第九話:荒野の掟、長老の憂いと若き牙の野心
「獣牙の荒野」――そこは、強きが弱きを喰らう、原始の掟が支配する世界。
その頂点に君臨するのは、代々「最も強き牙」を持つ者が継承する、「百獣の王」とも呼ばれる存在と、彼(あるいは彼女)を補佐する長老たちだった。
長老の一人、隻眼のグゥルは、最近頻繁にその眉間に深い皺を寄せていた。
彼の唯一残った瞳が見つめる先には、荒野の南端に不気味に口を開ける、あの「風穴」があった。
「……また、あの『風の傷』が広がっておるようだのぅ」
グゥルは、低い声で呟いた。その声には、長年この荒野で生き抜いてきた者だけが持つ、深い知恵と、そして拭いきれない憂いが滲んでいる。
「長老様、何をそんなに気にしておられるのですか? あれはただの『穴』。時折、弱っちい小物が迷い込んでくる、ただの『罠』に過ぎませぬぞ」
グゥルの傍らに控えていたのは、若き「牙」の一人、紅蓮の爪のガルだった。ガルは、最近頭角を現してきた有望な若者で、その名の通り、血のように紅い爪と、燃えるような野心をその瞳に宿していた。
彼にとって、長老たちの慎重すぎる態度は、歯がゆくて仕方がない。
「ガルよ、お主はまだ若い。あの『風の傷』から漏れ出してくる『気』の異質さが分からぬか? あれは、我らの世界の『力』とは相容れぬもの。触れれば、我らの牙も爪も、たちまち錆びついてしまうやもしれんのだぞ」
グゥルは、静かに諭すように言った。彼は、若い頃、不用意にあの「風の傷」に近づき、その不可解な力によって体の一部を蝕まれた経験があったのだ。
「しかし、長老様! あの『風の傷』の向こう側には、まだ我らの知らぬ『狩り場』が広がっているやもしれませぬ! 我ら獣牙の民が、新たな血と肉を求め、その版図を広げる絶好の機会ではありませぬか!」
ガルの言葉には、若さゆえの傲慢さと、そして抑えきれない好奇心が溢れていた。彼のような若い世代にとって、長老たちの語る「禁忌」や「畏怖」は、もはや古臭い迷信にしか聞こえないのかもしれない。
グゥルは、深いため息をついた。
「……『百獣の王』も、今のところは静観の構えだ。あの『風の傷』が、我らにとって吉と出るか凶と出るか、まだ見極めがつかぬ、と。軽々しく手を出せば、思わぬしっぺ返しを食らうやもしれんからな」
現在の「百獣の王」は、歴戦の勇者ではあるが、同時に慎重な性格でもあった。彼は、未知なるものに対して、力でねじ伏せるよりも、まず観察し、理解しようとするタイプなのだ。
「ですが、長老様! 最近、あの『風の傷』から、以前よりも頻繁に、そして『質の良い』気が漏れ出してきているように感じます! あれは、我らの力を増幅させる、新たな『糧』となるやもしれませぬぞ!」
ガルは、食い下がる。彼が言う「質の良い気」とは、おそらくこちらの世界に流れ込み始めた「励起光子」のことだろう。彼らの世界の荒々しいエネルギーとは異なる、純粋で高密度なエネルギーは、彼らにとっては未知の、しかし魅力的なものに感じられるのかもしれない。
「……ガルよ、お主の野心は買う。だが、焦りは禁物だ。未知なる力は、時に甘美な誘惑となって我らを惑わし、そして破滅へと導く。今はただ、あの『風の傷』の変化を注視し、来るべき時に備えるのだ」
グゥルは、それ以上は語らず、再び「風の傷」の方へと、その隻眼を向けた。
その瞳の奥には、深い憂いと共に、かつてこの荒野を襲ったという「大いなる災厄」の記憶が、ぼんやりと蘇っていたのかもしれない。
「獣牙の荒野」の支配者層は、まだ、こちらの世界への本格的な侵攻など考えてはいなかった。
彼らにとって、あの「風穴」は、得体の知れない、しかし無視できない「何か」。
一部の若い者たちは、そこに新たな可能性を見出そうとしているが、長老たちは、過去の経験から、未知なるものへの警戒を解いてはいない。
そして、「百獣の王」は、その両者の意見に耳を傾けながら、静かに「時」を待っている。
しかし、彼らが知らないところで、二つの世界を隔てる「境界線」は、確実に薄くなりつつあった。
そして、その「境界線」から漏れ出す「励起光子」は、こちらの世界だけでなく、彼らの世界の「力」のバランスをも、少しずつ変え始めているのかもしれない。
それは、やがて二つの世界を巻き込む、大きな運命の歯車が回り始めた音。
今はまだ、誰もその本当の意味を知らない。ただ、荒野の風だけが、不吉な予感を孕んで吹き抜けていくのだった。




