其の五:執事殿の秘めたる推察、影詠み様(と姫様)お護りミッション!
「……ふむ。本日の影詠み様のご予定は、夜の『パトロール』と、その後はシェルターにてご研究か……。その前に、藤原家の綾姫様は、和歌のお稽古と琴の練習、そして母君様との茶席…と。実に、お忙しいことだ」
都のはずれ、秘密の拠点「朧月邸」の一室で、執事の橘は、手にした小さな帳面に細かく何かを書き込みながら、静かに呟いた。その帳面には、都の不穏な動きと共に、「影詠み」様の活動記録と、そしてもう一つ、彼が密かに「観察」を続けている藤原家の姫君・綾様の日常が、極めて客観的な筆致で記されていた。
橘は、最近、ある一つの「奇妙な可能性」について、密かに思考を巡らせていた。
きっかけは、影詠み様が時折見せる、ほんの些細な「綻び」だった。凛とした少年の声の奥に、ふと感じられる幼い響き。手甲で隠されてはいても、その華奢な体つき。そして何よりも、あの小さな兎の根付……。
それらの断片的な情報が、彼の頭の中で、藤原家の聡明すぎる姫君・綾様の姿と、時折、重なって見えるのだ。
(……いや、まさかな。影詠み様があのような幼き姫君であるなど、あり得ぬことだ。しかし……もし、万が一……)
橘は、その突拍子もない考えを打ち消そうとしながらも、心のどこかで、その可能性を完全には否定できずにいた。
もし、そうだとしたら――。
この幼き方が、どれほどの覚悟と重圧をその小さな肩に背負い、この都の、いや、この世界の危機と戦っておられるというのか。
そう考えると、橘の胸には、畏敬の念と共に、言葉にできないほどの強い「守護欲」のようなものが込み上げてくるのを感じた。
(……いずれにせよ、影詠み様が、我々にとってかけがえのない『希望の光』であることに変わりはない。そして、藤原の綾姫様もまた、この国にとって大切な宝。どちらのお方も、この橘、命に代えてもお護り申し上げるのみ)
橘は、静かに心に誓った。
以来、橘の日常には、影詠み様への忠実な奉仕に加え、藤原綾姫様への「見えざるお護り」が、より一層強化された。
もちろん、綾姫様ご本人には、決して気づかれてはならない。あくまで自然に、さりげなく、だ。
影詠み様の活動と、綾姫様の日常。その二つを繋ぐ「線」は、まだ彼の頭の中で仮説の段階であり、それを確かめるような無粋な真似は決してしない。ただ、どちらのお方にも、最大限の敬意と配慮を払うだけだった。
例えば、綾姫様が和歌のお稽古で、師匠から少し厳しい言葉を受けた、という情報を「影向衆」の者から得れば、橘は「最近、都の学問の風潮も厳しくなっているようですな。若い才能を萎縮させるようなことがあってはなりません」と、それとなく為時に進言し、結果的に師匠の態度が和らぐように仕向けたり。
また、綾姫様が夜、「朧月邸」へ向かわれる(と橘が推測している)時間帯には、その道中の安全を確保するため、橘自らが「夜回り」と称して周辺を巡回し、あるいは「影向衆」の精鋭たちに「不審者の警戒」を強化させたりした。
(……ふふふ。これで、影詠み様も、そしてもしや綾姫様も、より安全にご活動いただけるはず……)
橘は、時折、そんな風に一人悦に入り、自分の計画の完璧さに満足するのだった。
しかし、この橘の完璧すぎる(そして少々行き過ぎた)「お護り」は、時として、綾の秘密活動に思わぬ支障をきたすこともあった。
ある夜、綾が「影詠み」として、都の片隅で起きた小さな怪異(励起光子の影響で、古い井戸から不気味な声が聞こえるというもの)の調査に向かった時のこと。
いつものように、音もなく現場に到着し、フィラのサポートを受けながら原因を特定し、シェルター製の「なんちゃって清めの札」を井戸に貼り付け、さて帰ろうかとした、その時。
「……何奴!」
物陰から、鋭い声と共に、数人の屈強な男たちが飛び出してきた!
(なっ!? 影向衆の人たち!? なんでこんなところに!?)
綾は、一瞬、心臓が止まるかと思った。それは、紛れもなく、橘の配下である「黒子」たちだった。彼らは、最近この辺りで不審な動きがあるという情報を掴み、橘の「遠回しな指示」を受けて、警備を強化していたのだ。
「おのれ、怪しい奴め! この辺りで悪事を働こうというのか!」
「我ら影向衆が、見逃さんぞ!」
黒子たちは、まさか目の前の小柄な影が、自分たちが心から尊敬する「影詠み様」だとは夢にも思わず、完全に「不審者」として取り囲んでしまった。
(ちょ、ちょっと待って! 私よ、私! あなたたちのボス(の更にボス)だってば!)
綾は、内心で絶叫したが、正体を明かすわけにもいかない。
「……誤解だ。私は、ただこの井戸の邪気を祓いに来ただけだ」
綾は、できるだけ冷静に、少年の声で答えた。
「ふん、口では何とでも言えるわ! その怪しげな面と装束、どう見てもまともな人間ではあるまい!」
黒子たちは、ますます警戒を強める。
(……もう、こうなったら……!)
綾は、やむを得ず、ほんの少しだけ「力」を見せることにした。
彼女は、懐から「発光する護符」を取り出し、それをかざすと、周囲の空気が一瞬だけピリリと震え、護符が淡い光を放った。
「……これは……!」
黒子たちは、その尋常ならざる気配に、思わず息を飲んだ。
「……道を開けよ。私は、誰にも縛られぬ影。ただ、この都の安寧を願う者だ」
綾は、そう言い放つと、驚きと戸惑いで動きの止まった黒子たちの間をすり抜け、風のようにその場を立ち去った。
残された黒子たちは、しばし呆然としていたが、やがて一人が口を開いた。
「……今の……もしかして、本物の影詠み様……だったのか……?」
「……だとしたら、俺たち、とんでもない無礼を……!」
彼らは、顔面蒼白になり、その場で土下座せんばかりの勢いで反省しきりだったという。
この一件は、すぐに橘の耳にも入った。
「……なんと。影詠み様ご自身と、鉢合わせてしまうとは……。私の配慮が、裏目に出たか……」
橘は、深いため息をついた。そして、改めて「影向衆」の者たちに、「影詠み様らしき人物を見かけても、決して深追いしたり、無闇に接触したりしてはならぬ。ただ、遠くからお見守りし、そのご活動の邪魔にならぬよう、細心の注意を払うこと」と、厳命を下したのだった。
(……しかし、あの護符の輝き、そしてあの気配……。やはり、影詠み様の力は、我々の想像を遥かに超えている。そして、もしや……いや、今はまだ、推測の域を出まい……)
橘の心の中の「可能性」は、まだ確信には至っていない。
綾は、この出来事に肝を冷やしたが、同時に、橘と「影向衆」の忠誠心の篤さに、改めて感謝の念を抱いた。
(……でも、橘さん、最近なんだか私の周りをうろちょろしすぎじゃないかしら……? もしかして、私が何かヘマをやらかすと思ってる……? 失礼しちゃうわ!)
綾は、橘の「過保護」の真意には全く気づかず、ただただ「心配性な執事さんね」と、少しだけ呆れているのだった。もちろん、自分の正体がバレかけているなどとは、夢にも思っていない。
ナイスミドル執事の、まだ確信には至らない「推察」と、それに基づく過保護な行動は、時に姫君の秘密活動の障害となりつつも、結果的に、彼女を様々な危険から守っているのかもしれない。
そして、その「推察」が、やがて「確信」へと変わる運命の日が、刻一刻と近づいていることを、綾はまだ知らない。
彼女の胃の痛みも、しばらくは続きそうであるが……。