其の一:姫君の仮面と影の鍛錬、五歳(と半年)の秘密のスケジュール
都に束の間の平穏が戻り、綾も五歳半を過ぎた頃。
表向きの彼女は、藤原家の姫君として、いよいよ本格的な「お姫様教育」を受ける日々が始まっていた。
朝は、高名な女流歌人を師と仰ぎ、三十一文字の奥深さに頭を悩ませる。昼下がりには、琴の師匠の手ほどきを受け、か細い指で十三本の弦と格闘する。夕方には、母・藤乃から、立ち居振る舞いや言葉遣い、そして貴族の娘としての心得を、それはもうみっちりと叩き込まれる。
「綾様、その和歌の結び、もう少し余韻を残すように……。情景が目に浮かぶような言葉選びが肝要でございますよ」
「姫様、琴の爪の当て方がまだ甘うございます。もっと、こう、水面に小石を投じるように、軽やかに……」
「綾、背筋を伸ばしなさい。姫君たるもの、常に凛とした美しさを保たねばなりませぬ」
(……うう、和歌も琴も、奥が深すぎて全く分からないわ……。それに、この十二単、重くて動きにくいったらありゃしない……)
綾は、内心で何度そう叫んだか分からない。太古の記憶を持つ彼女にとって、この時代の貴族社会の様式美や、情緒を重んじる文化は、時に高度な数式よりも難解に感じられた。
特に、曖昧な表現や、行間を読むことを求められる和歌などは、論理的思考を得意とする彼女にとっては最大の難関だった。
「この『もののあはれ』とは、具体的にどのような感情のベクトルを指すのですか? 数値化は可能でしょうか?」
などと口走りそうになるのを、必死で堪える毎日だ。
しかし、そんな「表の顔」とは裏腹に、夜の綾は全く別の顔を持っていた。
侍女たちが寝静まり、屋敷が深い眠りにつく頃、彼女はそっと寝所を抜け出し、秘密の通路を通って「朧月邸」――橘と「影向衆」が管理する、影詠みの地上拠点――へと向かう。そして、そこから亜空間シェルターへと転送し、フィラと共に「影詠み」としての鍛錬と研究に没頭するのだ。
シェルターの訓練施設では、最新のシミュレーション技術を駆使し、様々な状況下での戦闘訓練や潜入訓練を繰り返す。励起光子を利用した「ハイテク式符」や「カミカゼくん」の改良も怠らない。
「フィラ、この新しい光学迷彩パターン、もう少し周囲の環境光との同調率を上げられないかしら?」
「カミカゼくん、次のターゲットはあちらのドローンよ! もっと連携を意識して!」
そこには、昼間の雅なお姫様の姿はどこにもない。冷静沈着な指揮官であり、飽くなき探究心を持つ技術者としての「影詠み」がいるだけだ。
そして、時には都の夜を「パトロール」することもあった。
まだ力の弱い「怪異」の残滓が、都の片隅で小さな騒ぎを起こしていることもある。そんな時は、「影詠み」としてそっと現れ、開発したばかりの「なんちゃって陰陽術」でそれを鎮める。
それは、彼女にとって、実践訓練であり、同時に、この都を守りたいという強い想いの表れでもあった。
この二重生活は、五歳の少女にはあまりにも過酷なものだったかもしれない。
昼間は、慣れないお稽古事に四苦八苦し、夜は、世界の危機と向き合い、人知れず戦う。
時には、和歌の宿題をしながら、シェルターの励起光子制御システムの設計図を頭の中で組み立ててしまい、歌の内容が支離滅裂になったり。
あるいは、琴の練習中に、ふと「この弦の振動周波数を応用すれば、指向性音響兵器が作れるかもしれないわ……」などという物騒なことを考えてしまい、師匠に「姫様、何かお悩みでも?」と心配されたり。
(……私、本当に大丈夫なのかしら……。このままじゃ、いつか頭がショートしちゃいそう……)
綾は、そんな風に弱音を吐きたくなることもあった。
しかし、不思議なことに、綾はこの二重生活を、どこかで楽しんでいる自分も感じていた。
昼間の「お姫様ごっこ」は、それはそれである種の「ロールプレイングゲーム」のようで面白いし、新しい知識や文化に触れることは、彼女の知的好奇心を刺激した。
そして、夜の「影詠み」としての活動は、自分の持つ力で誰かの役に立てるという、確かな手応えと達成感を与えてくれた。
何よりも、フィラや橘、そして(綾の正体を知らないながらも)献身的に仕えてくれる「影向衆」の仲間たちの存在が、彼女の心の支えとなっていた。
「……まあ、和歌の『もののあはれ』は、励起光子の『ゆらぎの法則』とは、また違った複雑さがあるってことね。これもまた、一つの『世界の理』なのかもしれないわ」
綾は、そんな風に自分を納得させながら、今日もまた、姫君の仮面を被り、そして夜には影の衣を纏う。
その小さな胸には、昼と夜、二つの世界の狭間で揺れ動く、五歳半の少女の、ちょっぴり複雑で、でもどこか前向きな想いが秘められているのだった。
この二重生活が、彼女をどのように成長させていくのか。
そして、その成長が、やがて来るべき大きな試練に、どう立ち向かう力となるのか。
物語は、綾の秘密の日常と共に、ゆっくりと、しかし確実に、その時を刻んでいく。




