第七話:都の喧騒、父上の苦労と小さな発見
綾が四歳になる年の秋は、例年になく長雨が続いた。
じとじとした湿気が屋敷の隅々にまで染み込み、人々の心もどこか沈みがちだった。綾の父、中務卿・藤原為時は、このところ特に多忙を極めていた。長雨による河川の増水や、それに伴う作物の不作の報告が、地方の国司たちから次々と寄せられていたのだ。
「またか……今度は山城国で土砂崩れだと? 大臣には何とご報告したものか……」
書斎で、為時は山と積まれた木簡を前に、深いため息をついていた。傍らには、彼の忠実な家司である実直な初老の男、源内が、心配そうに控えている。
「旦那様、お顔の色が優れませんぞ。少しお休みになられては?」
「馬鹿を言え、源内。こんな時に休んでいられるものか。帝のご心痛もいかばかりか……。それに、明日は東宮様へのご進講もあるのだぞ」
為時は、貴族としての華やかな一面だけでなく、実務官僚としての重責も担っていた。その真面目な性格ゆえに、一つ一つの問題に真摯に向き合い、心労を溜め込みやすい質だった。
そんな父の様子を、綾は時折、書斎の入り口からそっと窺っていた。
(お父様、また難しい顔をしている……雨が多いだけで、こんなにも大変なの?)
綾の記憶の中には、天候を予測し、ある程度コントロールする技術すら存在した。この時代の人間が、自然の猛威に対してあまりにも無力であることに、綾は改めて気づかされる。
(もし、私が……いや、まだ無理だ)
ほんの僅かな手助けでもできないか、という思いが綾の胸をよぎるが、すぐに首を横に振る。今の自分にできることは限られているし、何よりも目立つ行動は避けなければならない。
ある日の昼下がり、ようやく雨が上がり、久しぶりに薄日が差した。
屋敷の女房たちが、ここぞとばかりに湿った衣類や寝具を庭に干し始め、にわかに活気づいている。
「まあ、見てごらん、あそこの軒下に大きな蜘蛛の巣が!」
「あらやだ、昨日の雨で蛙がたくさん出てきたのかしら、庭石の陰に隠れてるわ」
きゃあきゃあと騒ぐ侍女たちの声が、綾の部屋まで聞こえてくる。それは、いつもの平和な日常の音だった。
そんな中、綾は秘密の書庫で、新たな「発見」に心を躍らせていた。
それは、古い木簡の束の中から見つけた、一枚の奇妙な記述だった。
「西方より伝来せし『磁石』なるもの、常に北を指し示すという。船乗りこれを頼りに航路を定めるに、大いに役立つと聞く。されど、その理、未だ詳らかならず……」
磁石――。
綾の脳裏に、太古の記憶が鮮明に蘇る。電磁気学、ナビゲーションシステム、そして、それらを応用した様々な装置。
(磁石……! これなら、この世界でも手に入るかもしれない!)
これまで綾が扱ってきた知識は、あまりにも高度で、この世界の素材や技術では再現が難しいものが多かった。しかし、磁石ならば、あるいは天然に存在するものを探し出すことができるかもしれない。そして、それを利用すれば、様々な「仕掛け」や「道具」に応用できるはずだ。
綾は早速、自分の部屋に戻り、侍女にそれとなく尋ねてみた。
「ねえ、いつも北を指す、不思議な石があるって、本当?」
三歳児(もうすぐ四歳)の無邪気な質問に、侍女は少し困ったような顔をしながらも、「さあ……姫様は物知りでいらっしゃいますね。そのような石があるとは、私は聞いたことがございませんけれど」と首を傾げた。
期待した答えは得られなかったが、綾は諦めなかった。
(きっと、まだ知られていないだけだ。あるいは、特別な人しか知らないのかも……)
その夜、為時がようやく仕事を終え、疲れきった様子で自室に戻ると、藤乃が心配そうに出迎えた。
「あなた、お疲れ様でございました。少しお痩せになったのでは?」
「ああ、藤乃か……。いや、大したことはない。それより、綾はどうしている? 今日はあまり顔を見なかったが」
「綾は、相変わらずお部屋で静かにしておりましたわ。最近、何やら難しいことを考えているようなご様子で……。そういえば、先ほど『北を指す石』について尋ねておりましたのよ。どこでお聞きになったのかしら」
「北を指す石……? ほう、綾がそんなことを」
為時は、娘の意外な言葉に少しだけ疲れを忘れたように目を細めた。彼自身、若い頃に唐の書物で磁石の存在を知り、興味を抱いたことがあったのだ。
「あるいは、私の書斎で何か古い書物でも見たのかもしれんな。あの子は、時々、私が読んでいるものに興味を示すことがあるからのう」
為時は、娘の知的好奇心を微笑ましく思いながらも、まさかその知識が遥か太古の超文明に由来するとは夢にも思っていなかった。
大人たちの喧騒と、父の尽きることのない心労。その傍らで、綾は新たな知識の欠片を見つけ出し、静かに探求の歩みを進めていた。
都の日常は、時に慌ただしく、時にのどかに過ぎていく。しかし、その水面下では、小さな姫君による、世界を変えるかもしれない「何か」が、着実に育まれつつあった。
そして、その「何か」が、やがて訪れるであろう大きな変化の時代に、一条の光となることを、まだ誰も知らない。




