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陰陽前夜(おんみょうぜんや) ~綾と失われた超文明~  作者: 輝夜
第三章 励起光子の奔流、試練の二年 ~綾と晴明、迫る刻限に備えよ~

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第十九話:若き牙の好奇心、風の傷の向こう側への誘惑


獣牙の荒野の長老たちが、「風の傷」に対して慎重な監視体制を敷き、若い衆にはむやみに近づかぬよう厳命を下していた一方で、血気盛んな若い世代の獣人たちの間では、その「風の傷」と、その向こう側にあるという未知の世界への好奇心が、日増しに高まっていた。


「おい、聞いたか? また『風の傷』から、面白いモンが『落ちて』きたらしいぜ」

「ああ、斥候の奴らが言ってたな。なんでも、四角くて平べったい板に、奇妙な絵が描いてあったとか……。長老たちは『不吉な呪物だ』とか言って、すぐに燃やしちまったらしいが」

若き「牙」の一人、紅蓮のぐれんのつめのガルは、同年代の仲間たちと、岩陰でそんな噂話を交わしていた。

彼が言う「面白いモン」とは、おそらく綾たちの世界から、何らかの拍子に「風の傷」に吸い込まれた書物か何かだろう。彼らにとっては、理解不能な、しかし興味をそそられる「異世界の遺物」だった。


「ちっ、長老たちは臆病すぎるんだよ。あの『風の傷』の向こうには、新しい狩り場が広がってるかもしれねえってのに」

別の若い獣人、鋭い角を持つ突角とっかくのズゥが、不満げに鼻を鳴らす。

「そうそう! それに、あそこから漏れ出てくる『魂の炎(励起光子)』の流れに乗れば、俺たちの力も、もっと増すかもしれねえじゃねえか!」

ガルもまた、目を輝かせて同意する。彼らは、長老たちが危険視する「風の傷」に、むしろ新たな可能性を感じていたのだ。


彼ら若い世代にとって、長老たちの語る「禁忌」や「畏怖」は、退屈な昔話に過ぎなかった。自分たちの力に絶対的な自信を持ち、常に新しい刺激と獲物を求めている彼らにとって、未知の世界への誘惑は抗いがたいものがあった。

特に、最近「風の傷」から時折聞こえてくるという、微かな「歌のような音」や、「甘い香り」の噂は、彼らの好奇心をさらに掻き立てていた。

(それは、綾たちの世界の音楽や、あるいは食べ物の匂いだったのかもしれないが、彼らにとっては「異界の神秘」としか思えなかった)


「……なあ、ガル。一度でいいから、あの『風の傷』の向こう側を、こっそり覗いてみねえか?」

ズゥが、悪戯っぽい笑みを浮かべてガルに囁いた。

「馬鹿野郎! 長老たちに見つかったら、ただじゃ済まねえぞ! 下手すりゃ、追放だ」

ガルは、さすがに躊躇した。彼も血気盛んではあるが、長老たちの怒りを買うことの恐ろしさは知っている。


「でもよぉ……もし、俺たちが誰よりも先に、あの向こう側の世界の『秘密』を見つけ出したら……そしたら、俺たちも『百獣の王』に近づけるかもしれねえぜ?」

ズゥの言葉は、ガルの心の最も深いところにある野心を刺激した。

獣牙の荒野では、力こそが全て。より強い力を示し、より大きな功績を上げた者が、より高い地位を得る。それは、彼らにとって揺るぎない真実だった。


「……よし、分かった。だが、絶対に無茶はするなよ。ほんの少しだけ、様子を見るだけだ。そして、もし危険だと感じたら、すぐに引き返す。いいな?」

ガルは、数瞬の逡巡の後、ついに頷いた。

「おうよ! さすがはガルだ!」

ズゥは、嬉しそうにガルの肩を叩いた。


その夜。

ガルとズゥ、そして数人の信頼できる仲間たちは、長老たちの目を盗み、こっそりと「風の傷」へと近づいていった。

月明かりに照らされた「風の傷」は、昼間見るよりもさらに不気味で、その奥からは、まるで生き物の呼吸のように、ゆらゆらと異質な「気」が漏れ出している。そして、時折、風に乗って、彼らの知らない、どこか甘く、そして心を惑わすような「音」と「香り」が漂ってくる。


「……おい、本当に大丈夫なんだろうな、これ……」

仲間の一人が、不安そうに呟いた。さすがの彼らも、実際に「風の傷」を間近にすると、その異様な雰囲気に気圧されそうになる。

「びびってんのか? ここまで来て引き返せるかよ!」

ズゥが、仲間を叱咤する。


ガルは、ゴクリと唾を飲み込み、意を決して「風の傷」の縁へと、一歩足を踏み出した。

その瞬間、彼の全身を、まるで冷たい水に浸されたかのような、奇妙な感覚が襲った。自分たちの世界の「魂の炎」とは明らかに異なる、鋭く、そしてどこか心を落ち着かせるような、しかし同時に、体の奥底から力が吸い上げられていくような、矛盾した感覚。

(……これが、異界の『気』……!)


そして、彼は見た。

「風の傷」の向こう側に、ぼんやりと浮かび上がる、見たこともない光景を。

それは、青々とした木々が生い茂り、小さな家々が点在する、穏やかで、そして彼らの荒野とは全く異なる、豊かで平和な世界のように見えた。

しかし、同時に、その平和な世界のあちこちから、黒い煙が上がり、そして、微かに、しかし確かに、人々の悲鳴のようなものが聞こえてくるのを……。

(……なんだ……? あの世界も、決して穏やかではないのか……?)


ガルが、さらにその光景を凝視しようとした、その時。

「グルルルルアアアァァァッッ!!」

突如として、彼らの背後から、長老の一人である隻眼のグゥルの、怒りに満ちた咆哮が響き渡った!

「馬鹿者どもが! 何をしておるか!!」

どうやら、彼らの秘密の行動は、とっくの昔にバレていたらしい。


ガルたちは、慌ててその場から逃げ出そうとしたが、時すでに遅し。

彼らは、グゥルと、彼が連れてきた数人の屈強な戦士たちによって、あっという間に取り押さえられてしまった。


「……お前たちには、後でゆっくりと『お仕置き』が必要なようだな」

グゥルの隻眼が、冷たく光る。

ガルとズゥは、もはや顔面蒼白で、ただただ震えるしかなかった。


若き牙たちの、ほんの出来心による「冒険」は、こうしてあっけなく幕を閉じた。

しかし、彼らが垣間見た「異界の光景」と、そこから感じた「何か」は、彼らの心に、消えない印象を残したかもしれない。

そして、長老たちの憂いは、ますます深まるばかり。

この「風の傷」は、もはや、ただの「穴」では済まされない、二つの世界を繋ぐ、危険な「扉」となりつつあるのだから。



獣牙の荒野の日常は、この「風の傷」の存在によって、少しずつ、しかし確実に、変わり始めていた。

そして、その変化は、やがて大きな嵐となって、彼ら自身にも襲いかかることになるのかもしれない。

若き牙たちの好奇心と野心が、吉と出るか、凶と出るか。それはまだ、誰にも分からない。

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