第12話 狼なんか怖くない
三匹の子ぶた編 最終回
狼を名乗る少年の、色白で細面のきれいな……でも表情のない顔は、どこかで見たような気もする……ものの、思い出せない。服は上下とも黒、小柄で華奢な体つき。声は高く、細い。まだ声変わりをしていないみたい。年齢は、わたし達と同じぐらい?……と、ニイナは思う。
とにかく、「狼」の危険さはまるで感じない。
「何をしに来たの?」
アンナがゆっくりと、明瞭に言った。声は落ち着いている……が、いつもより低め。緊張している。油断してはいけない……のかもしれない。
少年は答えない。黙ってこちらを見ている。
「わたし達を食べに?」
ダリヤの声は、逆に普段より上ずっている。警戒心から、クールさが消えている。
「そうだ」
少年は消え入りそうな声で答えた。やはり狼は狼……ということ?……でも、このか弱そうな少年が、わたし達を食べるの?
「それなら、来るのが早い。そうでしょう?」
アンナが言った。声が強まっている。多分、眉間にしわが寄っているはず。
「まだ木の家もできていない。狼が来るのは、レンガの家もできた後よね?」
ダリヤが追撃。少年は答えない、じっと黙って立っている。無表情は変わらない。でも……これは図星? 痛いところを突かれた?
「待ちきれなかったんだよね?」
ニイナは言ってみた。少しこの少年がかわいそうにもなって来ている。
「わたし達は、あなたに食べられる気はない。でも、とうもろこしならわけて上げる」
アンナちゃん、意外とやさしい? 危険は少ないと判断したのかな?……でも、狼はとうもろこし食べられるのか?
とうもろこしを1つとる。立ち上がり、少年にその手を差し出す。歩み寄る必要がないほど、少年は近くにいた。同じぐらいの高さにあるその顔は、うっとりするほどきれい。
少年はちらっととうもろこしに目を落とし、再び目を上げてニイナを見る。黒く澄んだ瞳。ちょっとドキドキする。
「どうぞ」
少年はだまってとうもろこしを受け取った。が、手にしたとうもろこしを見つめたまま動かない。警戒している? 毒が入っているとでも思っている?
「冷めているけれど、おいしいよ」
ニイナは食べかけだったとうもろこしの両端を両手でつかみ、その真ん中にがぶっとかぶりついて見せた。
少年は、まねをするようにとうもろこしの両端を両手でつかみ、口を開いて、そっととうもろこしの黄色い実の中にその白い歯を立てた。ニイナの豪快さはまねしないようだ。
「どう?」
少年は咀嚼し、嚥下した。目線がニイナに戻る。
「温度は低い。塩味と、かすかな甘みがする」
「おいしいでしょ?」
「おいしい、と、人が感じ得る条件は揃っている」
「それで、あなたはどうなの?」
「マイヤは、おいしいと感じるだろう」
「マイヤって、あなたの名前?」
「違う」
結局どうなのよ? 本音をなかなか言わない。狼って、こうなの?……まあ、いいけれど。
「一緒に座って食べようよ。そうすればよりおいしい」
言ってからニイナは振り返った。アンナとダリヤの反応が気になった……わたし、警戒心なさすぎる?
アンナは黙って、それでも腰を浮かして自分の座る位置をずらし、ニイナとの間に隙間を作ってくれた。ただ眉間のしわは寄りっぱなしで、警戒心は解いていない。ダリヤも何も言わないが、にらむように少年を見続けている。
少年は彼女達の感情に気付いているのかどうか、何も言わず表情も変えず、アンナとニイナの間に座り、再びとうもろこしを食べ始めた。
みんな何も言わず、とうもろこしを食べる。
以前のニイナは、人と一緒にいて沈黙が続くことに耐えられなかった。でもアンナと付き合うようになって、少し変わった。アンナは沈黙をいとわない。話しかけても、答えないことさえある。ただそれは彼女が考え事に集中している時なので、気にすることはないのだと、今はわかっている。いろいろな人がいる。千差万別なのだ。
今もアンナは、何かを考えている。それが何かはわからない。でも、眉間のしわが浅くなっているので、多分何かいいことを考えているのだろう。そのぐらいは、わかるようになっている。
「考えたのだけれど」
アンナが言った。さあ始まる。何か意表を突くようなことを言ってくれそう。
「わたし達が家を作るのを、狼に手伝ってもらうのがいいと思うの」
そう来たか! 人手は多い方がいいよね。でも……いいの?
少年は、アンナの方を見ている。でも、何も言わない。いいのか悪いのかわからない。
「確かに、一緒にとうもろこしを食べたんだから、一緒に働くのも当然よね?」
ダリアも言う。ただ食いはさせない、と。なるほど、一つの理屈かもしれない……が、後からそう言うのは、ちょっと詐欺っぽくない?
「早く家が建てば、狼さんにも都合がいいよね?」
ニイナは言ってみた。が……考えてみると、家が建ったらわたし達を食べるターンが狼に回る……ってこと?
「かまわない」
少年はあっさり言った。4人で家作りをすることが決まった。その先にどうなるのかは、はっきりしないが……。
木の家を作る前に、わらの家の屋根にもう少しわらを重ねたい、とアンナが言うので、わらの家に梯子を掛けた。アンナはまず少年に登るように言った。が、少年は梯子の前に立ったまま動かない。
「登り方がわからない?」
ニイナは言った。アンナを見る。アンナがうなずいて、言う。
「では、わたしの言うように動いて。まず、両手を上げて、梯子の両側をつかむ」
少年は、黙って素直に従う。
「左足に体重をかけて、右足を上げ、梯子の一段目に乗せる。
右足に体重をかけて、左足を上げ、梯子の一段目に乗せる。
梯子の両側をつかむ両手の位置を、上にずらす。
左足に体重をかけて、右足を上げ、梯子の二段目に乗せる。
右足に体重をかけて、左足を上げ、梯子の二段目に乗せる」
アンナは省略せず、延々と同じ言葉を繰り返す。ただ梯子の段数だけが増えていく。
少年が梯子を上るに連れ、自然と3人はその下に集まった。少年の動きは危なっかしい。五段目まで登ったところで、少年は梯子から両手を離してしまった。スローモーションのようにゆっくりと、少年の体が背中から落ちてくる。
ニイナも、ダリヤも両手を伸ばした。が、アンナがほぼ1人で少年の背中を受け止めた。少年の落下の勢いはそれでも止まらず、アンナの腰が落ちる。支えようとしてニイナも地面に転がった。痛い。空が見える。
「大丈夫?」
ダリヤの声。ダリヤも地面から身を起こそうとしていた。アンナと少年は半分重なりつつ仰向けに横たわっている。
「大丈夫」
アンナの声。
少年が一番先に立ち上がった。彼も大丈夫みたい。腰を屈めてアンナに両手を差し出す。
「起き上がれるなら手をつかめ。痛みがあるなら動くな」
格好いい……でも、みんながこうなっているのは、君の運動音痴のせいだけれどね。
アンナは黙って少年の両手をつかんだ。少年は、アンナの両手をつかんだまま動かない。やれやれ、ここからどうするかはわからないの?
「狼さん、アンナちゃんの両手を引いて上げて」
ニイナが言ったが、少年は動かない。アンナも言う。
「両足を踏ん張って、体重を後ろにかけて、両ひじを後ろに引いて」
少年が従う。両手を引かれてアンナは立ち上がった。ニイナとダリヤも立ち上がる。
「ありがとう」アンナは言った。
「あなたは下から、上の人にわらを渡す役をやって。これも重労働」
少年は、しかし答えず、空を見上げる。もう労働は嫌になった?
「ナタニエル」
少年は視線を上げたまま言った。
「見ていることは知っている。そろそろ話を進めたい」
すると、今度はダリヤが空を見上げた。しかし、何も言わない。
次いで、アンナも黙って顔を上げる。何?
≪ニイナ≫
声が聞こえる……耳ではない、脳内に、直接話しかけられている?
≪時が来た。変身してくれ≫
変身?
ダリヤが、語り出す。
「純粋なる知性が――」
アンナも、語り出す。
「無垢なる身体に宿る時――」
わかった! ニイナも、語り出す。
「不合理を超越せし合理もまた
自ら超越せられん
イマージュ!
純粋なる真性 ピュアトルスタヤ!」
「純粋なる善性 ピュアチェーホヴァ!」
「純粋なる美性 ピュアドストエフスカヤ!」
一瞬の内に嵐が訪れ、そして去った。光と音と熱と風の余韻さえも消えた後、ニイナは忘れていたすべてを思い出し、知らなかったすべてを知った。ここはピュアバース、わたしはピュアチェーホヴァ。そして目の前の少年はPI、「三匹の子ぶた」の物語をこの世から消した犯人。
変わったのはわたし達。少年は変わっていない。でも、さっきまでと同じ態度はとれない。
「三匹の子ぶたを、戻しなさい」
トルスタヤが言った。単刀直入。
少年は答えない。黙って、無表情で立っている。
「三匹の子ぶたの、どこが不合理?」
ドストエフスカヤが続く。
「わらの家は、もろいけれど早く作れる。レンガの家は、頑丈だけれど時間がかかる。木の家は、その中間。それぞれに作る意味はある」
「それはわかった」
少年が言った。
「では、戻すのね?」
ドストエフスカヤが畳みかける。また少年は沈黙。
「他に理由があるの?」
ニイナは聞いてみた。そんな気がしたのだ。
「なぜ親は、子ぶた達を捨てたのか」
そこ?……えーと、なぜだろう?
ピュアメイト達が答えないからか、少年は途端に饒舌になる。
「子供が大人になって独立するのなら理解する。が、まだ子ぶただ。狼に襲われる危険な環境に子供を残して、親はどこで何をしているのか」
お母ちゃん……ではなかったかもしれないが、ニイナ達を置いて去って行った女性を思い出す。
「ほとんどの生物は、子供を生みっ放しで、育てない」
彼女の発した言葉を、思わず口に出してしまった。ぶたは哺乳類だけれど……。
「理由はある」トルスタヤが言った。
「現代の童話では、倫理上の配慮からぼやかしているだけ。親ぶたは貧しく、子ぶた達を育て切れなくなったから、捨てた。善悪の問題はあっても、不合理とは言えない」
「では、不合理なのは現代の童話作家だ」少年が言った。
「隠ぺいしても悪は残る。何の解決にもならない」
「そこは物語のテーマじゃないよ」
ニイナは言った。少年が振り向く。その顔に表情はなく、平板な口調にも変化はない……はずだが、怒りを感じるのは、気のせいなのだろうか。
「ピュアチェーホヴァが創作を志しているのは知っている」
少年が言う。そう来たか!
「あらゆる創作に不合理が生じ得るのは、そもそも創作という行為自体が、不合理だからだ。創作は作り物。つまり偽物」
「作り物の何が悪いの?」
ニイナは言った。これは反論せざるを得ない。
「作り物を楽しむことが人間の生活を豊かにしている。それなら作り物は善では?」
「作り物と、そうでないものの違いは何?」ドストエフスカヤも言う。
「野生ではなく、畑に植えて育てたとうもろこしは作り物? 品種改良をしたとうもろこしは作り物? 生でなくて、塩ゆでしたとうもろこしは作り物? すりつぶして、スープにしたら作り物? 粉にして、パンに焼いたら作り物?……どこからが作り物?」
「作り物は偽物と、なぜ言えるの?」トルスタヤも言う。
「わたし達の建てた家も、人工の作り物。でもそのおかげで、わたし達は昨日の晩を暖かく、安全に、そして楽しく過ごせたの。今日はあなたも家を作って、自分の家を持てたかもしれない。それは偽物?
鳥の巣も、もぐらの穴も偽物? 自然と人工の違いは何? 自然にできた洞穴に住めばいいの?」
「言いたいことは理解した」少年は言った。
「結論だけ言う。三匹の子ぶたは戻す」
え? 話が通じたの?……今日は何だか素直な気がする。
「言い分を聞いて、その通りにするわけではない。とうもろこしをもらって食べたから、梯子から落ちて助けられたから、見返りに何かをする、ということもない。何者にも制御されないし、いかなる取引もしない。これからも、主体的に行動する。邪魔は許さない」
わらくずが何本か、風に舞った。少年は消えていた。
ニイナが変身した瞬間に思い出したこと。それは今日の状況が、ニイナが構想中の漫画『異世界に転生したら三匹の子ぶたの次男でした!』に似ていたこと。兄や弟と違って、転生前は恋にあこがれる女子中学生だった次男は、やって来た超美男子の狼と仲良くなろうと奮闘する。男女とも男同士とも言える子ぶたと狼の恋の物語は、しかしまだ冒頭の一話しかネームにしていないし、そもそも今日ニイナは、三匹の子ぶたの次男としてずっと男だと自認していた。だから狼に恋心を抱いたわけではなかったが。
建築系コンピュータゲームの中でのように、ピュアバースで一夜を明かしても、現実世界ではそれほどの時間は経っていず、まだ日も暮れていなかった。3人で奈田塾から歩いて帰った。
その途中で、ニイナは見知った人の姿を目にした。
「あれ、胡桃沢さんじゃない?」
ニイナ達の少し先を、胡桃沢さんは足早に歩いている。右に道を曲がって、見えなくなった。
ニイナが曲がり角まで来て右を見ると、少し先に胡桃沢さんが立っていて、髪をひっつめにしたきれいな女性と話をしていた。
「あれ、お母ちゃん?!」
ニイナは思わず叫んだ。正しくは、ピュアバースで子ぶた達を捨てた親ぶただった人。彼女も、そして胡桃沢さんも、両耳にイヤホンをしていた。
(続く)