダリヤも。そこで、クララには、ピュアバースに入って、彼女達の行動を抑えてほしい」
「それはできません」
お母様が間髪入れずに拒否したことに、クララは心底から驚いた。お母様が大おじ様に反抗したことは記憶にない。
「できない、とはどういう意味かな? すべきでない、という意味か、それとも、する能力がない、ということか。どっちかね?」
大おじ様は表情も、声のトーンも変わらない……けど、口調がもいつもより速い。怒っている……のかもしれない。
「両方です」
クララはショックを受けた。アンナやニイナ、ダリヤにできることが、わたしにはできないと?
「アンナさん達が大した準備もなしにピュアメイトになれたのは、母親達の素質を受け継いでいるからと思われます。その点、わたしは……」
「君も、元ピュアメイトじゃないか」
「けど、わたしはすぐに……」
「狩屋アンナ達の母親達も、結局は不適合になった。君とは時間の長短の違いしかない」
「長短に意味はあります」
これほどつらそうなお母様も、見たことはない。クララも胸が痛い。
「違いは、君が大人になるのが早かった、それだけのことだろう」
「理由はどうあれ、わたしのピュアメイトとしての経験値が小さかったのは事実です。それがこの子にも――」
「わたし、やります」
クララは声を振るって言った。
「わたしは、自分がアンナ達に劣っていないことを証明します」
「よくぞ言った。君ならできる。ありがとう」
大おじ様は機嫌を直したようだったが、お母様は恐い顔をして、それでも何も言わなかった。クララは心臓がドキドキして胸が苦しかった。けど、後悔はしなかった。
(私が負けなければ、お母様も、アンナ達の母親達に負けていないと証明できる。わたしは胡桃沢クララ。何にも負けない!)
クララは自室に戻ると、携帯電話を取り出し、メッセージアプリを使って栗木さんとやり取りをした。
「吹奏楽部は今どうなっていますの?」
「顧問の音無先生がいなくなってしまったから、廃部にはなっていないけれど開店休業中ですわ」
「時間があったら、わたしに音楽を教えて下さらない? なるべく多くの楽器を演奏できるようになりたいの」
「いいけれど、大丈夫なの?」
「耳なら大丈夫ですわよ」
「よくなったの?」
「そのような所」
「やったね! わたしが音楽の楽しさを、クララに教えてアゲルぅぅぅぅぅ!」
栗木さんはクララに憧れて、一緒に「お嬢様同盟」を結成して日頃はお嬢様っぽい言動を心がけているけど、興奮するとこのように地が出てしまう。やっぱり音楽が大好きなんじゃないの……と、クララは思ってほほ笑んだ。
(続く)