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陰陽前夜(おんみょうぜんや) ~綾と失われた超文明~  作者: 輝夜
幕間:励起光子の囁きと二年の猶予 ~綾の鍛錬、晴明の探求~

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其の二:姫様は今日もお忙しい?~大人たちの(ちょっぴりズレた)観察日記~


「……ねえ、おふくさん。綾姫様、最近また一段と……何というか、お変わりになったような気がしない?」

湯沸かし場で、新米侍女のおみつが、古株のおふくにそっと囁いた。

藤原家の小さな姫君、綾様は、このところお稽古事に熱心に取り組まれ、ますます聡明さに磨きがかかっている、と屋敷の者たちは評判だった。しかし、その一方で、どこか掴みどころのない、不思議な雰囲気を漂わせているのもまた事実だった。


「そうねぇ……。和歌のお師匠様も、琴のお師匠様も、姫様の上達の速さと、時折見せる突飛な発想には舌を巻いていらっしゃるそうよ。ただ……」

おふくは、言葉を濁しながら、声を潜めた。

「時々、お稽古中に、ぼーっと遠くを見つめて、まるで別世界にでも行っているかのようなお顔をなさることがあるって……。そして、次の瞬間には、ハッとしたように我に返り、とんでもなく難しい質問をなさったりするんですって」

「まあ! 例えば、どんな?」

おみつの目が、好奇心でキラキラと輝く。


「和歌の師匠様には、『この世の全ての感情を、一つの数式で表すことは可能でしょうか?』とか。琴の師匠様には、『この弦の振動が、目に見えぬ力となって、遠くの物を動かすことは……』とかねぇ」

「……は、はぁ……。さすがは姫様、考えることが我々凡人とは違いますわねぇ……」

おみつは、感心するやら、呆れるやら、複雑な表情を浮かべた。


綾の母、藤乃もまた、娘の最近の様子に、一抹の不可解さを感じずにはいられなかった。

「あの子、確かに以前にも増して学問に励んでいるようだけど……時々、まるで何かに取り憑かれたように集中しているかと思えば、次の瞬間には、魂がどこかへ飛んで行ってしまったかのように放心していることがあるのよ」

藤乃は、夫の為時にそうこぼした。

「特に、夜……。あの子、近頃なかなか寝付けないのかしら。夜中にふと様子を見に行くと、寝床で何やらぶつぶつと独り言を言っていたり、時には、まるで誰かと真剣に議論でもしているかのような寝言を……。それも、聞いたこともないような、奇妙な言葉でね」

(それは、綾がフィラとシェルターでの研究内容について、夢の中で反芻しているのだが、藤乃には知る由もない)


「まあ、子供というのは時に不可解なものだ。特に、綾のように聡明な子は、我々の理解を超えた世界を、その小さな頭の中で見ているのかもしれん」

為時は、娘を信じる父親として、そう言って妻を慰めたが、内心では、あの「影詠み」の存在と、娘の時折見せる大人びた言動が、奇妙な形で結びついてしまうのを、必死で否定していた。

(まさか、まさかな……。綾は、まだ五つの子供だ。あのような……いや、考えるのはよそう)


侍女たちの間では、綾姫様の「不思議ちゃん」ぶりは、もはや日常の話題の一つだった。

「この間なんて、姫様、お庭で蝶々を追いかけていらしたんだけど、急にピタッと動きを止めて、蝶々の羽の模様を、それはもう真剣な顔つきで写生し始めたのよ。しかも、その写生が、まるで生きているみたいに精密で……。終わったと思ったら、今度はその蝶々に向かって、『あなたの飛行パターンには、もっと効率的な軌道が存在します』なんて、真顔でおっしゃるの!」

「まあ! 蝶々に話しかけるなんて、さすがは姫様、お心が優しいのねぇ!」

(……いや、あれは純粋に空力学的な興味からだったんだけど……)

綾の心の声は、もちろん侍女たちには届かない。


「それに、姫様、最近よく『朧月邸』という言葉を口にされるのよ。『今日は朧月邸でお勉強があるから』とか、『朧月邸の橘様が……』とか。一体、どんな素晴らしい場所で、どんな立派な方が教えていらっしゃるのかしらねぇ」

「きっと、帝がお認めになった、特別な学問所か何かよ。でなければ、あんなに聡明な姫様が、あれほど熱心に通われるはずがないわ」

(……朧月邸は、ただの秘密の拠点で、橘さんは執事なんだけど……。しかも、そこでやってるのは、お勉強というよりは、世界の危機を救うための秘密会議とハイテク開発……)

綾は、侍女たちの壮大な勘違いに、もはや何も言う気が起きなかった。


そして、最も侍女たちを悩ませている(そして楽しませている)のが、綾姫様の「落とし物」だった。

時折、綾姫様の部屋や、お庭の隅から、見たこともないような、奇妙な素材で作られた小さな「何か」が見つかるのだ。それは、キラキラと光る薄い板だったり、複雑な模様が刻まれた金属片だったり、あるいは、手のひらサイズの、鳥の形をした木彫り(実はカミカゼくんの試作品の残骸)だったりする。

「まあ、これは何でしょう? 唐渡りの珍しいおもちゃかしら?」

「いえ、これはきっと、姫様がお作りになった『お守り』か何かよ。なんだか、不思議な力が宿っていそうだわ」

侍女たちは、それらの「落とし物」を、ありがたく頂戴し、こっそり自分たちのお守りにしたり、あるいは「姫様は、やはり天界から遣わされた特別な方に違いない」と、ますます姫様への信仰を深めたりするのだった。

(……あれは、シェルターの試作品のパーツとか、実験の失敗作なんだけど……。もう、どうにでもして……)

綾は、もはやツッコミを入れる気力さえ失っていた。


大人たちは、綾の「秘密の二重生活」のほんの断片を垣間見ては、それぞれに(主に良い方向に)解釈し、そして、ますます綾姫様への「尊敬」と「畏敬」と「ちょっぴりの困惑」を深めていく。

そのズレた観察眼が、結果的に綾の秘密を守ることに繋がっているのだとしたら、それはそれで、ある意味、幸運なことなのかもしれない。

そして、綾自身もまた、そんな大人たちの温かくもズレた視線の中で、今日も今日とて、お姫様の仮面を被り、そして夜には影の衣を纏い、世界の平和(と自分の秘密)のために、人知れず奮闘し続けるのだった。

五歳半の姫君の日常は、かくも奇妙で、かくも忙しいのである。

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