其の三:紫の君の小さな世界、萌え出づる才能と姉への眼差し
綾が「姫君」と「影詠み」という二つの顔を使い分け、都の大人たちを(色々な意味で)翻弄していた頃。
藤原家のもう一人の姫君――綾のすぐ下の妹であり、名をたかこ、後の紫式部と呼ばれることになる少女は、姉のそんな秘密の苦労など露知らず、ひたすらに自分だけの静かな世界に没頭していた。
たかこは、姉の綾とは対照的に、物静かで、人前に出ることを好まず、部屋の隅で書物を読んだり、何かを空想したりしていることの多い子供だった。
しかし、その小さな胸の内には、類稀なる感受性と、そして言葉を紡ぐことへの、熱烈な才能が秘められていた。
彼女は、まだ筆を持つこともおぼつかないような年齢から、周囲の出来事や、人々の心の機微を鋭敏に感じ取り、それを自分だけの「物語」として、頭の中で組み立てていたのだ。
例えば、庭に咲く一輪の朝顔を見ては、その儚い美しさと、やがて来るであろう別離を想い、胸を締め付けられるような切なさを覚えたり。
あるいは、侍女たちの何気ない恋の噂話を聞いては、そこに登場する男女の複雑な感情を想像し、自分なりのハッピーエンドや、あるいは悲恋の結末を思い描いたり。
彼女の小さな頭の中は、常に色とりどりの物語で満ち溢れていた。
そんなたかこにとって、姉の綾は、少し不思議で、そしてどこか遠い存在だった。
姉は、いつも静かで、大人びていて、何を考えているのかよく分からない。時々、難しい書物(綾にとっては反故紙だが、香子にはそう見える)を読んでいたり、庭の隅でじっと何かを観察していたりする。そして、たまに口を開けば、子供とは思えぬような、的を射た、しかしどこか風変わりなことを言う。
(お姉様は、きっと、私とは違う世界を見ていらっしゃるのね……)
たかこは、そんな姉の姿に、畏敬と、ほんの少しの寂しさを感じていた。
しかし、たかこは、そんな姉の「不思議さ」を、決して嫌ってはいない。むしろ、それが彼女の創作意欲を刺激する、格好の「題材」となっているようだった。
例えば、綾が夜中にこっそり寝所を抜け出していること(朧月邸やシェルターへ向かっているのだが、たかこはもちろん知らない)に、たかこは薄々気づいていた。しかし、それを誰にも言うことはなく、ただ、
(お姉様は、きっと、夜な夜な月の使者と逢瀬を重ねているのに違いないわ……。そして、そこで、この世のものとは思えぬ美しい歌を詠み合っているのね……)
と、壮大な恋愛ファンタジーを頭の中で繰り広げているのだった。
また、綾が時折持ち帰る、奇妙な「落とし物」(シェルターの試作品の残骸など)も、たかこにとっては最高のインスピレーションの源だった。
(このキラキラ光る板は、きっと龍宮城の宝物のかけら……。そして、この鳥の形をした木彫りは、お姉様がこっそり育てている、言葉を話す魔法の小鳥に違いないわ……)
彼女の想像力は、留まるところを知らない。
そして、たかこは、それらの空想を、少しずつ、拙いながらも文字にして書き留め始めていた。
母・藤乃が、娘の才能をいち早く見抜き、手習いを始めさせていたのだ。
たかこは、まだ満足に筆も扱えないながらも、懸命に、自分の頭の中に広がる物語を、紙の上に紡ぎ出そうとしていた。
その内容は、姉・綾をモデルにしたと思われる、ミステリアスで美しい姫君が、夜な夜な不思議な冒険を繰り広げる、というものが多かった。時には、月の国の王子と恋に落ちたり、時には、恐ろしい物の怪と対峙したり……。
(……もし、綾がその内容を知ったら、あまりの脚色っぷりに卒倒するかもしれない)
藤乃は、そんな娘の才能を喜びつつも、そのあまりにも奔放な想像力と、そして時折見せる、現実離れした登場人物(明らかに姉の綾がモデル)の描写に、一抹の不安も感じていた。
(この子もまた、綾とは違う意味で、少しばかり『普通』ではないのかもしれないわね……。でも、この才能は、大切に育ててあげなくては……)
藤乃は、たかこの書いた物語を、誰にも見られないように、そっと自分の文箱にしまい込むのだった。
侍女たちは、そんなたかこの様子を、「まあ、たかこ姫様は、本当におとなしくて、読書がお好きなお姫様ですこと。綾姫様とは、また違ったご気品がおありだわ」と、好意的に見守っていた。まさか、その静かな姫君の頭の中で、姉を主人公にした壮大なファンタジー大作が、日夜執筆されているとは、夢にも思わずに。
こうして、姉の綾が都の影で「現実」と戦っているすぐ隣で、妹のたかこは、言葉の力で「物語」の世界を創造していた。
二人の姫君は、全く異なる道を歩みながらも、それぞれが持つ類稀なる才能の蕾を、静かに、しかし確実に膨らませていたのだ。
そして、いつの日か、たかこが紡ぎ出す物語が、この国の文学史に、そしてあるいは、姉の「影詠み」の伝説に、思わぬ形で影響を与えることになるのかもしれない。
それはまだ、誰も知らない、未来の物語。
ただ、幼き紫の君の小さな手は、今日もまた、新たな物語の種を、紙の上に蒔き続けているのだった。しっとりと、そしてどこか面白く。




