第二話:観測されし光の異分子、「励起光子」と命名の瞬間
朱雀大路に出現した黒い霧状の「何か」は、橘率いる「黒子」たちの迅速な避難誘導と、綾がシェルターから放った指向性の高周波音波(人には聞こえないが、不安定なエネルギー体には不快感を与える)によって、大きな被害を出す前に霧散した。
しかし、それはほんの始まりに過ぎないことを、綾は痛いほど理解していた。あの「亀裂」が存在する限り、同様の、あるいはそれ以上の異変が、いつどこで起こってもおかしくない。
「フィラ、あの黒い霧のエネルギーパターン、解析結果はどうだった?」
シェルターの制御室に戻った綾は、緊張した面持ちでフィラに尋ねた。
《はい、マスター。極めて興味深い結果が得られました。あの霧状の存在は、先日来観測されている未知のエネルギー粒子が、特定の条件下で凝縮し、一時的に半実体化したものと考えられます。そして、そのエネルギー粒子自体の詳細な特性も、ようやく判明しつつあります》
フィラは、メインスクリーンに複雑な数式とグラフを表示した。
《この粒子は、やはり光子と極めて類似した性質を持ちながら、通常の状態とは異なる、非常に高いエネルギー準位に『励起』された状態を維持しています。そして、周囲の物質やエネルギーと相互作用する際、その励起エネルギーを放出し、対象を強制的に変質させたり、不安定化させたりするようです。また、この粒子自体が、ある種の『情報』を内包している可能性も……》
「励起された光子……。そして、情報も……」
綾は、その言葉に目を見開いた。
太古の記憶の中にも、エネルギーそのものに情報を記録し、伝達する技術の断片があった。しかし、それは極めて高度で、制御の難しいものだったはずだ。
(もし、この粒子が本当にそんな性質を持っているとしたら……それは、ただのエネルギーではない。意思を持った力、あるいは……何かの『設計図』のようなものなのかもしれないわね)
綾は、しばらくの間、スクリーンに映し出された粒子の挙動を示すシミュレーション映像を、食い入るように見つめていた。それは、まるで生きているかのように明滅し、周囲の空間を歪ませ、そして時折、複雑な幾何学模様のようなパターンを形成する。
「……美しいわね。でも、同時に、とても危険な力だわ」
「フィラ、この新しい粒子に、何か呼び名をつけたいのだけど」
綾は、ふと思いついたように言った。
《呼び名、でございますか、マスター?》
「ええ。いつまでも『未知のエネルギー粒子』じゃ分かりにくいでしょう? その性質を表す、的確な名前が欲しいわ」
フィラは、数秒間思考した後、いくつかの候補を提案した。
《「異相光量子」、「高エネルギー励起フォトン」、「カオス・フォトン」……あるいは、創造主たちが用いていた古代言語で、「アストラル・ルクス(星の光)」というのはいかがでしょう?》
「うーん、どれも悪くないけど……もっとシンプルで、本質を表すような名前がいいわね」
綾は、腕を組んで考え込んだ。
そして、ふと、フィラが最初に口にした言葉が頭に浮かんだ。
「……そうだわ。『励起光子』というのはどうかしら?」
「励起された、特別な光の粒子。そのままだし、分かりやすいと思うのだけど」
綾がそう言うと、フィラは数秒間、その名称と粒子の特性データを照合し、
《……『励起光子』。素晴らしいネーミングです、マスター。その粒子の本質的な特徴を的確に捉え、かつ簡潔明瞭。学術的にも、非常に優れた呼称かと存じます!》
と、いつになく興奮した様子で賛同した。
こうして、この世界に流れ込み始めた未知なる力は、綾によって「励起光子」と名付けられた。
それは、やがてこの世界の法則を書き換え、人々に未曾有の厄災をもたらすと同時に、一部の者たちには新たな「力」の覚醒を促すことになる、運命の粒子の名だった。
「さて、フィラ。この『励起光子』が、都のどこに、どれくらいの濃度で分布しているか、リアルタイムでマッピングしてちょうだい。そして、その濃度が高い場所で、何か異常現象が起きていないか、常に監視を続けるのよ」
《了解いたしました、マスター。励起光子分布マップ及び、異常現象早期警戒システムを構築します》
綾は、改めてメインスクリーンに映し出された都の地図と、そこに重ねて表示される励起光子の濃度分布を見つめた。
それは、まるで都全体が、まだら模様の病に侵されているかのようだった。そして、特に濃度の高い場所は、あの「亀裂」が出現した大路の上空と、そして……いくつかの古い寺社や、いわゆる「いわくつきの場所」と言われる地域に集中している。
(これらの場所に、何か共通点があるのかしら……? それとも、励起光子が、そういった場所に引き寄せられる性質を持っているの……?)
綾の探求は、新たな段階に入った。
「励起光子」の正体と、それがもたらす影響を解明し、そして、可能ならばそれを制御する方法を見つけ出すこと。それは、五歳の少女にはあまりにも重すぎる課題だったが、彼女の瞳には、困難に立ち向かう者の強い意志が宿っていた。
そして、綾はまだ気づいていない。
この「励起光子」の奔流は、彼女自身の体の中にも、微細ながらも影響を与え始めているということを。太古の記憶を持つ彼女の特異な体質が、この未知のエネルギーと共鳴し、新たな能力の覚醒を促しているのかもしれないのだ。
それは、吉兆なのか、それとも……。
物語は、ますます予測不可能な方向へと、加速していく。
「励起光子」の名付けは、そのほんの始まりに過ぎなかった。




